阿波歴史史料集

三木本家と天田分家
――失脚・紙業・養子縁組からみた木屋平の地域有力者層

はじめに 「古い家」がそのまま続いたのではない

美馬市木屋平に所在する三木家は、阿波の麁服・忌部伝承を考えるうえで重要な家である。現在の三木家住宅は江戸前期の建築とされ、国指定重要文化財となっている。文化庁の国指定文化財等データベースも、三木家について「地方武士の系譜をひき、江戸時代には庄屋を勤めた」と説明している。

しかし、三木家の歴史を「古代の忌部→中世の三木家→江戸時代→現代の麁服」という一本の連続した線として理解するだけでは、近世史料から見えてくる重要な事実を見落としてしまう。三木家は江戸時代の途中で一度大きく失脚し、庄屋職と身分的な特権を失い、さらに当主・嫡男の死によって男子後継者が途絶えるという家そのものの危機を迎えているからである。

ところがこの家は消滅せず、本家の女性たちが深い関係を持つ天田家から男子を迎えることで存続した。しかも天田家は単なる親戚ではなく、三木家に代わって庄屋職を担い、18世紀後半には紙業において地域の生産者に元入銀を貸し、紙を集荷して販売するほどの経済力を持つ家へ成長していたのである。

本稿では、この過程を「三木本家の没落」→「分家・天田家の成長」→「天田家から三木本家への養子」→「由緒による三木家の身分回復」→「紙業・土地・金融による経済的再生」という流れとして捉える。そして、その近世的基盤がいかにして近代の大嘗祭(麁服貢進)へと接続していったのかを明らかにする。

第一章 三木本家の没落と天田分家の台頭

1. 三木家の失脚と三重の危機

三木家は近世の三ツ木村で庄屋を務めていたが、三木家文書に残された寛政期の家筋関係文書には、祖父長左衛門について「不心得之儀有之 庄屋役御召放被仰付候」と記されている。徳島県立文書館の調査によれば、土地取引に関わる不正事件により、庄屋役とともに小家の夫役免除や藩主への御目見などの身分的諸権利を失ったとされる。これは単なる役職の交代ではなく、「庄屋を務める旧家」から「庄屋職を失った旧家」への転落を意味した。

さらにその後、当主が死亡し、嫡男も早世したことで、家督を継ぐ男子そのものが失われた。庄屋職を失っていても、家名と財産と由緒を保持していれば再生の可能性はあるが、後継者まで失えば家は断絶する。三木家は「社会的失脚」「経済的打撃」「後継者断絶」という三重の危機に陥ったのである。

2. 天田家の登場と庄屋職の継承

三木家の再興を考えるうえで最も重要なのが天田家である。徳島県立文書館の調査報告では、三木家の女性たちは親戚で庄屋役を引き継いだ天田家から恒太を跡取り養子として迎えたとされている。三木家文書の研究においては、天田家を明確に「三木家の分家」と位置づけている。一次史料から確認できる公式報告(親戚)と研究上の位置づけを区別しつつも、本稿では天田家を「三木家の分家として位置づけられている家」として扱う。

本家である三木家が失脚した後、分家とされる天田家が三ツ木村の庄屋職を担うようになった事実は、親戚関係以上の意味を持つ。三木家が失った村政上の地位を天田家が引き継いだのである。ここには「本家が衰退し、分家が成長し、その分家が再び本家を支える」という構造が見える。

3. 古文書が示す「天田」と「三木」の古い関係

天和元年(1681)の文書(B35「乍恐申上御訴訟之事」)は、三ツ木村庄屋長右衛門による苗字・刀番赦免に関する訴訟であり、三木家の祖先と天田姓との関係を示す重要な材料である。これによれば、三木・天田両家は後世に突然結びついたのではなく、近世初期から複雑な同族関係を持っていた可能性が浮かび上がる。天田家は単なる外戚というより、三木家を中心とする同族集団の中から分岐した家として考える方が史料に適合する。

4. 寛政期、天田家から本家への養子縁組

寛政期に入り、「三木家顛末」の文書に記される通り、男子のいない三木家に天田武之丞の次男・恒太が養子として迎えられた。これは単なる養子縁組ではなく、「本家から分家が生まれ、分家が庄屋として成長し、本家が危機に陥ったときに分家から男子が本家へ戻る」という、両家の歴史構造を示す極めて重要な出来事であった。

第二章 天田家の経済的成長と三木家の紙業・金融への展開

1. 天田元助と三ツ木村の紙業

阿波では宝永3年(1706)に和紙が藩の専売となり、三ツ木村でも紙漉が盛んになった。寛政2年(1790)の「阿波麻植両郡一昨年以来扱手懸御用方申上帳」によれば、三ツ木村は紙漉を助成し、女性まで習得して紙漉をしない家がないほどであった。

ここで特筆すべきは、庄屋・天田元助が「元入銀を貸し、余分の紙を買い調え、紙方へ出す」という活動を行っていたことである。天田家は紙を漉く家ではなく、資金(元入銀)を貸し、生産された紙を集荷し、流通させるという仕組みを作っていた。金融と集荷と流通を結びつけ、紙業を動かす家となっていたことが、天田家の経済力を考えるうえで決定的に重要である。

2. 「三木家の再興」と広域流通網への接続

天田元助が紙業で得た利益を直接三木家再興に使ったという直接証拠はまだない。しかし、天田家が紙業を発展させて庄屋として力をつけ、そこから恒太が養子に入ったという時系列を踏まえれば、天田家が形成した人的・行政的・経済的基盤が本家再生を可能にした背景であるという仮説は十分に成立する。

再興後の三木家文書(B23-1、B32、B33「紙方問屋の件」、B31「紙調商事」など)を見ると、19世紀には三木家自身も紙商売に関わっている。特に大坂の近江屋金兵衛との書簡が残されていることから、三木家は木屋平の山間部にとどまらず、「山村の紙漉人→地域の庄屋・紙商人→紙方→大坂商人」という広域的な流通網につながっていたことがわかる。

「紙で財を成した」というよりは、「紙業をめぐる金融・集荷・販売・取引のネットワークに入ったことで庄屋層が経済力を形成した」と表現すべきである。

3. 土地と金融の中核としての天田家

経済構造は紙業だけでは理解できない。目録には年貢米不足や金銭貸借の訴訟(B25-1、B25-2、B26)があり、寛政9年(1797)の土地証文(B38)には庄屋天田武之丞が証人として、文化8年(1811)の証文(B48)には庄屋天田基助が署名している。天田家は庄屋であると同時に、土地・米・金融・紙業に関わる地域経済の中核であった。この複数の領域で蓄えられた分家の力があったからこそ、危機に陥った本家を支えられたのである。

第三章 由緒による身分回復と両家の役割分担

1. 由緒書を通じた身分回復

三木家再興に際して提出された古文書・由緒書は、単なる歴史の記録ではなく、失脚した家が「自分たちはどのような家なのか」を藩に説明し、現在の社会的地位を回復するための社会的資源であった。その結果、寛政7年の調査で「格別旧家之者」と認められ、「此後苗字並本人惣領夫役御免」として具体的な身分的待遇を取り戻した。これにより、由緒・家筋による「第一の再興(社会的再興)」が果たされた。

2. 三木家の「過去の由緒」と天田家の「現在の力」

両家の役割を整理すると、「三木家=古い家筋、古文書・由緒、旧家としての格式、本家」という側面と、「天田家=村政、庄屋職、紙業、元入銀、分家」という側面が対比される。19世紀には三木家も紙業・金融に進出するが、基本的には「三木家の歴史的由緒」と「天田家の近世後期の地域経済・村政」という二つの側面が相互に補完し合っていた。

三木家の幕末の成功は、「昔から豊かな名家だった」という単純な話ではなく、「一度失った地位を、人的ネットワーク・由緒・紙業・土地・金融を組み合わせて再構築した」という歴史の結果なのである。

3. 天田家の存続と近代村政への接続

重要なのは、恒太を三木家へ養子に出した後も天田家が消滅せず、明治3年(1870)の史料(B27)にも「三ツ木村庄屋天田輝太郎」として登場することである。江戸時代の庄屋家がそのまま近代の村長へと単純に連続するわけではないが、村政を担う人的基盤が旧庄屋層から継承され、天田家が近代においても地域社会の有力者として存続した事実が確認できる。

第四章 近代大礼への展開――天田村長の指揮と川井地区への拡大

近世において三ツ木村の行政と経済を牽引し続けた天田家の人的基盤は、近代に入り木屋平の行政組織へと引き継がれていった。大正・昭和期に木屋平村長を務めた天田信一は、まさにこの庄屋・天田家の系譜に連なる人物である。

大正4年(1915)、三木宗治郎が「三木由緒」を根拠に国へ陳情を行い、麁服貢進が復活した際、県知事から調進者の指定を通達されたのは天田信一村長であった。天田村長は自ら作業の監督にあたり、完成した麁服の奉送にも同行した。さらに昭和3年(1928)の昭和天皇大嘗祭においても、天田村長が実務を指揮したが、この時、特筆すべき事業の「拡大」が起こった。

昭和期の貢進では、9月13日の麻紡式が「川井日吉神社の拝殿」で挙行され、麻を紡いだのも「川井の女子青年8人」であった。つまり天田村長の指揮下において、麁服貢進は「三ツ木地区・三木家の事業」から、元川井村の住民や施設をも巻き込んだ「木屋平村全体の事業」へと発展したのである。

この地理的・人的な広がりを可能にした背景には、近世に天田元助が築き上げた紙業のネットワークがある。農村の女性たちを組織し、資金を貸し付けて広域で労働力を結集させるという「山村の生産者を組織する地域社会の能力」が、近代において天田村長による全村規模の麁服調製プロジェクトとして見事に転用され、結実したのである。

第五章 平成の麁服貢進――地域ネットワークの完全な結実

昭和期に培われた「木屋平全体の事業」という土壌は、平成2年(1990)の大嘗祭において最高潮に達する。平成の貢進は憲法上の理由から行政の支援を受けられず、藤田巌夫村長を発起人とする民間の「麁服貢進協議会」によって進められた。

技術も道具も失われた状態から、村民が交代で24時間態勢の警備を行い(延べ200人が参加)、1300万円余りの事業資金は寄付で賄われた。麁服出発式は昭和期に麻紡式が行われた川井地区の「川井運動場」で行われ、約350人の村人が集結する一大イベントとなった。

公的資金なしにこれほど大規模な事業を全村民一致で完遂できた事実は、木屋平という地域社会が持つ圧倒的な組織力と経済的蓄積を証明している。これは、江戸期に天田家が紙業を通じて形成し、近代に天田村長が川井地区を巻き込んで拡張した「山村の人的・経済的ネットワーク」が、現代において花開いた姿に他ならない。

おわりに

三木家の歴史を考えるうえで最も重要なのは、「古代から続いている」という一点ではなく、「一度、消滅しかけた家が、どのようにして再生したのか」という問題である。三木家は江戸中期に失脚したが、天田家からの養子縁組と古文書の提出により、家名と旧家としての公的認定を取り戻した。一方の天田家は庄屋として成長し、紙業における元入銀の貸付や流通を通じて、強力な経済的・行政的基盤を形成した。

そして近代以降の大礼において、三木宗治郎が「三木家の歴史的由緒」を武器に麁服復活を認めさせ、天田信一村長が「村の行政力と、紙業以来の村落ネットワーク」を用いて川井地区を含む村全体の事業へと押し広げた。

麁服伝承は三木家単独の歴史ではない。由緒を保持する本家・三木家と、村政・経済を担う分家・天田家、そして紙業を通じて編成された川井を含む木屋平の地域社会が、危機に際して相互に支え合い、時代ごとに形を変えながら一つの巨大な伝統を維持してきた歴史として捉え直すべきである。

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