三木宗治郎は、遠祖以来の職分である麁服貢進についての運動を始め、「三木由緒」「阿波忌部麁服奉仕の由来」などのパンフレットを作ってその筋に陳情した。宮内省へは三ッ木出身の漢学者山田貢様(後に宮内省御用係として明治天皇御記編集に奉仕した)を通じて運動を進め、また徳島の生んだ歴史学者喜田貞吉博士の意見などを参考にして、ついに大正四年(一九一五) 六月には徳島県知事末松偕一郎に大礼使から「大嘗祭の儀に於て悠紀殿主基殿の神座に奉安する麁服は阿波国より調進せしめることに決定したから適当な調進者を指定して麁布四端(悠紀殿主基殿各二端寸法 鯨尺幅九寸さらしこう 長さ二丈九尺)を調進せよ」との通達があったので、知事は当時の木屋平村長天田信一を通じて三木宗治郎を調進者と決定した。これは本人はもちろん、 村にとっても名誉なことであった。
麻糸は木屋平村において調製し、布は山瀬町の忌部神社境内に織殿を新築して織り上げることになった。麻の栽培は海部郡(現在那賀郡)木頭村北川で行い、八月十日から木屋平村谷口神社の拝殿で麻糸を紡いだ。麻紡に奉仕した人は松家カメ・新藤カク・新田ヨシ・猿向フジ・新明ヨリ・奥木頭の西フク・野口サヨ・谷トメの八人に加え剣麓青年会の会員も奉仕した。この間の監督は天田村長があたり、九月五日に作業完了、九月七日に山瀬織殿へ奉送するために青年会員七人・天田村長・神職奉仕者・三木宗治郎らが、早朝に谷口を出発した。山瀬町では、 当日麁服の織初祭を挙行し、織女には山瀬町で六人の少女を選んで、県立工業学校の校長がその監督に当たることになり、調進者三木宗治郎は織殿に常勤し、十月九日に織り上げた。選ばれた織女は松本ヒデノ・伊月ヨシ・池上トク・京野イチノ・石川ヨネ・増富ハマコで、助手として麻山カスヱ・尾崎テウの総員八人が奉仕している。十五日に織上式を挙行した後、麁服を唐櫃に納めて徳島公園内の千秋閣に奉置し、二日間一般人の縦覧を許し、十八日夜航で上洛、十九日大宮御所へ奉送を終わった。
昭和天皇の時は、麻畑を貢の八石に決定して昭和三年(一九二八)四月十三・十四日にまきつけを終わり、 手入れは三ッ木の青年大塚増一・山口高一・山口豊一・笠江賢・高木安一・三久霞・宮本政雄・後藤伊織・原田勇・山田正養の一〇人によって管理した。成育は良好で八月六日に抜麻式を挙行し、川久保学務部長・赤川農林課長・楢崎社会課長・鎌田農林技師らの県官が参列した。抜き取った丈余の麻は、その後三ツ木八幡神社境内で剥皮作業を開始した。 二間くらいの高さの麻風呂に湯浸しにして煮たものを庭に巻いてむしろ一定時間置いて醗酵させ、麻舟に漬けて皮をはぐ仕事であるが、湯浸しの温度と時間、また醗酵の程度などによって良否ができるので、 作業員は大変苦労した。そのため予定以上の日数がかかり、九月十三日麻紡式を川井日吉神社の拝殿で挙行した。県は滋賀県から指導員として、その道の経験者女性一人を雇って派遣した。麻を紡いだのは川井の女子青年廣瀬ツネカ・南瀬ツネノ・藤田晴江・松本ユキヱ・伊藤スエコ・藤田タミエ・阿部ハツ子・殿井ナミ子の八人であった。
この紡がれた麻糸は、九月二十一日自動車で山瀬町の麁服織殿へ送られた。同月二十五日山瀬町では織殿落成式と織初式を挙行し、山瀬町女子青年妹尾富美子・西川朝香・塩田ヨシエ・松田テル子・桑原キヌエ・阿部八重子の六人によって織られた。十月二十三日麁服織上式を挙行し、県官川久保学務部長の参列があり、午後二時発の汽車で徳島県庁に奉送した。翌一日を一般縦覧に供し、二十四日晩小松島出航の舟で上洛し大宮御所へ奉納した。奉送者は、学務部長川久保常次郎・奉仕者三木宗治郎・山瀬町長重本栄助・木屋平村長天田信一・県属坂崎小伝次・機織助手松本ヒデノ、白丁として唐櫃をかついだ人は宮島進一・山田正養・三久霞・高木安一であった。
大正六年十二月に、三木宗治郎は麁服絵巻物を献納した。
麁服絵巻 壱巻
右徳島県麻植郡木屋平村三木宗治郎ヨリ皇后陛下へ献納願出ノ趣ヲ以テ伝献被致候ニ付御前へ差上候此段申入候也
大正六年十二月七日
宮内大臣 子爵 波多野敬直
徳島県知事 末松偕一郎殿
これより先、明治四十一年(一九〇八) 穀皮の献上が三月二十日の村会に提出して許可された。
一 穀皮 献上品
右へ今回皇太子殿下行啓ニ付献上シ奉ル
理由
按スルニ大字三ツ木ニ於ケル楮ハ其由来古ク昔忌部ノ子孫此地ニ在リテ之ヲ栽培シ大嘗ノ年ニ当リテ国司ノ命令ヲ奉シ荒妙ヲ貢キ奉レリ楮ハ其ノ原料タリ、其後楮ノ栽培盛ニシテ今ヤ本村重要産物ノ一トナリヌ、之皆世ノ恩沢ニシテ忌部氏ノ遺徳ナリ吾人ハ明治ノ昭代ニ遭遇マコトニ喜バシ、殿下行啓ヲ奉迎シ奉ルハ洵ニ千載一遇ノ盛事ニシテ村民等シク感泣シ措ク能ハザル所ナリ、茲ニ歴史上由緒アル三ッ木産出ノ本品ヲ献上シ奉ルハ最モ光栄トスル所、聊カ誠ヲ致サント欲スル微衷ニイササカアリ之本案提出ノ所以ナリ
これによると麁服の原料は楮であるといっているが、大正四年に貢進した麁服は麻を原料とした。楮か麻かを考証した結果、麻となった。麻は古くから栽培されていたものか、木屋平村には麻衣という集落名や芋島という地名もある。しかし、忌部には楮・麻ともに縁の深い作物である。
『古語拾遺』には「仍命天富命率日鷲命孫求肥饒地遣阿波国殖穀麻種其裔今在彼国當大嘗之年貢木綿麻布及種々物所以郡名為麻殖之縁也」とある。これによると、御即位式の時の大嘗会には木綿麻布を貢進することが、古来の慣例である。斎藤菅春の『践祚大嘗会御贄考』には「木綿は『ユフ』と訓べし、穀樹の繊維を日にて搗きて、 略したるもの、俗にカミソ又カウソとも言ふ、穀は楮に同じ」と書かれている。それでは木綿はどんな場合に神に供えられたものか。
(※大正六年八年十二月に、三木宗治郎は麁服絵巻物を献納した。各種の献納 麁服絵巻 壱巻 右徳島県麻植郡木屋平村三木宗治郎ヨリ皇后陛下へ献納願出ノ趣ヲ以テ伝献被致侯ニ付御前へ差上侯此段申入候也 大正六年十二月七日 宮内大臣子爵 波多野敬直 徳島県知事 末松借一郎殿)
『日本書紀』によると八咫の鏡や八尺瓊の玉を懸けた真阪樹の枝の下に、阿波国忌部遠祖天日鷲の作る木綿を懸けると記されていて、白和幣と呼ばれ、麻の皮で作ったものは青和幣と呼ばれている。
また、昭和十五年皇紀二六〇〇年記念として、木綿を徳島市忌部神社へ奉納してほしいと、同社宮司から木屋平村へ申し入れがあった。奉仕者は三木寛人、作業にあたったのは梅津虎之助・梅津多金美・棚上トク・西平タケらで、川上ケイブ谷で調製し、二月十一日に神社へ奉納した。供奉は天田村長・三木奉仕者・山田正義、唐櫃は三木敬之・三木淳治・三木清市によってかつがれた。
昭和六十四年(一九八九)一月七日、昭和天皇の崩御により今上天皇が位を継がれ、平成二年(一九九〇)秋、宮中で即位の礼並びに大嘗祭が行われた。
古来、大嘗祭には阿波忌部から麁服を貢進するのが習わしとなっていて、そのつど本村の三木家が御衣御殿人(みぞみあからんど:天皇の着衣を作る公人)となって調進してきた。大正・昭和の大嘗祭には、県知事に下命があり三木家当主宗治郎が調進者となって古例どおり麁服四端 (一端は幅三四糎、長さ約一二米)を貢進した。
平成の麁服貢進については、憲法上の論議があって県や村の積極的関与は見送られ、一般の人々の協力によって事業を進めることになった。わずか麻布四端の献上であるが、一般に麻の栽培は法によって禁止され、村内はもちろん県内にも種子さえなく、まして技術の伝承もなくその調達は困難な仕事であった。しかし、村民は天皇一世一度の儀式にこの小さな本村がかかわりを持ち、村民が奉仕できることを誇らしく思うとともに、伝統を絶やしてはならないという気持ちで一致していた。そこで麁服貢進協議会を作り全村が一つになってともかく献上までこぎつけた。全村民が一つになって活動することは久しくなかったことで特筆すべきできごとであった。
本村の麁服貢進協議会は、平成元年八月十六日、村長藤田巖夫が発起して結成された。同年十月十四日には、山川町麁服貢進協議会 (木村悟会長)も結成され、両協議会が先例どおりに分担して、伝統文化の継承発展と地域の活性化という見地から事業を進めることになった。本村協議会の会則・役員・趣意書は次のとおりである。
<麁服貢進協議会会則>
平成二年十一月に予定されている大嘗祭に、阿波忌部の伝統と慣例に基づき誇り高く由緒ある麁服貢進を実現するため、賛同する者をもって会を組織する。また、この伝統を子孫に伝承して地域の活性化と文化の発展に寄与する。
第二条(名称・事務所)
(1) この会は麁服貢進協議会と称す。
第十一条(経費)
(2) この会の事務所は木屋平村役場内に置く。
第三条(会員)
この会の趣旨と目的を理解し自主的に賛同する者を募集し会員とする。
第四条(事業)
この会のすべての経費は会費及び寄付金によってまかなう。
第十二条(雑則)
<趣意書>
霊峰剣山の嶺を仰ぐ山紫水明の地、麻植郡は古い歴史と伝統ある私たちの郷土として繁栄してまいりました。
特に、阿波忌部族によります大嘗祭の麁服貢進は、古来からの由緒ある慣例として受け継がれてきたところであります。先の大正・昭和の大嘗祭におきましては、阿波忌部の末裔である三木宗治郎が奉仕人となり、徳島県・木屋平村・山瀬町(現山川町) 等により貢進してきたことは地域の誇りであります。
さて、昭和天皇には、すべての国民の早期御快癒の祈願も空しく、 本年一月七日崩御されましたことは皆様ご承知のとおりであります。
宮中におきましては、昭和天皇の喪の明ける来年十一月、今上天皇陛下の御即位の礼並びに大嘗祭が挙行されるとのことであります。
大嘗祭は、天皇陛下が御即位後初めて行なわれる新嘗祭のことで、 陛下御自ら天照大神をはじめ天神地祇に新穀を捧げられ、また神々とともに召しあがられて国運の隆昌と民族の幸、世界平和、五穀豊穣を祈願される儀式であります。
この大嘗祭に奉典される麁服の貢進は、私たち地域住民の誇りある伝統文化であります。この度の大嘗祭には、みな様方の賛同を得、協議会を作って貢進の役目を果たしたいと存じます。また、事業実施に当たりましては、民主的盛り上がりの中、善意に基づく奉仕によって、麻を作り糸につむぎ、布に織りあげて献上したいと存じます。
この大事業完遂によって、日本国の象徴天皇陛下と皇室への敬愛の念をさらに深め、伝統の伝承と地域の活性化・文化の向上に寄与できるものと存じます。
みな皆方こぞってのご賛同と格段のご協力をお願い申し上げます。
平成元年十二月十日
木屋平村麁服貢進協議会会長 重長正一
事業実施に当たって、経費はすべて寄付金で賄うということは、 社会情勢から自明のことであった。麻(大麻)を作り糸に紡ぐまでの作業は本村で行い、布に織りあげる作業は山川町山崎の忌部神社で行うことも先例によるところで問題はなかった。
しかし、現実の問題として多くの困難な問題点があった。まず、 材料となる大麻は、大麻取締規則によって一般の栽培が禁止されていて、本村はもちろん県内でも栽培しているところはなかった。したがって栽培経験者はいうまでもなく種子さえないことであった。
さらに、刈り取った麻から布にするまでの麻蒸し、皮剥ぎ・麻挽き・糸紡ぎ・機織りなどすべての工程で、道具もなく経験者もいないことであった。前回の麁服貢進は、すでに六十余年昔のことであり、当時の体験者も今はなく、本村の麁服作りの技術は失われていたのである。
そこで、技術を保存しているところを調べ、指導・協力を依頼することにした。加工した麻の繊維(精麻)や麻布は、神社の祭事その他に用いられる。今回の調進者となった三木家二七代当主三木信夫は、奈良県月ヶ瀬村に伊勢神宮御用織の坂西芳太郎を訪ね協力を依頼した。また、別に協議会は、群馬県吾妻町大字岩島の岩島麻保存会(海野恭斎会長)を訪問し、大麻種子の提供及び、栽培・麻挽き、すなわち麻繊維の精製の技術指導を依頼した。
麻を栽培する斎麻畑には、三木家の畑八畝を整地し直してあてることにした。
今回の貢進にあたっては、本村・山川町の関係者以外にも積極的に活動して、事業推進に貢献した人々があった。
石井町の山口誉富(不二歌道会徳島支部長)は、かねて阿波忌部と大嘗祭について研究し、御大典に際しては対応に誤りなきように、と機関誌『四国不二』などを通じ主張してきた。昭和天皇が崩御されるや、いち早く関係各方面への働きかけを始めた。その後、徳島市内有志と協調し、指導的立場で終始積極的に活動して貢進事業推進に貢献するところが大であった。
徳島忌部神社宮司門家毅もその一人である。大嘗祭の麁服貢進が復活したのは大正天皇のときであった。この復活の原動力となったのが、三木宗治郎の運動であり、当時の忌部神社宮司の斉藤菅春 (一八五四~一九一三・滋賀県彦根出身)の学究的献身であった。
門家毅は、こうした伝統を受け継ぎ、今回の貢進に際して、前述の山口誉富・岡島隆夫(徳島史学会員・高校教諭・徳島市在住)、南本喜実 (本村貢出身・元小学校長・徳島市在住、故人)を忌部神社に招いて協議するなど、徳島市方面有志の核となって活動した。また、播種から献納に至るまでの一連の儀式には斎主として奉仕した。
岡島隆夫は、『忌部神社と阿波忌部の荒妙貢進』を著すなど麁服貢進に関心を持ち、今回の貢進にあたっては前述のように徳島市内有志と協調して貢進実現に貢献した。また、現職の神官として儀式実施にも関与した。
南本喜実の旧住所は本村貢、三木家の隣である。徳島市に住所を移してからも神社の再建等地元の諸問題について献身的に奉仕・協力をしてきた。麁服貢進については、「三木家の歴史と麁服」を編纂してその顕彰に努めてきた。
今回の貢進では、徳島市有志グループの要員として、また、同グループと本村との連絡調整係として献身的に活動していた。ところが、平成元年九月二十三日、三木家で地元有志と協議中、心不全により座ったまま逝去されるというハプニングに見舞われた。惜しみて余りある方であった。
副知事、木屋平・山川両首長、三木信夫が宮内庁で次長及び鎌田掌典と会談した。宮内庁の考えと当方の考えには開きがあったが、結局、次のように妥協した。
斎麻畑造成工事起工にあたり地鎮祭を行う。祭祀を主掌する斎主は門屋毅忌部神社宮司、祭員・岡島隆夫、参列者・三木喜代子、藤田巖夫村長、重長正一会長ほか役員、山口誉富。
畑の場所は三木家前の同家畑地(字貢一四二番地の三)八畝。もともと緩やかな畑地であったが、そこを平らに整地し直した。整地後の畑には鳥居を建て竹矢来を結んだ。さらに、県の指示によって有刺鉄線で囲んで盗難などに備えた。
栃木県麻振興連絡協議会(赤羽根正美会長) 寄贈の麻種子を受領した。重長会長・阿部三也事務局長が山口誉富ほか二人と鹿沼市へ出張し、桐箱入りのトチギシロ種子四升を受け取った。この種子の受領については、山口誉富が栃木県庁を訪れて依頼、その後山口誉富の友人篠原重司(栃木県宇都宮市)の献身によって実現したものであった。なお、この種子は、斎麻畑本畑 (一号地)に播種された。
宮内庁より吉田用度課長ら二人が山川へ来町、ここで両町村の貢進協議会長・事務局長・両町村長・助役同席で打ち合わせを行った。このとき、宮内庁の申し入れは次のとおりであった。
これには、当方の出席者は驚き、反論し、結局は、以下の記録のように当方の主張する古例に則った貢進が行われた。
高知県高岡郡東津野村森山和三贈与の麻種子五合を山口誉富から受領。この種子の寄贈は、山口誉富の友人浜口某(高知県)の仲介と植栽者森山和三の芳志によるものであった。
前日群馬県岩島麻保存会から播種指導に二人が来村、四日播種式及び豊作祈願祭を行った。参列者約一五〇人。
播種式は斎麻畑に祭場を設けて、午前十時三十分開式、国旗掲揚の後、重長会長のあいさつに続いて神事が行われた。奉仕者次のとおり。
神事は、修祓、降神、献饌の後、祝詞奏上。斎麻畑の清祓に続いて、三木信夫と狩衣(かりぎぬ)姿の平井豊三郎・山田俊一・原田操の三人によって播種の儀が行われた。玉串奉典は、①斎主 ②重長正一(貢進協議会長) ③三木信夫 ④三木喜代子 ⑤藤田巖夫(木屋平村民代表) ⑥池上敬二(山川町民代表) ⑦林福太郎(県神社庁長) ⑧平井豊三郎(貢進協議会副会長) ⑨山田俊一(耕作者代表) ⑩原田操(寄進者代表) ⑪南本文子 ⑫山口誉富 ⑬植渕一(キョーエイ社長・村外参加者代表)の順で行われた。撤饌、昇神の後に続いて閉式のことばで十一時三十分終了した。
播種式の後、三ッ木八幡神社で早雲宮司奉仕によって、大麻の豊作祈願祭が行われた。また、南張獅子舞保存会によって獅子舞が奉納され、紅白の餅投げが行われた。
また、この後、三ッ木公民館で関係者・来賓百余人が出席してこの日の祭典の直会(祭事のあと供物を分けて飲食する宴会)が盛大に行われた。
字南張九〇番地の二号地(南本徳武ほかの共同所有)に本播種。
続いて四月十日には一号地に本播種を行った。当初の計画では四月四日の播種式の翌日の四月五日に本播種の予定であったが、当日、思いがけなく雪が降り満開の桜の枝にも積もるほどであったので延期し、寒波の通過を待って十日に行われたのである。
播種後は直ちに警備が行われたが、この日から村を挙げての警備が始められた。大麻は、その葉が麻薬となるので不心得者に盗まれる心配があった。また麁服貢進に反対する者によって、あるいは単なるいたずらによって荒らされることも予想された。万全を期すため、村民の協力で二四時間態勢で監視をした。昼間は、一号地については当初西村益一、六月七日以降は杖宗豊、南張の二号地は藤本茂雄が専任であたり、夜間は男性全村民が交代で監視にあたった。
一・二号地各二人で監視し、抜麻の終わった七月十九日までその数は延べ二〇〇人に達した。
奈良県月ヶ瀬村へ、山川町貢進協議会と合同で麻織作業視察。
婦人会会員奉仕により、第一回の間引き及び土寄せを行った。このころ麻は約一〇糎に成長。第二回間引きは約三〇糎に成長したときに行う。
愛媛県北宇和郡松野町へ係が出張し、同町森林組合へ蒸桶発注。
奈良県月ヶ瀬村へ係が出張し、坂西家から麻紡ぎ器具借用。
群馬県吾妻町岩島麻保存会から、抜麻及び麻蒸指導のため四人が来村した。十八日まで滞在し指導にあたった。
播種から約一〇〇日、丈三米ほどに、見事に成長した大麻の抜麻式・初蒸式が午前九時から行われた。参列者約五〇人。
抜麻式斎主は門家宮司。祭員は門家茂樹・二宮正経。祭主は三木信夫で行われた。式が進み抜麻の儀は、三木信夫・重長会長立ち会いで、耕作者平井豊三郎、山田俊一・原田操が斎麻畑に入り、一人三本ずつの麻を抜いて神前の案上に奉典した。玉串奉典は、①斎主 ②三木信夫 ③重長会長 ④耕作者三人 ⑤藤田村長 ⑥木村悟山川貢進協議会会長の順で行われた。
神事に続いて重長会長のあいさつ、藤田村長及び木村会長の祝辞があり、その後直ちに抜いた麻を捧じて初蒸式式場の三ツ木八幡神社へ向かった。境内に据えられた麻蒸釜にはすでに火が入り、真新しい木の蒸し桶には湯が沸いていた。蒸し桶のおはらいの後、平井・山田・原田の三人の奉仕者によって湯通しの儀式が行われた。抜き取った麻は根部と葉部を除き茎だけにして熱湯に通す。まず根元の方から浸して引き上げ、さらに末の方から浸す。湯に通した麻は天日で乾燥する。初蒸式後、三木家で直会が催された。
この日午後から抜麻・麻蒸の本格作業に入り、十九日までの三日間、毎日二十数人の奉仕によってすべて完了した。
ここで糸に紡ぐ前の精麻にするまでの工程を紹介しておく。畑から抜き取った麻は、根部と葉部を切り落とし、束ねて熱湯に通す。
湯通しがすむと十数本から二〇本くらいを束ね、下方を四方へ広げて立て天日で乾燥する。乾燥した麻の茎を保存するためには、かびを防ぐために、上げ湯といってもう一度湯通しをして乾燥する。
次の工程は麻剥ぎである。乾燥した麻の茎を水を張った麻舟に浸して湿りを与えた後、筵で覆って二日間ほどおく。こうすると醗酵して粘りが生じ、容易に皮を剥ぐことができる。
(※・山田・原田の三人の奉仕者によって湯通しの儀式が行われた。抜き取った麻は根部と葉部を除き茎だけにして熱湯に通す。まず根元の方から浸して引き上げ、さらに末の方から浸す。湯に通した麻は天日で乾燥する。初蒸式後、三木家で直会が催された。この日午後から抜麻・麻蒸の本格作業に入り、十九日までの三日間、毎日二十数人の奉仕によってすべて完了した。ここで糸に紡ぐ前の精麻にするまでの工程を紹介しておく。畑から抜き取った麻は、根部と葉部を切り落とし、束ねて熱湯に通す。湯通しがすむと十数本から二〇本くらいを束ね、下方を四方へ広げて立て天日で乾燥する。乾燥した麻の茎を保存するためには、かびを防ぐために、上げ湯といってもう一度湯通しをして乾燥する。むしろきる。 次の工程は麻剥ぎである。乾燥した麻の茎を水を張った麻舟に浸して湿りを与えた後、 筵で覆って二日間ほどおく。こうすると発酵して粘りが生じ、容易に皮を剥ぐことができる。)
剥ぎ取った麻皮は糸にならない表皮が着いたままである。この表皮を取り除く作業が麻挽きである。長さ五〇糎ほどの平たい角柱に一本分の皮を乗せ、樫の木で作ったへら状の麻かきで表皮を削り取る。
麻挽きの終わった麻は陰干しにする。薄黄色の光沢のある精麻の仕上がりである。この麻は精好綿と呼ばれる神事用の麻と同様のものである。これを細かく裂いて撚り合わせると麻糸ができる。
岩島麻保存会から男五人、女三人、計八人が、皮剥ぎ及び麻挽きの技術指導のため来村し、三十日まで滞在した。貢と南張で作った麻は、本場、関東の産をしのぐ品質であった。しかし、加工段階の数々の指導と協力が麻挽きは熟練を要する作業で、岩島麻保存会の方なければ立派な製品に仕上げることはむずかしいことであった。
校生ほか八人が麻糸の紡ぎ方を教わった。 また、紡糸指導のため、奈良県月ヶ瀬村の坂西夫妻が来村し、高校生ほか八人が麻糸の紡ぎ方を教わった。
三ッ木八幡神社で午前十時から早雲寛宮司奉仕によって初紡式が行われた。拝殿正面には「麁服麻績殿」と大書した垂れ幕が下がり、巫女装束の紡女は、前田めぐみ・同いずみ・東埜真澄・岡本充恵・端本弥生の五人(写真向かって左から)。ほかに三木家当主・重長会長・山川の木村会長・忌部神社門家宮司など約三〇人が参列した。
紡ぎ初めの儀は、五人の紡女が手分けして、細かく裂いた麻を繋ぎ、よりをかけて、糸車に巻き取る作業を行った。神事が終わると重長会長のあいさつ、続いて木村会長の祝辞があり式典が終了した。
後、三木家で直会があった。この後、紡女らによる糸紡ぎは本格作業に入り、八月二十八日に終了した。
午前八時、三ッ木八幡神社で早雲寛宮司の奉仕により、紡糸の完成奉告祭並びに出発式が行われた。参加者約三〇人。
桐箱に納められた紡糸を神前に奉安し、祝詞が奏上され、重長会長・三木家当主・門家忌部神社宮司・藤田村長らが玉串を奉典して、紡糸の完成と山川町忌部神社への出発を奉告。
神事の後、紡糸は檜造りの唐櫃に納められ、先導の三木家当主ほかに守られて三木家に至り表座敷の床の間に安置された。早雲宮司により清祓いが行われ、出発にあたっての重長会長のあいさつ、藤田村長の祝詞があり、山田副会長の音頭で乾杯、万歳三唱の後出発した。
奉送車は村のスクールバス、唐櫃とともに、三木信夫当主・重長会長・藤田村長のほか、原田操・平井豊三郎・山田俊一・佐古武重・久保栄・阿部三也の各役員、門家宮司・山口不二歌道会県支部長が同乗した。三木家の人々や村人たちに見送られ、前後を警備の車に守られて、山川町忌部神社へと向かった。
午前十時三十分、関係者約六〇人が迎える山川町忌部神社に到着し、神事による受け取りの儀が行われた。重長会長から山川の木村会長に桐箱入りの紡糸と目録が手渡され、ここで麁服調製作業は山川町へ引き継がれた。
また、このとき、宮内庁の要望もあって両町村の貢進協議会を一本化した「木屋平村・山川町麁服貢進協議会」が結成され、三木信夫が会長になった。事務局は木屋平に置き、以後の宮内庁との連絡などに当たることになった。両町村の会はそのまま残され予定どおりに事業を進めた。
山川町忌部山忌部神社拝殿に約二〇〇人が集まって、麁服織り初め式が行われた。神事奉仕は斎主門家毅徳島忌部神社宮司、ほかに町内外の神職一一人。本村からは三木信夫・藤田村長・重長会長らが出席した。機織り奉仕の川端芙美は徳島市の織り物作家、山口誉富とその友人の紹介で、技術指導及び製作にあたることになった。
織女の須藤恵美・森本真代美・桑野恵子・蔵本京子(いずれも山川町)が巫女装束姿で織り初めの儀を行い、その後一ヵ月で織り上がった。この麁服は、十月十九日徳島市二軒屋町忌部神社例大祭の当日、同神社前に供え完成奉告された。
山川町では、今回の麁服貢進にあたり、織殿新築を計画し、設計図も出来上がっていたが、宮内庁の意向によってこれを中止し、神社拝殿を当てることにし、社殿全体を寄進によって改修した。
織り上がった麁服は、端ごとに約二〇糎幅に折りたたみ、四端を桐の箱に納め、さらにこれを白木の唐櫃に納めて、三木家床の間に安置された。
朝、麁服は、神事の後三木信夫・重長会長・藤田村長ら関係者によって会場の川井運動場へ運ばれた。会場は、万国旗を張り渡し、体育館側に注連縄で囲んだ祭壇を設けた。運動場中央には紅白の幕で飾られた餅投げ台、西の方には直会のためのテントが設けられた。集まった村人は約三五〇人。麁服を祭壇に奉安し、午前十一時、花火が打ち上げられ、平成大嘗祭麁服貢進出発式が開始された。
祭事奉仕は、斎主忌部神社祢宜門家茂樹、 祭員早雲寛・同二宮正経。平井副会長の開式のことば、国旗掲揚に続いて神事が行われた。参列者の玉串奉典は、三木信夫・藤田村長・重長会長・佐藤隆 (山川町貢進協議会副会長)・植渕一(キョーエイ社長・村外参加者代表)・山口誉富(不二歌道会県支部長)・岡島隆夫(徳島史学会)・原田操・山田俊一の九人であった。木屋平村・山川町麁服貢進協議会会長三木信夫が式辞を述べ、祝辞は藤田村長(村民代表)佐藤副会長が述べた。次に来賓紹介があって重長会長のあいさつ、獅子舞の奉納の後、山田副会長の閉式のことばで式は終わった。
式後、立食による直会が催された。岡島隆夫発声の乾杯で始まり、餅投げ、立食パーティーと続き、山口誉富音頭による万歳三唱で直会は終わった。
午後一時、花火を合図に麁服を納めた唐櫃は、三木信夫・重長会長を先頭に布衣・烏帽子姿の山田俊一・原田操によって担がれて会場を出発、後、車に移されて、翌日出発式の行われる山川町へと向かった。
出発式の様子は新聞でも報道されたが、十月二十八日付『徳島新聞』は次のように報じている。
(前略) 大嘗祭は、神道色が濃く憲法論議を呼んでおり、出席した藤田巌夫村長は「村民代表」の肩書きで祝辞を述べた。また、過激派が大嘗祭阻止を表明していることから県警の私服警官約一〇人が会場で警備するなど、十一月の即位の礼、大嘗祭をめぐる複雑な社会背景が反映されていた。
木屋平村・山川町麁服貢進協議会会長三木信夫ほか一四人は、脇町・川島両警察署警官の護衛のもと、打ち合わせどおり分散して東京へ向かった。
一班として、山川町長池上敬二・木屋平村貢進協議会事務局長久保栄・山川町総務課高木正武の三人が唐櫃を持って、前日二十九日十二時二十分徳島空港を出発した。二班は、会長三木信夫・木屋平副会長平井豊三郎・木屋平村参事阿部三也, 山川副会長木内義弘, 山川事務局長真田静二の五人で、桐箱に納めた麁服四端を奉持して、二十九日十三時三十分徳島空港を出発した。三班は、木屋平村長藤田巖夫・木屋平会長重長正一・同副会長山田俊一・山川会長木村悟・同副会長佐藤隆・同幹事津村満吉の六人で、三十日九時十五分徳島空港を出発した。
三十日十二時四十分、一行一四人は東京駅に集合し皇居へ向かった。乾門で、警護の脇・川島両警察の警官は任務を終えて下車した。検閲を受けた後、門が開かれ、秋雨の中を宮中三殿へと車を進めて行った。神門前で下車すると、白衣の職員の出迎えがあった。
ここで列を整え、三木会長を先頭に重長・木村両会長が唐櫃を担いで神門をくぐり、玉砂利を踏んで進みテント内に設けられた案の前に着いた。三木・重長・木村の三人が唐櫃を開けて桐箱を取り出し献上した。吉田用度課長が確認し、鎌田掌典が案上に奉安、清祓、祝詞奏上があって貢進の儀はめでたく終了した。
その後、鎌田掌典から「長い期間にわたる麁服貢進のためのご苦労に感謝いたします。なお、麁服貢進につきましては天皇陛下にご奏上申し上げてありますから、後日何らかのごさたが必ずあると思います」とあいさつがあった。また「ご許可を得ておりますので」 とのことで、宮中三殿の参拝に案内され、鎌田掌典の指示どおり拝礼をすませた。次に宮内庁でコーヒーとケーキの接待を受け、乾門から退出した。
貢進されたこの麁服は、愛知県稲武町から献上された繒服とともに、十一月二十二日夕刻、大嘗宮の悠紀・主基両殿の御神座に目籠に納めて供えられ、翌二十三日未明にかけて大嘗祭が行われたのである。
宮内庁から官房主計課長古出哲彦・用度課長補佐中村進・主計課係長土屋茂の三人が、使者として本村と山川町を訪れ、両町村の麁服貢進協議会へ天皇陛下からの御下賜品と宮内庁長官藤森昭一からの感謝状を伝達した。
平成三年一月二十三日
御下賜紋入白土杯一口 清酒三本 紋入紙巻たばこ三〇〇本
感謝状本文
貴会はこの度の大礼に当たりその滞りない挙行のためによく協力し力を尽くされました。よってここに深く感謝の意を表します
今回の麁服貢進については、村外の多くの人々の多大の支援・協力があった。その中でとくに重要な役割を果たした次の人々に、代表者が現地に赴き感謝状を贈呈した。
総会を開き、事業報告をして会を解散した。この後、記念事業として、冊子『平成御即位大嘗祭麁服献上』を発行して関係者に配布した。総会で収支報告が行われたが、その収入合計は、一三〇〇万円余であった。その内訳は、村内在住者の寄付金を主とし、村外に住む本村出身者、徳島県神社庁及び県内外の篤志家からの寄付金であった。
(注)「ゆう」と読む場合は、文中で説明されているような繊維で主として古代に生産された。「もめん」と読む場合は、衣服・蒲団などに使用する繊維である。桃山時代に南蛮から輸入された。