春の里山 気延山      2014/05/14
ホームページ

- 気延山 矢倉比売神社 矢野古墳 -

気延山は石井町と国府町の境にある標高212.3mの小さな山だが、吉野川の堤防などからはよく目立つ山だ。

3月のウオークラリーの時は鴨島から30㎞コースの丁度中間点に当たる山で過去に2度程通過した。

吉野川南岸の山川町から鴨島、石井そして国府町の南に続く山並みの東端に目立つピークだ。

言わば、徳島西部や中央部の山間部から吉野川デルタ地帯へと下ってゆく山並みの東端である。

気延山は、気延山古墳群と言われる古墳が200余りもあることで有名。

しかも麓には矢野遺跡があり縄文や弥生時代の貴重な遺跡が沢山見つかっている。

また、山麓の杉尾山には大日孁貴神(天照大神)を祀る矢倉比売神社がある。

更に阿波の青石の巨岩を使用した矢野古墳も残っている。

いつかゆっくりと歩いてみたいと思っていたが中々その機会が無かった。

今日はたっぷりと時間をかけて気延山を歩いてみたい。



まずは、考古学資料館に駐車。

すごく広い駐車場に立派な資料館がある。

徳島市内から発掘された縄文時代から弥生、古墳、奈良・平安の考古資料が展示してある。

立派な展示室には誰もいない。



まずは縄文時代の資料

徳島城趾の城山貝塚や三谷遺跡の貝塚関係

矢尻などは総て石で作られている。

サヌカイトが多いのは香川と交流があったと言うことか。

縄文時代の矢野遺跡では竪穴住居跡19棟などの遺構が発見され西日本最大の集落だとされている。

 土器と石器に水銀朱が付いていたが、多くは朱の精製時についたものと見られており、

朱の精製としては全国的に見ても古い段階のものだそうだ。

辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡との関係が気になる。



左は、顔面全体に丸い道具で突き刺した模様がある土製仮面

右は多数の竪穴住居跡



気延山の東麓の矢野遺跡そして眉山の北麓の名東遺跡、庄遺跡そして三谷遺跡

総て鮎喰川が吉野川に流れ込む山裾にある。

当時は海がかなり奥まで入り込んでいたらしいから、鮎喰川が海に流れ込むあたりと言うことも出来る。

離れて、私が住んでいる上八万町に樋口遺跡があるのも注目される。

最近発見された下中筋遺跡と同様に園瀬川が海に流れ込む所にある。

やはり弥生時代は海が八万町あたりまで入り込んでいたらしい。

これらの遺跡の上流は佐那河内や神山でありその奥山は高鉾三山と高根山(柴小屋山、高根山、旭ノ丸)である。

また山並みを西に辿れば焼山寺やお高越山から木屋平へと阿波忌部の里へと続く。



弥生式の土器

名東、矢野、源田遺跡の資料



土器棺と銅鐸

最近、矢野遺跡は徳島県で最大規模の弥生時代の集落遺跡であることが判明した。

現在までに、竪穴住居跡約100棟が見つかっている。

矢野遺跡で発見された銅鐸は突線鈕式と言われ銅鐸の謎を解く鍵となる。

 そのほか、鉄器を製作したと考えられる鍛冶遺構も見つかっており、集落内での鉄器生産を考える上で興味深い。




また宮谷古墳からは六神四獣鏡等の三角縁神獣鏡が多数発見されている。



3世紀後半から7世紀後半まで続いた古墳時代には古墳が出現し埴輪などが発見されている。

宮谷古墳(3世紀後半)や奥谷1号墳(4世紀末)等が気延山にある。

鉄製の甲冑なども現れて鉄文化が栄えていたことが解る。



古墳時代中期になると軍事的意味合いを持つ武具が副葬品となる。

徳島では5世紀中期に前方後円墳の巨大古墳(渋野丸山古墳)が勝浦川下流に現れる。

これは新しい勢力が徳島に出現したことを表している。

中津峰登山口の金谷の踏鞴跡などとも関係あるのかも。

阿波邪馬台国説に神山を中心とする説と

中津峰、日の峰そして津乃峰や見能林付近を中心とした説があるのとも関連しているかもしれない。

近辺には渋野古墳に関連した古墳が数カ所ある。

文化の森縦走路西南端にある経塚古墳もその一つだ。

徳島では渋野古墳を最後に前方後円墳の古墳は消えてしまったそうだ。

この鮎喰川流域の特徴は縄文時代から、弥生、古墳時代を経て現代まで途切れなく豊かな歴史が継続して居ることだ。



資料館で資料を戴いて矢倉比賣神社に向かう。

正一位延喜式官幣大社 天岩門別矢倉比賣神社が正確な名前のようだ。

この立派な鳥居は江戸時代末期の弘化3年(1846年)に作られた物らしい。

この時同時に拝殿や本殿が建て直されたのだろう。



大きな石の鳥居の右には徳島では見慣れた五角形の地神塔。

天照大神が必ず北を向いているらしい。

徳島県では五角形の石柱(地神塔)を地神さんと呼んでい.る。

地神塔は、大地の神・農業の神を祭った塔であり、春分・秋分の日に最も近い戊(つちのえ)の日に、

田の神と山の神が交代するので、農業の始まりと終わりであるという信仰から、鋤鍬を休ませて田畑を耕さないという。

大地の神に、春は豊作を祈願し、秋には収穫を感謝するといった祭が起源と思われる。

ちなみに徳島県では2000基以上もあるそうだ。


祀られている神様は決まっていて

天照大神(あまてらすおおみかみ)最上位の五穀豊穣の神様。

倉稲魂命(うかのみたま)五穀の祖神でオオゲツヒメのこと。

埴安姫命(はにやすひめのみこと)土の祖神。

少彦名命(すくなひこなのみこと)大国主神と共に国作りをしたこびとの神様。

大己貴命(おおなむじのみこと)大国主神の別名。

この組み合わせが何故決められたのかは不明だ。

水の神様が無いのは不思議だなあ。

もしかしたら倉稲魂命=豊宇気毘売神=大宜都比売(オオゲツヒメ)が水の神様を兼ねているのかも。



神社へ続く道には、松熊神社、箭執神社、伊魔離神社が祭られている。

天照大神が降臨されるまで、松熊神社を弓の御倉とし、箭執神社を矢の御倉として、大切に弓矢をあずかっていた。

箭執神社(やとりじんじゃ)に立ち寄る。

天石門別神(あめのいわとわけのかみ)を祀ってある。

天岩戸をこじ開けた神様だ。



手水鉢に天保15年と彫ってある。



小さな古い祠が沢山ある。



気延山散策図を戴いて阿波史跡公園に入っていく。



弥生式時代の竪穴式住居が再現されている。



一面に植えられたタニウツギのピンクが綺麗だ。

ヤマボウシの林の中を登っていく。



新しい木の鳥居があり、明治に作られた長い石段が続く。



長い石段を登っていくと静寂で澄んだ空気を感じる。



石段を登り切ると狛犬が出迎えてくれる。

大粟神社の狛犬と似ている。



境内に入ると桜の木が多いせいか毛虫が沢山ぶら下がっていると地面や石柱などにうじゃうじゃといる。

首筋に落ち込まないように首に手ぬぐいを巻く。




阿波の天照大神と言われる八倉比賣命を祀っている矢倉比賣神社の拝殿は端正で綺麗だ。

此所にも狛犬がある。

比賣と書いて「ひめ」と読む。

媛、日女、比咩、姫と同じで天孫・天神系(天皇やその伴造)の女性を意味する。

「ヒメ」の語源は「日(ヒ)の女(メ)」で、日の女とは、大地に対する太陽の事だと言われている。

矢倉比賣命は阿波忌部の始祖の母神だがこの神社に祀られているのは天照大神だ。

ここの古文書には天照大神の葬儀について、

伊魔離神が先導し、

葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神(天宇受売・手力男神)が葬儀を行った

と、詳細が記さているとのこと。

また、矢倉比賣とは大宜都比売(オオゲツヒメ)の別名であるとも言われていてややこしい。

色々な神社の謂われを調べると古代の女神様はみんな同一神でその時々により名前を変えるのかも?

大宜都比売命=矢倉比賣命=天照大神=倉稲魂命=豊宇気毘売神=卑弥呼

卑弥呼は個人の名前では無く女王という意味であったらしい。

矢倉比賣神社は最初、気延山山頂にあったが、後に峰続きの杉尾山に鎮座したらしい。



石段上の狛犬よりこちらの狛犬が古そうだ。



本殿は木々に埋もれてうまく撮影出来ない。

裏に回ってみると玉垣に囲まれている。

灯籠には元文3年と彫ってある。

1738年のことだ。



本殿の脇には壊れた古い狛犬が置いてある。

相当古い狛犬のようだ。



本殿の右から奥社に登っていく。

小さな祠がある。



更に登っていくと広場となっていて五角形の磐境(いわさか)があり卑弥呼の墓だとされている。

此所が奥の院。

奥の院は海抜116m、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳だ。

後円部 頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。

青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を 組み合せた「つるぎ石」が納められており、永遠の生命を象徴する。

 杉尾山麓の左右に、陪塚を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(海抜212m) 一帯200余の古墳群の最大の古墳である。



この古墳はまだ未発掘らしい。

このように古い謂われのある古墳は発掘するのは難しいだろうなあ。



気延山山頂へは拝殿の左が登山口だが、右へ大泉神社に向かう。

拝殿から右に行くとお稲荷さんがある。

大宜都比売と同一神とされる倉稲魂命がお稲荷さんとして祀られて居ることに関係しているのかも。



お稲荷さんだから狛犬の代わりに狐が居るが、社の前にはこれまた古い狛犬が残って居る。

右前足を招き猫のようにしている。

その手の上に玉が乗っている。

これは珍しい。

この社も昔は稲荷社では無かったのかも。

やはり鉄の橋が架かったので狐を祀るようになったのか?



境内を右に出ると車道があり少し行くと気延山登山口がある。



コガクウツギが咲き始めている。

あれっおかしいなと良く地図を見ると大泉神社はこの道では無い。

引き返す。



また車道を進むと大泉神社の標識がある。

少し登ると新しい鳥居がある。



石の祠が祀られている。

横には5角形の井戸があり綺麗な水が湧いていた。

此所が真名井の井戸かな?



また少し登ると五叉路に出る。

此所はウオークラリーで通ったことがある。

気延山山頂に向かう。



少し登ると三角点の有る気延山山頂212mに着く。

空海、役行者、行基と3大法師の石像がある。

此所を空海や義経が越えていったのだろうか。

ちなみに義経が此所で休憩したため気延山と呼ばれるようになったとのこと。



吉野川平野からよく見える赤白電力鉄塔に出る。

昼食を戴いてから鳥坂城跡に行こうかと思うが大きな蜂がブンブン飛んで怖い。



引き返して東の展望台に行くが木が茂って展望ゼロ。



花畑の展望台に向かう。



竹の階段を下りていくと車道に出て綺麗な花壇のある広場がある。



景色を楽しみながら昼食にする。

眼下に矢野遺跡が有ったと思われる鮎喰川流域を望むことが出来る。



昼食後、資料館に向かう。

車道では男性が黙々と掃除されていた。

おかげで車道や遊歩道は落ち葉一つ無い程綺麗。

車道の終点に竹と木片で作ったカレンダー?があった。



遊歩道を下りていくと廣浜神社がある。



すぐ下に矢野古墳がある。

案内板のとなりには羨道天井石。



この古墳は石室に入ることが出来る。



玄室は南に開口する両袖型横穴式石室で、全長12m、玄室長さ3.8m、幅2.4m、高さ2.5m、羨道長さ3.9 m。

奥壁には巨大な結晶片岩の一枚石が使用されており、玄室側壁の基底部と天井にも巨石を使用。

玄室の平面プランは長方 形を示し、天井部は天井石を前後に持ち送ることで一段高く構築している。

玄門部両側に立石を配している。

阿波の青石がふんだんに使われて、とても緻密に作られている。



このように素晴らしい古墳が残っていて誰でも自由に入ることが出来るとは初めての経験。



古墳から矢野城趾に向かう。



テリハラノイバラやタニウツギが綺麗だ。



ユキノシタが咲いている。




アマ無線の大きなアンテナが立っている家の上には奥谷1号墳がある。



県内唯一の土盛り前方後方墳だそうだ。

一部墓地になっている。




すぐ近くの矢野城趾にある城山神社に行く。

この社殿は平成16年に、矢野駿河守の子孫で東矢野出身のマルヨシスーパー創設者である矢野憲作氏が
私財を投じて再建したのものだ。

シルバー大学で出水康生先生の講義を受けた時「あなたのルーツ」という本を戴きました。

矢野憲作氏と出水康生先生の共著となっているこの本に再建の模様が事細かく記されています。


徳島県民読本」の編集後記の次の言葉に心打たれたとのこと。

「徳島県民諸君よ郷土の歴史にプライドを持って大志を抱け」



三好義賢の重臣である矢野国村が築城したらしい。



灯籠の寄進年月は明治34年

社伝の右にある青石の石積みの上には古い祠と文字の読めない板碑などが残されている。



三好長慶等の話になるとまた長くなる。

また後日ゆっくりと調べよう。



矢野城趾から資料館に戻り買い物をしてから帰宅。

今日は楽ちん山歩きだったが暑い一日だった。

シャワー後のビールがまた美味しかった。

注:古代史等に関する記載は私の個人的感想であり史実に基づいたものではありません。




里山倶楽部四国編 

ホームページにも是非お立ち寄りください