春の里山 鶴林寺山   2017.03.12
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春爛漫 鶴林寺遍路道を歩く

春眠暁を覚えず。

今日も目が覚めると8時前。

天気が良いが、遠くの山歩きに出かけるのにはちょっと遅い。

早咲きの桜を楽しみながらの花遍路ウォークに出かけることにする。



道の駅ひなの里かつうらで、昼食のお弁当を購入して出発。

此処のチラシ寿司弁当は金時豆が入っていて、柚子の香りがする。

生名谷川の河畔では桜祭りの準備中。



桜見物の川船もペンキが塗られて準備万端。

ナズナが沢山咲いている。

春の七草で、若苗を食用にする。

かつては冬季の貴重な野菜だったそうだ。

貝原益軒も世捨て人のための食物で味が良いと書いている。



河畔に咲き始めているのは蜂須賀桜だろうか。

白色の桜は満開。



薬師如来を祀っている。「東林庵」が有る。

延暦12年(793)弘法大師が19歳のとき、一草庵であった東林庵に滞在し薬師如来を祀られたそうだ。



大銀杏はまだ芽生えていない。

消防屯所横の彼岸桜は丁度満開。



甘い香りが漂っていると思ったら、ジンチョウゲが満開。

沈丁花の100種以上ある香り成分の中でも有名なのが、リナロール。

クチナシやキンモクセイよりも香りが強く遠くまで届く。



遍路道に入っていく。

鶴林寺までは3.1㌔。



親指で道筋を示している道標。



軒先におミカンが「ご自由にどうぞ」と置かれている。

遍路さん用のお接待だろう。

今日は私達もにわか遍路。

ありがたく戴く。



六地蔵を過ぎると農道歩きとなる。

丁石5本を当村の某氏が寄付したとの石柱。



振り返ると中津峰山。



茅葺き遍路小屋に着く。



河津桜はもう盛りが過ぎているようだがそれでも綺麗だ。



沢山の遍路杖が置かれていた。



暖かくて風も無い。

立ち止まって長閑な農村風景を楽しむ。



大規模ミカン畑の名残の石垣が続く。

遍路観音菩薩が祀られている。

遍路墓だろうか。



15丁の丁石

石仏が祀られている。



1/5位の幅の石段を登り詰めると水呑大師に着く。

お大師さんは水に関わる伝承が多い。

傍のベンチで一息入れる。

先程、お接待で戴いたミカンを食べる。

流石、勝浦のミカンは甘くて美味しい。

この時期の山歩きには、冷たくてジューシーなミカンがとても美味しく感じる。



此処からは史跡の鶴林寺道。



弘化2年の道標。

左へ行くと仁宇谷道と書かれている。

鶴林寺に寄らずに鶴峠から大井町に出て鷲敷方面に向かう道だろうか。



ここまでは新しい丁石。

石の墓標?が祭られている。



しばらく行くと11丁の丁石がある。

この尖り帽子に二本線の入った丁石は、650年前の南北朝時代のものらしい。



10丁を過ぎると大岩がゴロゴロしている所に来る。

この辺は昔は海だったようで泥岩や礫岩が覆い。



淡州三条村十三良 尺子圓信士? と書れた遍路墓が祀られている。

淡州三原郡市組三条村は淡路人形浄瑠璃発祥の地で有り、三番叟などの木偶まわし師がこの地を回っていたという伝承もある。

四国八十八か所順拝遍路の行き倒れを弔うことは、むらの責務であった。

各地に残る遍路墓の多くは、むらの人々が共同して手間や費用を出しあって埋葬供養したものだ。

はじめは杖を土饅頭の上に立てて墓標とし、笠を被せ草履を吊り下げた。

引き取る縁者のない場合には、丸石や平たい並べ石を置き墓じるしとした。

行き倒れの遍路に持ち金があれば墓石を建て供養した。

遍路に限らず行き倒れがあれば、それぞれみなむらじまい(むらで処理する)であった。

このように立派な墓標があるのは、それなりの持ち金があったと思われる。

遍路中に亡くなれば蘇ることができるとの言い伝えもあり、今でも祀られ続けられているのは、ある意味幸せな最後だったのかもしれない。



9丁、8丁と続く。



快適な遍路道を行くと見晴らしの良いベンチに着く。

1月2日に来た時にもあった遍路笠がまだそのまま置かれていた。



眼下に那賀川の流れと大井の町が見える。



先日、若杉山遺跡に行った時立ち寄った旧大井小学校が見える。



5丁を過ぎると通夜堂跡に着く。

新旧のお大師像が祭られている。

右側の像はかなり古い。

この通夜堂は鶴林寺による無料宿泊所。

トイレや井戸があったようだ。



4丁からは石畳道。



3丁からは又疑似木の階段道。



大岩の下にある三体の石仏にお詣りをして少し登ると駐車場に着く。



駐車場は県外ナンバーの車で満杯。

「霊鷲山」宝珠院 鶴林寺に着く。

寺伝によると延暦17年、桓武天皇(在位781?806)の勅願により、弘法大師によって開創された。

境内の山容がインドで釈尊が説法をしたと伝えられる霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていることから、山号は「霊鷲山」と定められた。



苔の緑が綺麗だ。



お不動様にお詣りして本堂に向かう。



本殿の地蔵菩薩にお詣り。

春なので一寸お賽銭を奮発する。



本堂横から鶴林寺山山頂に向かう。



少しばかり尾根道を進むと鶴林寺山

515.9m。



三重の塔横のベンチで昼食。

次々と団体のお遍路さんがやってくる。

柚子の香りと味がするお弁当は、タケノコやキュウリまで入っていて故郷の味。

金時豆の甘さが何とも言えない。



食後コーヒーを飲んで、のんびりしてから下山。



足に優しい自然道を下る。



水で抉れたのか人工で掘ったのか?

深い掘割道が続く。



お地蔵さんのお堂で休憩。



林道工事が更に進んでいた。



人家の横まで下りてきて休憩。

残りのミカンで喉を潤す。

オートバイでお年寄りの男性がやってきてお話をする。

チェーンソーなどを持っていて、遍路道の修復に来られたらしい。

ご苦労様です。

このような人達のおかげで古い遍路道が奇麗に保たれているのだと思う。



奥の院と鶴林寺の分岐の道標がある。

奥の院とは上勝町の慈眼寺のことだろう。



甘い香りが漂ってきたと思ったら、桃の花が咲き始めている。



ちょっとキツイ匂いがしたら白い沈丁花が咲いている。

恐竜の化石が見つかったので恐竜の欄干がある。



また生名谷川河畔に帰ってくる。

こんなところに森城址の標識。

福良出羽守連経は、生夷城(生比奈)主とされている。

この森城が生夷城なのか。

菩提寺は勝浦町棚野の円城寺。

細川讃岐守持隆の遺子掃部頭真之が家臣上大野城 仁木伊賀守 林喜内を伴って勝瑞城を抜け出し 従兄弟の福良出羽守連経の館に身を寄せた。

慎重を期した出羽守は、仁木伊賀守と協議のうえ那賀郡仁宇谷の茨ヶ岡(鷲敷町)に新城を築いて真之の居城とした。



また道の駅によってお買い物。

隣のうどん屋さんで、元勤務していた会社の後輩の宮本氏に挨拶。

久しぶりだがとても元気にしていた。



帰りに前松堂のエドヒガン桜を見に寄る。



河津桜はもう盛りを過ぎていたが、エドヒガンやカンザクラは満開だった。

次はソメイヨシノが咲くのを待つばかり。





総歩行距離 8.8㌔

累計標高差 ±567m

行動時間 4時間27分




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