木屋平村史から読み解く:阿波忌部・三木家と天田家の在地支配と権力変遷 ——「由緒」と「金融」が交差する山村実力者たちの生存戦略——

「阿波忌部は古代から途切れることなく絶大な権威と富を誇っていた」——この地域に根付く華々しい通説は、残された一次史料と在地経済・行政機構の構造を厳密に照らし合わせたとき、全く異なる相貌を立ち上がらせる。

本論は、『木屋平村史』等に収録された古文書の原文を時系列に沿って精読し、過酷な自然環境と冷酷な国家システムの中で、在地実力者(三木家・天田家)がいかにして没落の危機を生き抜き、一度は剥奪された権力を再構築して大嘗祭の頂点へと上り詰めたのかを論証するものである。

第一章:中世の傍証と「忌部」名乗りの実態(1391年)

中世期において、「忌部」を冠した明確な金石文は、本流とされる三木家ではなく、傍流にあたるのちの松家(木屋平氏)の側に残されている。

新八幡神社の鰐口には、明徳二年(一三九一)七月二十三日の紀年銘があり、また大願主が忌部義行で作者(大工)が伴正光であることがわかる。鰐口の作品的価値以上に銘文の価値が問われるべきものと考える。すなわち明徳二年にこの地方の支配者が忌部義行であることが推測されるが、彼は恐らく木屋平氏の中枢にいた人物であろう。木屋平氏も忌部を称していたために「忌部義行」と記したものと思う。この木屋平氏は後に松家と姓を変えるはずである。また、大工の伴正光は現市場町秋月庄の八幡宮の梵鐘を作った伴正光と同一人物と考えられている。そのことでも当時のこの地方の支配者と細川氏のいた秋月庄との関係をうかがい知ることができよう。

確たる金属の一次史料に「忌部義行」の名が刻印され、阿波細川氏(秋月庄)と連なる有力な大工(伴正光)を動員している一方で、同時代における三木家周辺にはこれに匹敵する物証が見当たらない。これは、中世における「忌部」の正統性が後世の認識ほど一枚岩ではなく、在地領主層の流動的な勢力関係の中にあったことを示唆している。

第二章:17世紀末の特権剥奪と、復権への苦闘(1747年)

中世から連綿と実務を担ってきた三木家であるが、17世紀末の土地騒動(村内不正事件)の連帯責任を問われ、庄屋役や夫役免除などの特権を剥奪された上、「三木」の姓を名乗ることすら禁じられてしまう。

それから約半世紀が経過した延享四年(1747年)、彼らは日常的な行政手続きにおいて未だ一介の百姓として振る舞わざるを得なかった。この年、彼らはかつての特権を取り戻そうと一度目の申請(陳情)を試みている。

乍恐仕上ル覚

一私儀代々先祖より奉拝領居申候御書六通写仕指上申候。乍恐御慈悲之上被聞召上被下侯は難有可奉、存侯以上

延享四年(一七四七) 卯ノ六月朔日(一日)
麻植郡三ッ木村 長左衛門(印)

下条成助様御手代 松原七兵衛殿

当主は「三ッ木村 長左衛門」と署名し、「乍恐(おそれながら)」と極めて丁重な表現で藩の役人に接している。先祖伝来の「御書六通の写し」を提示するこの行為は、没落した彼らが幕藩体制の下で「由緒(古文書)」を政治的カードとして使い、必死に家格を取り戻そうとした苦闘の痕跡である。しかし、この時点では目立った成果を挙げるには至らなかった。

第三章:家名存亡の危機と、女性たちによる「由緒の創出」(1797年)

1740年代の陳情からも時が流れ、寛政期(18世紀末)、三木家に決定的な悲劇が襲う。当主の伊左衛門と嫡男が相次いで他界したのである。特権も苗字も失ったまま男性当主も不在となり、いよいよ家そのものが消滅しかねない絶体絶命の危機に陥った。

この絶望的状況下で立ち上がったのは、残された未亡人(後家)と娘であった。彼女たちは、阿波山間部の和紙・林業資本を掌握し、庄屋として村の実権を握っていた分家筋の「天田家」(武之丞)を後見人とする。そして、天田家から強大な資本力とともに「恒太」を娘の婿養子として迎えた。一族の完全なる再興とブランド奪還のため、蔵に眠る本物の太政官符を土台とし、自らを「朝廷直結の忌部一族」と再定義する決死の陳情書(由緒書)を作成し、郡代へ提出したのである。

『麻植郡三ツ木村伊左衛門後家先祖家筋成行書附』(寛政9年・1797年)

《翻刻抜粋》
忌部佐兵衛尉重村と申……正平年中之頃より在名ヲ名乗、三木佐兵衛尉重村と申由、(中略)蜂須賀蓬庵様(家政)御入国の際、一揆を鎮め御供仕り候につき、先祖身居苗字・大小御赦免被為下置…

《現代語訳》
忌部佐兵衛尉重村という者が、正平年間(1346〜1370年頃)になって初めて領地名(在名)を名乗り、三木佐兵衛尉重村と称したとのことです。(中略)蜂須賀家政様入国の際の功績により、身分や苗字帯刀の許可(赦免)を下されました。

由緒書に隠された決定的な自己矛盾(自白)

この陳情書のタイトルに「後家」と刻まれていることは、これが家名存続を懸けた背水のサバイバル文書であったことを物語る。しかし、急造されたこの由緒書には修復困難な矛盾が存在する。

第一に、「古代から続く忌部氏」と主張しながら、その同じ文書内で「三木という苗字は中世(正平年間)になって領地名から名乗った」と自白している点である。第二に、正平年間から武家・神官として名乗っていたとするならば、後段の「天正期になって新領主から初めて苗字帯刀を赦免された」という記述と決定的に時系列が矛盾する。手持ちの古文書に合わせて家名の成立を強引に遡らせた結果、「百姓身分から天正期に特権を得た」という史実と衝突してしまったのである。

第四章:天田家の「金融支配」と貸付金の不良債権化(1833年)

後家の陳情書を機に三木家が由緒の再構築を図る一方、在地経済の実権を完全に掌握していたのは庄屋・天田家であった。彼らは、生産者への融資、集荷、流通を独占する「金融・流通システム」を構築していた。しかし、その栄華も天保の大飢饉(1833年)によって崩壊の危機に直面する。

【天保四巳年十一月 陳情書より抜粋】

此度造酒株御調之処無株所持不仕酒屋之義者、御指出被仰付候御趣承候。然る所当山之義者庄屋天田延左衛門殿方ニ数年来造酒仕、村内一統便利成り居申候へ共、所持の株売払無株ニ相成居申し……皆水仕事ニテ、凌ぎ難き節は酒ノ力を借り、就中神事神酒て、数三百軒程悉く紙漉人ニ而冬春寒さ之時分無 厭手業ニ御座候。

(中略)

誠ニ御定法之御取調ニ新奉願上重々奉恐入候得共、共村中困窮之百姓共一統迷惑に相及至極難敷奉存候ニ付不得止事奉懇願奉存候。

山の庄屋である天田家は、300軒の村人に紙漉きの元入銀を貸し付け、過酷な水労働を強いるための「酒」までも掛け売り(借金)で融通していた。経済ショックによりこの巨額の貸付金が焦げ付いたとき、天田家は村人の一揆を防ぐため、身銭を切り、酒造株を売却するほどの「自転車操業」へ追い詰められた。陳情書に滲む言葉は、破綻寸前の村落経済を背負った庄屋の悲痛なSOSであった。

第五章:明治新政府による「庄屋パージ」と権力の剥奪(1871年〜)

不良債権リスクと闘い続けた旧庄屋層は、明治維新という近代化の荒波の中で、ついに制度的な「解体」の憂き目に遭う。

【第4編 行 政】

この制度によって明治四年三月村役人解放の触書が出され、大庄屋・与頭庄屋・庄屋など従来の村役人はすべて廃止されたのである。さらに村々には隣近所などにより組合(五人与)をつくり、その組長には村役所から伍長(従来の五人与)が任命された。

(中略)

明治五年五月行政区画として大小区制を制定した。(中略)戸長は戸籍の作成と管理その他の事務にあたった。また人選も、他村の人が任命されるなど村人とのつながりが崩れる原因ともなった。これは明治十六年ころ川井村の戸長西条文平は川島町の人であることでもわかる。

新政府の中央集権化により、大庄屋や庄屋といった在地の支配層は「すべて廃止」され、意図的に他村の者が戸長に任命された。天田・三木両家は、このトップダウンによる「庄屋階級のパージ(追放)」という制度的暴力により、世俗的な村の支配権を完全に奪われてしまったのである。

第六章:大正天皇大嘗会―大正四年の復興と「命がけの奉送」

権力を剥奪されてから半世紀の雌伏の時を経て、彼らは大正の大嘗祭を機に反転攻勢に出る。三木宗治郎は遠祖以来の職分である「麁服(あらたえ)貢進」復活のための猛運動を開始した。

三木宗治郎は、遠祖以来の職分である麁服貢進についての運動を始め、「三木由緒」「阿波忌部麁服奉仕の由来」などのパンフレットを作ってその筋に陳情した。宮内省へは三ッ木出身の漢学者山田貢様(中略)を通じて運動を進め、また徳島の生んだ歴史学者喜田貞吉博士の意見などを参考にして、ついに大正四年(一九一五) 六月には徳島県知事末松偕一郎に大礼使から「大嘗祭の儀に於て悠紀殿主基殿の神座に奉安する麁服は阿波国より調進せしめる(中略)」との通達があったので、知事は当時の木屋平村長天田信一を通じて三木宗治郎を調進者と決定した。これは本人はもちろん、 村にとっても名誉なことであった。

麻糸は木屋平村において調製し、布は山瀬町の忌部神社境内に織殿を新築して織り上げることになった。麻の栽培は海部郡(現在那賀郡)木頭村北川で行い、八月十日から木屋平村谷口神社の拝殿で麻糸を紡いだ。麻紡に奉仕した人は松家カメ・新藤カク・新田ヨシ・猿向フジ・新明ヨリ・奥木頭の西フク・野口サヨ・谷トメの八人に加え剣麓青年会の会員も奉仕した。この間の監督は天田村長があたり、九月五日に作業完了、九月七日に山瀬織殿へ奉送するために青年会員七人・天田村長・神職奉仕者・三木宗治郎らが、早朝に谷口を出発した。山瀬町では、 当日麁服の織初祭を挙行し、織女には山瀬町で六人の少女を選んで、県立工業学校の校長がその監督に当たることになり、調進者三木宗治郎は織殿に常勤し、十月九日に織り上げた。選ばれた織女は松本ヒデノ・伊月ヨシ・池上トク・京野イチノ・石川ヨネ・増富ハマコで、助手として麻山カスヱ・尾崎テウの総員八人が奉仕している。

ここで注目すべきは、彼らが早朝の暗闇のなかを出発し、「徒歩で山を越えた」という事実である。木屋平から吉野川流域の穴吹へ抜けるルートは、かつて平家の怨念すら眠る「恋人峠」の伝説が残るほど、人を寄せ付けない絶壁であった。そのため、機織りの拠点である山瀬町へ向かうには、険絶な峠を徒歩で命がけで越えるしか方法がなかったのである。この「決死の山越え」という強烈な原体験こそが、次の大嘗祭までに安全な車道を開かなければならないという、村人たちの悲願の原動力となった。

第七章:「荒妙の道」の開削と野望(1923年〜)

大正十二年(1923年)、天田信一村長は「御大典記念事業」という錦の御旗を掲げ、不均一夫役という無給の労働を村民に課して、ついに未曾有の車道開削工事に着手する。

麻植郡長殿
麻植郡木屋平村長 天田信一

不均一夫役許可申請

村道開削工事の為、不均一夫役賦課の必要あるに付、御許可可被成下度別冊理由書及び村会決議書写相添へ此の段申請候也

・別冊「理由書」
従来本村における新規事業、即ち道路開削、学校、役場の建築増築その他所有公共事業を起す場合は、事業地付近の村民は挙げて出役し、工事に従事するは古来よりの旧慣にして、善良なる慣例と言はざるべからず。本村御大典記念事業たる村道開削に当り開削の結果最も利益を受くること厚き一部の部落民に対し、町村制第一〇四条により夫役の賦課をなさんとするにあり。

・道路工事委員選挙 通知書

大正十二年三月木屋平村会に於て道路工事委員選挙の結果、工事委員に当選相成候付及通知候也
大正十三年三月四日 木屋平村長 天田信一

工事委員当選者(十三名)
川井 岩雲広輝・森本峯三郎・朝倉石藏
木屋平 下家浜蔵・張久弥右ェ門・川原窪貞太郎・石川清三郎・梅津権八・岡田治三郎
三ッ木 山内文平・佐藤利夫・山田勘左衛門・三木宗治郎

この十三名の名簿は、単なる村人の寄せ集めではなく、難工事を遂行するために綿密に計算された驚くべき「オールスターチーム」であった。特筆すべきは、以下の二つの強烈な個性が組み込まれていたことである。

精神的支柱である神官家(岩雲氏)、実務のプロフェッショナルである元庄屋(梅津氏)、行政トップの村長(天田氏)、そして神事の象徴となる麁服調進者(三木氏)。この完璧な布陣こそが、村人たちとともに岩を砕き、平家の女房を拒んだ最大の難所「恋人峠」の断崖区間に車道を拓く最大の原動力となったのである。

第八章:昭和大嘗祭における「完全なる復活と役割分担」(1928年)

大正四年の命がけの山越えから十数年。血と汗で拓かれた「荒妙の道」は、ついに昭和3年(1928年)の大嘗祭においてその真価を発揮する。

【昭和三年 麁服奉送の記録】

この紡がれた麻糸は、九月二十一日自動車で山瀬町の麁服織殿へ送られた。同月二十五日山瀬町では織殿落成式と織初式を挙行し(中略)午後二時発の汽車で徳島県庁に奉送した。翌一日を一般縦覧に供し、二十四日晩小松島出航の舟で上洛し大宮御所へ奉納した。

奉送者は、学務部長川久保常次郎・奉仕者三木宗治郎・山瀬町長重本栄助・木屋平村長天田信一・県属坂崎小伝次・機織助手松本ヒデノ、白丁として唐櫃をかついだ人は宮島進一・山田正養・三久霞・高木安一であった。

徒歩でしか越えられなかった四国山地の奥深くから、近代文明の象徴である「自動車」が、神事の供物を載せて駆け下りていった。

明治政府に一度は剥奪された世俗のトップ「村長」の座を奪還し、実務を完璧に統括した天田信一。江戸時代から守り抜いた由緒を最大の武器とし、国家神事の「奉仕者」として君臨した三木宗治郎。どん底を味わいながらも生き抜いた両家は、近代において「俗と行政(天田)」と「聖と由緒(三木)」という完璧な役割分担を構築し、見事に歴史の頂点へと返り咲いたのである。

終章:歴史を拓いた村人たちの叙事詩

「阿波忌部の末裔」という華々しい神話の裏には、17世紀に名字や特権を剥奪され、役人にへりくだり、18世紀末には家名存亡の危機に瀕し、村人への貸付金の焦げ付きに苦しみながら株を売り払い、最後には国家によって庄屋の座を追放された、在地実力者たちの泥臭くも凄絶な実態があった。

しかし、残された女性たちが知恵を絞って「由緒」を創出し、金融と流通で村を支配し、剥奪された権力を数十年かけて奪い返し、最後には国家事業(大嘗祭)を利用して断崖に自動車道を通した彼らの数百年におよぶ軌跡は、無機質な神話よりも遥かに力強い。これは単なる地方行政の記録ではない。激動の時代を逞しく生き抜き、奪われた権力を取り戻し、未来へと道を切り拓いた阿波の村人たちの、壮大なる勝利の叙事詩なのである。