春の里山 鶴林寺山     2018.03.18
ホームページ 里山倶楽部四国 
桜咲き始める鶴林寺山 -

昨日は、春の社日(産土神
を祀る日で春分に一番近い戊の日)だった。

午前中に上八万町の地神祭の様子を見て回る。



まず団地下の田中地区では、畑の横で10時から自神祭が行われた。

佐那河内村にある大宮八幡宮の井開宮司が神事を執り行った。

此処の地神塔は田中、西地、一ノ瀬地区で一緒に祀られている。

田中地区や西地は徳島市上八万町だが、一ノ瀬は佐那河内村だ。

昔は、田中、一ノ瀬地区も佐那河内村だったのだろうか。




星河内では、宅内神社の宮司さんが朝7時40分頃来られて、神事が執り行われたとのこと。



西光寺も既に神事は終わっていた。



下町でも神事が執り行われたようだ。

細々でも、古くからの神事が引き継がれて居ることは嬉しい。



今日は例年のように、お鶴さんにお参りに行く。

よってね市に車を停めて、生名谷川河畔を行く。

両岸の桜の蕾は、まだ膨らみ始めたばかり。



早咲きの彼岸桜は満開。

例年見事に咲く沈丁花は、何故か切り払われていた。

小さな株が少し残っているので、また大きく育つかも。



鶴林寺への遍路道を進む。



勝浦町特有の砂岩で出来た石垣が続く。

立派な農家が多い。



ユキヤナギが満開。



農道を登って行くと、六地蔵が祀られている。



昔は、見事なみかん園が広がっていたのだろう。

眼下に勝浦盆地が見渡せる。



ヤブツバキや彼岸桜が咲き誇っている。



独特の雰囲気の農道。



茅葺きの遍路小屋には、河津桜が満開。

小屋では外国の青年が食事をしていた。

こんにちはと挨拶してくれた。



シキミの花も沢山咲いている。

遍路杖が沢山置かれている。

ご近所の方が作られたのだろう。



更に登って行くと河津桜の並木道。



丁度花の盛りだ。



丁石なども石垣に取り込まれている。

まるで古代遺跡のような道が続く。



左やまみち 右つる道



ミカン栽培が盛んだった頃の、ミカン貯蔵庫がアチコチに残っている。

最近植えられたという蜂須賀桜は、まだ咲いていない。



遍路墓やお地蔵さん。



農道の終点には、新しい椅子が設置されていた。

コショウノキの花が、ところどころに咲いている。



半分階段の道を上り詰めると、水呑大師に着く。

此処にも新しいベンチが出来ていた。

ベンチでドラ焼きの行動食を食べていると、先程の外国の青年が登ってきた。

大きな荷物を背負っているので大汗をかいている。

お聞きするとニューヨークから来られたそうだ。

東京に住んでいて、四国は初めてだとのこと。

最近、外国の人の歩き遍路をよく見かけるなあ。



「水呑大師」から、『国史跡「阿波遍路道」鶴林寺道』エリアへ。

ここから20番札所鶴林寺まで1.6㎞。

ここには四国遍路最古の丁石[貞治期(1362-1367)]が11基ある。




十二丁までは新しい丁石。



十一丁からは頭が尖って帯が巻いている。

此の形の丁石が四国遍路道では一番古く、南北朝時代のものだとか。



大きな砂岩の露岩が散らばっている。



遍路墓を過ぎると車道を横切る。

自転車の若者たちが快調に通り過ぎていく。



この辺からは傾斜も緩くルンルンで歩くことができる。



八丁を過ぎるとベンチが有り、湾曲した那賀川の流れを見ることができる。

流れが急に曲がっているため、大雨でよく土手が崩れて水害が起こるところだ。

眼下に見える橋を渡ると、太龍寺道となり太龍寺へと続く。



六丁を過ぎると快適な石畳の道。



また車道を横切る。

自転車の集団が賑やかに登って行った。



通夜堂跡に着き、お太師像にお参り。



四丁、三丁を過ぎると駐車場はもうすぐ。



駐車場手前には可愛い石仏が三体祀られている。

この石仏は猟師墓と呼ばれている。



駐車場には先程の自転車集団。

中には12歳で、先日小学校を卒業したばかりの小さな子供も居た。

大人に負けないくらい足が強いのが自慢とか。



山門手前に二丁の丁石。



山門を潜ると、苔が見事な庭園が広がる。



見事な杉並木。



沈丁花のよい香りが漂っている。



まずは太子堂にお参り。



お不動さんの前には木瓜の花がまだ蕾。



本堂に御参りして鶴林寺山山頂へ。



登山道は少し傷んでいる。



鶴林寺山頂上着。

三等三角点「鶴林寺」516.1mがある。



まだ時間も早いので、奥の院への道を下る。

志度町の方々が奉納した道標。

右は立江寺 左は奥の院



奥の院とは、先日御参りした慈眼寺。

ここからでは結構遠い。

石仏が所々に祀られている。



歩き易い道だ。

三町の丁石が有る。




此の参拝路の丁石は、町表示となっている。

町石と呼ぶべきかもしれない。

八町 右やま道 左かくりん寺



これらの町石は全て「福良与兵衛」さんの寄進による。

山門前の福良与兵衛町石には享保三年の名が刻まれていた。

福良さんは勝浦を統治していた福良一族の末裔だろうか。



下るに連れて道が荒れてくる。



この道も「いやしのみち」と呼ばれているのだろうか。

女性の遍路墓。



石標が纏められている所を過ぎると、工事中の場所に着く。

毎年少しづつ工事が進んでいるようだ。



眼の前に稼勢山が見える。

石仏の並ぶ観音堂に着く。



観世音菩薩像の回りに沢山のお地蔵さんが祀られている。

観音堂の前のベンチで昼食。

寒くなってきて暖かい珈琲が美味しい。

食後工事中の道路を横切る。



工事中の道路から向こうは道が解りにくい。

急坂を左へと下ると、勝浦川川畔に降りて横瀬橋へと続く。

右へと車道を行くと、畑の中を久国へと下りていく。

真っ直ぐ下ると、旧の奥の院道となるはずだが入り口が良く解らなかった。

ふと見ると、崩壊した道がコンクリートで補修されていて山道が見える。



タチツボスミレが咲き誇る細い農道を下って行く。



途中で見晴らしの良いところがあり、稼勢山や横瀬の町がよく見える。



つる道十八丁の町石が有る。

大きな墓地に出た。



古いお墓が多い。

尼さんのお墓も並んでいる。

田舎の割には立派な墓標が多い。



突然龍宮城のような鐘楼にであった。

回りに七福神像が祀られている。

近寄ると、突然大音響で鐘が突かれた。

遠くで12時のサイレンも鳴っている。

どうも自動で時報を知らす鐘が鳴るらしい。

12時なので12回鐘が突かれる。

それにしても驚いた。



寺の名前がどこにも書いていない。

奉納板に「大正六年 弐百壱拾円 大阪市南久宝寺町2丁目 桂文七」と書いてある。

桂文七とはまさか桂文楽さんのことではないと思うが?

勧業債権とはなんだろうか?

農業振興のために、勧銀から1枚10円で発行された債券のことで、

クジの割増金が付いており、後の宝クジの元になったとのこと。



ちなみに現物はこんなもの。

桂文七さんは、現金ではなくて、この債権を奉納したのだろう。

ちなみに大阪市南久宝寺とは堺筋、心斎橋、本町の近くで大坂の問屋街。

昔の阿波との物流拠点である阿波座からも近い。

文七さんは、そこで商売をやっておられたのだろう。

大正6年の210円とは、今の百万円ぐらいか。

文七さん、太っ腹。



本堂内は立派。

享保6年の毘沙門像もある。

御本尊の阿弥陀像はどこに祀られているのだろうか。



可愛い子供地蔵も沢山ある。



文政10年のお墓も。



このお寺は真言宗 圓城寺。

淡路の福良から当地に移ってきた福良氏が創建し菩提寺とした。

この鐘楼堂は勝浦八景らしい。

福良出羽守の墓があるらしい。

寺が建っている所は、福良一族が居城とした山分城跡とも言われている。

福良一族と言えば細川家と縁の深い武将。

細川持隆の妹を妻に迎えて細川家の絶対的な側近となる。

細川真之が勝瑞城を抜け出した時に、頼ったとも言われている。



お寺から出てこられた地元のご兄弟らしい男性二人に、お話をお伺いする。

お寺のすぐ下には、古い鶴林寺への道標がある。

横が広場になっていて地神塔が建っているが、もう祀られては居ないようだ。



下っていくと遍路道の標識も有った。



遠くに円城寺の鐘楼を眺めながら農道を歩く。

彼岸桜がもう散り始めている。



国道に出て勝浦高校の前を通ると、久国川でセグロセキレイが餌を探している。

見ているとブルーの鳥が目の前を飛び去った。

カワセミだ。

しばらくするとまた反対に飛んでいった。

カワセミに出会うのは久しぶり。



立派な八幡宮の常夜灯が有るが、何処に社殿が有るかはわからない。

こんな所にも「おくのいん」の標石が。



生名谷川の川畔を歩く、と熱烈歓迎の旗がたくさん立っている。

4月4日に生名川の桜を見に、台湾から豪華観光船の観光客2000名が来られるらしい。

2000名とは凄いなあ。



桜祭りの準備も着々と進んでいる。

台湾の観光客も素晴らしい桜に感激されることだろう。





総歩行距離 8.9km

.累計標高差 ±562m

総行動時間 4時間56分。


 


↑ クリック
ホームページにも是非お立ち寄りください