春の里山 気延山 茶臼山      2014/05/17
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- 気延山 茶臼山(鳥坂城趾) 尼寺古墳 -


今日は良い天気。

しかし昨日の疲れが残っている。

近くの里山を散策することにする。

先日、気延山を歩いた時に宮谷古墳や茶臼山の鳥坂城趾そして尼寺古墳に行けなかった。

今日は宮谷古墳や鳥坂城趾そして尼寺古墳にも行ってみよう。



資料館駐車場の街灯には銅鐸が。



矢倉比賣神社の鎮座する杉尾山は矢野神山と呼ばれていたようだ。



宮谷古墳へは竣工記念碑から左へと行く。



宮谷古墳は3世紀後半、古墳時代初期につくられた県内でも最古級の前方後円墳だ。

3世紀、徳島や香川などの古墳は、墳丘全体を石を積み上げてつくった積石塚が主流だった。

墳丘も低く、形も平たいものだった。



しかしこの宮谷古墳は近畿の特長を持ち墳丘が丸く高い。

(現在は墳丘の上部が水平に削られている。)

当時としては異質なものであったことがよく解る。

全長6メートル、幅1・3メートルの長大な竪穴式石室があり、床には粘土が敷きつめられ、木棺がおさめられていたそうだ。

平成元年、発掘調査から近畿地方と密接な関わりがあったことを示す決定的な証拠が見つかった。

それは三角縁神獣鏡だ。

古墳時代初期の3世紀、勢力を拡大していたヤマト政権を代表する鏡だ。

しかも3個も

三角縁神獣鏡は、鏡の周りが三角形に盛り上がっていることと、背面に神や龍、虎などの獣が描かれている。

邪馬台国の女王卑弥呼が中国 魏の皇帝からもらったものともいわれ、

徳島県内では、この宮谷古墳でしか見つかっていない貴重な鏡だ。

しかも京都のだいり古墳や奈良の黒塚古墳で出土した鏡と同じ鋳型でつくられた同氾鏡だったことが解っている。

この時代に阿波とヤマト政権とはどの様な関わりがあったのだろうか。



宮谷古墳の標高はそう高くないがロケーションが良くて矢野の集落を一望出来る。

竪穴式石室に割竹形木棺が納められていたが頭は東を向いていたという。

東は丁度矢野集落の中心部から吉野川河口そして近畿方面だ。



墳丘は二段となっていて周りには青石により土止めの補強がされているようだ。



1700年も前の石組みがまだ残っているのだろうか。

埋葬品に鉄斧や鉄剣が有ると言うことにも興味が引かれる。



ツマグロヒョウモンがひらひらとやって来た。

今年初めての出会いだ。

じっと見ていると、何時ものように足下までやって来て私を見てねと翅を動かしている。



ゆっくりと宮谷古墳を見学してから矢倉比賣神社に向かう

途中、松熊神社に立ち寄る。

先日お参りした箭執神社は矢の御倉で松熊神社は弓の御倉として弓矢を預かっていたという。

祭神は手力男命と天宇受女命だ。

共に天岩戸で活躍した神様だ。



神社は前室のような所があり天井には船の竜骨のような木材が使われている。

本殿の土台は精巧な青石で出来ている。



石段にも古い青石が使われており小さな社ながら威厳がある。

この神社も、松熊古墳と言われている古墳の上に建っている。



少し行った左にも古墳らしき丘の上に石積みがあり社が祀られている。



矢倉比賣神社にお参りをする。



気になっていた稲荷社について宮司さんから色々説明を戴く。

やはり最近、元々あった祠から稲荷社に建て替えられたそうだ。

理由は?だとか。

左の狛犬は右前足の上に玉をのせているが非常に珍しいとのこと。



赤い社の後ろに古い石の末社がある。

この社が元々祀られていた社かな?

右の狛犬は左の狛犬とは対では無いようで二匹?が並んでいる。



本殿は木々に囲まれていて写しにくい。

此所にもものすごく古い狛犬が置かれている。



石の狛犬がこのように朽ちたようになるのにはどのくらいの年月がたっているのだろうか?

狛犬の石材には色々あり、徳島では中央構造線に沿って産出される和泉砂岩が多いが凝灰岩なども使用される。

どちらにしても加工しやすいが脆いのかもしれない。

明治以降は狛犬は硬い花崗岩などで作られていて、風化しにくいるものが多くなっているようだが。


北山裾にある「白鳥宮」にも古い狛犬が沢山残っているそうだが一度見に行きたい。



常夜灯には寬延2年(1749)の年号が読み取れる。

随分と古いが余り痛んでいない。



本殿の左から気延山に向かう。

此所にも古墳が..



見晴らしの良い所に出る。

正面には建治寺と森林公園のある竜王山。

その左奥には大川原高原。

神山の山々がよく見える。



気延山頂上に着く。

三頭三角点「行者森」がある。

役行者の像があるから「行者森」なのかな?

電力鉄塔から茶臼山の鳥坂城趾に行こうとするが大きなハチがブンブンと飛び回っている。

まるで見張っているように道の真ん中に何匹もホバリングしている。

こりゃかなわんと家内はさっさと引き返す。

このまま帰るのは残念なので農大の方から回ることにする。



ウオークラリーで歩いた道を鉄塔まで行き、野鳥観察路を引き返すように進む。



静かで野鳥の鳴き声だけが響き渡る。



農大は去年新築移転したようだ。

小さな神社がある。

石の鳥居にも神社の名前が書かれていない。



石段を登ると綺麗に整備された境内奥にこじんまりとした拝殿がある。

狛犬には慶応2年と彫られている。

幕末の時に建てられたようだ。

静かな良い雰囲気の神社だ。

神宅(かんやけ)神社と言い祭神は屋船句句廼知命、屋船豊受姫命を祀っているそうだ。



本殿らしきものは無くて裏の一段高い所にある屋船句句廼知命、屋船豊受姫命の祠をお祈りするのかな?



この辺は立派な家が多い。

豪農だったのかな。

立派なお寺もある。



此所にも地神塔があるが青石をふんだんに使って立派だ。



これは珍しい。亀の上に乗っている。

やはり天照大神の面が亀の頭とともに正確に北を向いている。

丸や四角の台座だとどちらが前かわからないが亀の頭がある方が前だと解る。

しかも前には案(あん)のような古い青石で作った机が有る。

此処に神具や供物を置いて祀ったのだろう。


なぜ5角形なのか?

五穀豊穣を意味するのか?

はたと思いついた。

最上位の神である大照大神を中心にして、左右に二神を従えているのではないか。

そして天照大神を太陽の神とすると、太陽はお昼には南の空にあるので南に向いて拝まなければならない。

その為には天照大神と彫った面は北に向けて設置することになる。



雨だれの後のような穴が無数に着いている石が?



小さな祠が祀られている。

何の神様かな?



畑の中や道端にも沢山の道祖神?が祀られている。



白鳥宮がある。

鳥居前の石碑に「日本武尊 両国一社」とある。

ここから香川の白鳥神社へ分祀したそうだ。

倭建命を祀っている。

香川の白鳥神社には良くお参りに行ったが此所が元宮だったとは。

立ち寄りたいがお腹もすいてきたまた今度にしよう。



暑くなってきたのでコンビニにより冷たい飲料を買い二人で一気飲み。

炭酸レモンが入っていて疲れが吹き飛ぶ。

サンピアの看板から右に曲がり途中で左へと尼寺古墳群に立ち寄る。



孟宗竹の立ち並ぶ中を登って行く。

石積みがあるが古墳とは関係ないようだ。

この石積みは、阿波国一の城海城(あまぎ)の有った所だと言われているらしい。

気延山古墳群の中でも一番北東の端にあり山城を築くのには適していたのかも。

ピークに電力鉄塔がある。



藪の中に入っていくと四等三角点「尼寺」41.4mがある。



結局古墳跡らしき物は見つからず下山すると仏壇のもりの横に出た。



先に進むと御瀧神社があった。



尼寺村と元文の年号が彫られている。

此所にも地神塔がある。



尼寺分校への道を曲がる。

山間の分教所のような建物がある。

となりには立派なプールがあるが今でも使われているのだろうか。



国分寺尼寺跡に立ち寄る。

発掘跡は白い土に覆われて何も無い。

国指定史跡とはとても思えない。



また尼寺古墳群入り口に向かうと鳥坂城趾入り口がある。

大きなお地蔵様が祀られている。



尼寺村は豊かな村だったようだ。



山道を登っていくと鳥坂城本丸跡の標識。



土塁、堀切が残っているが曲輪内などは藪状態だ。



源頼朝の命によって阿波の守護職として佐々木経高が鳥坂城を文治2年(1186年)築城した。

経高は多くは京都に住み次男高兼を守護代として置いた。

承久の乱の後は佐々木氏に代わって小笠原長清が阿波国守護となり佐々木氏の籠る鳥坂城を攻め佐々木氏を排除した。

高兼は鬼篭野まで逃げたが弓を折り自害した。

鬼篭野には弓折の地名が残る。



一旦下って鉄塔保線路を西に向かう。



進んでいくと鉄塔があるがそのまま進む。



コルクの木が多いがどうもおかしい。

ドンドン標高が上がっていく。

どうも先程の鉄塔から左に曲がらなければならなかったようだ。



お腹がすいたので鉄塔広場で食事をしようと思ったが毛虫だらけで座れない。

立ったままでおにぎりを一つ食べてまた登って行く。

大きな桜の所にも分岐があるがこの道は危険だそうだ。



また朝の赤白鉄塔まで登り気延山山頂へ。

もうハチは居ない。



お花畑の展望所でやっとこさと腰掛けて遅い昼食。

帰りの道沿いにはエゴノキが満開



また古墳の間を下りて駐車場に帰る。

気延山付近には古墳や歴史のある神社が沢山残っている。

しかし何処へ行っても殆ど誰にも出会わないのは寂しいなあ。



総歩行距離 10.7㎞

累計標高差 ±582m

総歩行数 20,820歩

注:古代史等に関する記載は私の個人的感想であり史実に基づいたものではありません。

里山倶楽部四国編 

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