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阿波・畿内戦乱の軌跡:室町から戦国へ

享徳から長禄年間:畠山氏の家督争いと赤松氏の再興

細川勝元の管領再任と畠山氏の家督争い

享徳元年(1452年)10月、細川右京大夫勝元が管領に再任された。享徳3年(1454年)4月、畠山伊予守義就と畠山尾張守(政長)が家督を争った。当初、徳本(畠山持国)には子がなかったため、その弟・持富の子である政長を養子として家督を継がせることにしていた。しかしその後、実子の義就が生まれたため、政長を退かせて義就に家督を継がせた。政長や山名宗全らは御教書(幕府の命令書)を申請し、義就を追放・誅伐しようとした。しかし、細川勝元は密かに義就を自邸に匿った。

山名宗全の介入と細川邸包囲

同年8月、山名宗全らは家臣や浪人を集め、この件を理由として山名相模守(教豊)らに細川邸を包囲させた。細川勝元や武田、小笠原らは室町殿(将軍邸)を警護した。同月21日の夜、宗全は計略を巡らせ、浪人を差し向けて突如として徳本の邸宅を攻め、火を放った。徳本と義就は逃げ出し、義就は河内へ向かった。徳本は建仁寺の西来院に蟄居し、不本意ながら政長を家督とした。ただちに義就を誅伐する御教書が出され、政長に対して徳本の邸宅を攻撃させた。しかし、将軍義政はこの騒動における山名宗全の軍勢の横暴な振る舞いに怒り、宗全を誅伐しようとした。勝元は間に入り、宗全のために弁明して謝罪させた。しかし、これによって勝元は、匿っていた義就を攻撃されたことを恨みに思い、両者は不和の兆しを見せ始めた。

赤松氏再興の試みと宗全の激怒

康正元年(1455年)5月、細川讃岐守成之は、赤松家が断絶していることを哀れみ、また山名宗全の勢力拡大を挫こうと考え、赤松満祐の姪(甥)である彦五郎則尚の赦免を義政に願い出た。そして則尚を赤松の旧領である播磨へ向かわせた。播磨は宗全に与えられた国であったため、宗全は激怒して兵を率い、赤松を討ち破った。則尚は討死した。宗全はすぐに上洛し、その威勢に並ぶ者はなかった。

神璽返納と赤松氏の正式な再興

長禄2年(1458年)8月、神璽(八尺瓊勾玉)が南方(南朝方)から内裏へ返納された。これは、赤松の家臣で石見太郎左衛門という浪人が、三条右大臣実量に対して、赤松家の断絶を嘆き、「嘉吉の変での大逆の罪を償うためのご奉公として、何かできることはないか」と尋ねたことに始まる。実量は「もし南方へ赴き、その王を殺害して神璽を奪い返し、返納したならば、いかがであろうか」と提案した。実量がこれを天皇に奏上し、武家へも申し入れたところ、許可された。その後、赤松の一族である間島らが「中村」と名乗って南方へ奉公し、接近して隙を窺い、南帝を殺害して神璽を奪い取った。吉野の郷民が追撃してきたため、中村は討死したが、間島は神璽を捧げ持って帰京し、内裏へ進上した。これにより、赤松満祐の弟・義雅の孫にあたる次郎政則(当時5歳)が召し出され、加賀半国を与えられて赤松氏を再興した。これは細川家による取り成しであったため、山名宗全は非常に不快に思い、細川に対する怨みを深くした。寛正3年(1462年)、畠山義就との戦いで政長が敗北した。そのため、将軍の命により、細川讃岐守成之、山名弾正忠、武田、佐々木、伊勢国司、北畠教具などが政長への加勢として派遣された。義就は敗れ、金胎寺の城が没落した。

寛正から文正年間:細川勝元と山名宗全の対立激化

勝元と宗全の不和の兆し

義就は嶽山城を落ちて高野山へ入り、政長は続いてこれを攻めた。義就は吉野山へ逃れた。12月、政長は帰洛した。当初、山名宗全は細川勝元と共に政長を取り立てて義就を退けようとしていたが、細川が赤松家を再興させたことに憤っていた。そして今回、数年にわたる戦いにおいて義就が武勇に優れていると聞き、これを助けようと密かに連絡を取った。勝元は宗全の婿であり親しい間柄であった上に、勝元には子がなかったため宗全の子を養子にしていた。しかしその後、勝元に実子が生まれたため、その養子を仏門に入らせた。これ以降、細川と山名は仲が悪くなり、権力を争う兆しが現れた。

将軍家の後継問題と宗全の後見

寛正5年(1464年)11月、将軍義政は治世が長くなったが、今年30歳になってもまだ男子がいなかった。そのため、弟で浄土寺の門跡であった義尋を還俗させ、名を義視と改めさせて従五位下・左馬頭に任命した。今出川殿と号し、天下を譲る約束をして、細川勝元を義視の執事とした。寛正6年(1465年)正月、義視は従四位下に叙された。同年11月、義政の御台所である藤原富子が男子を産んだ。富子は密かに山名宗全を頼り、「義視が家督を継いだならば、この子(義尚)は僧になるしかありません。どうかお守りください」と依頼した。宗全は元々勝元と不和であったため、「義視の代になれば勝元の勢力がいよいよ強くなるだろう」と考え、これを承諾して後見することを約束した。

斯波氏の家督争いと宗全の怒り

文正元年(1466年)4月、斯波義廉と斯波義敏が家督を争った。義敏は以前、京の領地である千代徳が早世して子がなかったため浪人となり、周防国にいた。ところが、義敏の妹は伊勢貞親の妾であり、義敏の子は蔭涼軒西堂の弟子であった。そのため、貞親と蔭涼西堂が相談して将軍義政に申し入れ、義敏を呼び戻して斯波の家を継がせようとした。しかし義廉はこれに従わなかった。義廉は山名宗全の婿であったため、宗全は激怒して兵を集めた。義政も怒り、義視とも不和になった(義視が義廉に贔屓していると疑われたため)。

御霊の森の合戦と政長の逃亡

義視は恐れて細川勝元の邸宅へ逃れた。貞親、蔭涼西堂、義敏は京を出て逃げ去った。日野大納言勝光と一色範直が計らって義政と義視を和睦させた。宗全は御霊所で誓いを立てて義政に申し開きをし、畠山義就を上洛させて自分の邸宅に引き入れた。畠山政長はこれを恐れ、ますます細川勝元と親密になった。応仁元年(1467年)正月、山名宗全と畠山義就は幕府の四方の門を警固し、義視を室町殿に招き寄せた。さらに天皇と上皇をも室町殿へ行幸させた。そして、細川勝元と畠山政長を殺害する許可を求めた。義視は使者を送り、勝元に対して政長との交際を絶つよう命じ、勝元はこれに従った。これにより、政長を追討する院宣が下され、義就を大将として御霊の森で政長と合戦になった。政長は逃亡した。

応仁から文明年間:応仁の乱の勃発と終結

両軍の結集と対立の激化

宗全と義就は洛中において威勢を振るった。2月、斯波義廉が管領に任命された。勝元は邸宅に籠もっていたが、政長を救えなかったことを無念に思い、また宗全と義就が威勢を振るうことを憎み、ついに合戦の準備を始めた。細川一族(淡路、讃岐、阿波、土佐、和泉、摂津、丹波、河内、備中の軍勢)、畠山政長(紀伊、河内、越中の軍勢)、斯波義敏の兵500人、京極持清(近江、飛騨、出雲、隠岐の軍勢)、赤松政則の兵500人、武田国信(安芸、若狭の軍勢)、富樫介の兵500人、その他吉良義真、仁木成長などの大小名が勝元に従い、その数は16万人と言われた。一方、山名一族(但馬、播磨、備後、因幡、伯耆、美作、石見の軍勢)、斯波義廉の遠江、尾張、越前の軍勢、畠山義就の大和、河内、熊野の軍勢、同義統(能登の軍勢)、一色義直の丹波、伊勢などの軍勢、土岐成頼の美濃の軍勢、守護大名内の軍勢、阿波の一族・伊予衆の軍勢、その他吉良義藤、仁木教将など以下、宗全に従う者は11万人と号した。勝元は陣を東に構え、宗全は西に構え、洛中を二分して互いに挑み合った。義視はただちに勝元と宗全の元へ赴き、和睦に尽力したが同意には至らなかった。

本格的な合戦の始まりと戦火の拡大

5月、勝元は赤松政則に播州と備前へ赴かせた。旧領であったため、ほどなく平定して両国の兵を率いて帰洛した。宗全方からは一色義直が義政の館(幕府)を守備した。勝元は大軍を率いて義直を打ち破り、ただちに幕府を警固して義政の旗を掲げ、宗全を討伐しようとした。6月から本格的な合戦が始まり、毎日止むことがなかった。洛中洛外の民家や寺社は多くが焼失した。8月、大内介政弘が大軍を率いて上洛し、宗全方に加わった。赤松は摂州でこれを防ごうと合戦したが敗北した。同月、勝元は天皇と上皇を室町の花の御所へ行幸させた。これは、「もし義政・義視の両将軍が宗全方に付いてしまった場合、勝元は天皇と上皇を自陣にお置き申し上げて戦おうとするためである」という理由からであった。

義視の動向と諸国への戦乱の波及

9月、義視は密かに京を出て伊勢国へ向かい、伊勢国司である北畠中納言源教具の館に入った。応仁2年(1468年)正月から3月にかけて、勝元と宗全は洛中で合戦を続け、その徒党の者たちは各地方でも互いに戦った。4月、勝元は使者を送って義視を迎えに行き、10月に義視は京に到着した。この時、勝元が義視を将軍にしようと企てているという噂が流れ、義政が疑いを持った。勝元はこれを聞き、その疑いを晴らすために義視を比叡山へ登らせた。すると宗全は使いを送り、義視を自陣へ迎え入れて主君と仰いだ。これより、義尚は勝元方に、義視は宗全方に付くこととなり、兄弟で国を争う形に似てきた。文明元年(1469年)正月、義政の子・義尚(当時5歳)が勝元以下の諸大名の礼を受けた。義政は伊勢守貞宗に扶持を与えた。宗全方の諸大名らは義視に謁見した。5月、多賀豊後守高忠が近江から軍勢を率いて上洛し、勝元方に加わった。しかし、近江で六角亀寿が蜂起したと聞いて高忠は帰国した。高忠は京極氏の一族であり、京都所司代となった。また、大内が筑紫(九州)に留守として置いていた尾張守という者が謀反を起こして勝元方に呼応した。その隙を狙って少弐嘉頼の子・教頼が対馬から出撃し、筑前の旧領を奪い返したため、九州も大いに乱れた。

両大将の死と乱の終息へ

文明4年(1472年)、勝元と宗全による洛中の合戦は未だに収まらなかった。能登の畠山義統は宗全方であったが、義政の意向に従って勝元に降伏した。これにより北国からの道が開け、勝元の陣へ兵糧が多く集まるようになったため、宗全方から勝元へ降参する者が多く出た。文明5年(1473年)3月19日、山名右衛門督持豊(入道宗全)が70歳で死去した。同年5月11日、細川右京大夫勝元が44歳で死去し、龍安寺に葬られた。応仁元年(1467年)から今年まで7年間合戦が続き、勝負が決まらないまま両大将が病死した。しかしその徒党はなおも洛中で対陣を続けた。(四国守護職である細川讃岐守義春は、阿波の勝瑞館において国政を執った。年月日は未詳である。)文明7年(1475年)11月、山名宗全の徒党であった大名たちは皆京を去り、それぞれの国へ下向した。義視は美濃へ赴き、洛中は静謐を取り戻した。応仁の乱からここまで11年に及んだ。

細川政元の伊予侵攻と阿波勢の活躍

(南海記によれば、文明11年(1479年)細川政元が阿讃の武将に命じて伊予国の河野氏を攻めさせた。これは応仁年間に(河野氏が)山名方であったためである。政元は阿波の屋形である讃岐守義春を大将とし、阿波・讃岐の諸将二万人をもって伊予国へ差し向けようとした。讃岐国の住人である香川肥前守元明、香西備後守元資、金良允、即左衛門尉元安、安富山城守盛長、同左京進盛保、三谷兵庫頭景久、寒川左馬允元宅、十河十郎景貞以下が、同国豊田郡の仁保・観音寺に充満し、海軍(水軍)の到着を待った。阿波の兵船数百隻が讃岐国の管水崎を廻り、伊予国宇摩郡の川之江や新居郡の大隅浦に充満した。数日来、海辺に割拠していた兵将どもが迎撃し、陸軍は伊予の兵を越えて河之内へ入ろうとした。阿野が戦術を設けたというが、山名方が衰微している上には頼る所もなく、香川肥前守を頼って降参を乞うた。(香川が)看てすぐに讃岐守へ執達し、赦免を申請して和平が成立した。すなわち、同国内で侵犯した地を元の持ち主へ返還し、四国寺の屋形と定め、国中を統一させて、義春は阿波へ帰陣した。

文明後期から文亀年間:細川政元の台頭と暗殺

政元の管領就任と畠山氏討伐

文明18年(1486年)7月、細川右京大夫政元が管領に任じられた。明応2年(1493年)3月、義材(将軍)が河内へ発向し、畠山義豊を討った。畠山政長も相従した。義豊は義就の子である。4月、義材は正覚寺に陣を敷いた。畠山政長は討死し、その子・尚順は紀州へ奔走した。義材を政元が捕らえて、その家人である物部紀伊守の所へ押し籠めた。そして政元の計略をもって伊豆から義澄(後柏原院の御代)を迎え入れて上洛させ、主君とした。

戸倉の凶行と政元暗殺

文亀4年(1504年)6月、細川右京大夫政元は、家人の香西又六や薬師寺らが小臣の戸倉某に賄賂を贈り、今月23日の夜、政元が愛宕山精進のために湯殿へ入ったところを、戸倉が従い入り密かに政元を殺害した。近習の波々伯部が急いで出合ったが、戸倉は一刀で刺して逃げ去り、波々伯部も討死した。初代・尊氏の時から、細川氏は四国を領している。頼之以来、嫡流は管領として在京し、「上の屋形」と号した。頼之の弟である詮春や満之らは在国して阿波・讃岐の内にあり、これを「下の屋形」と言った。政元は常に魔法(修験道)を行い、修験の潔斎の故に子がなかった。

細川澄元の擁立と洛中の争乱

そこで下の屋形・讃岐守義春の子である六郎澄元を養って子としていた。しかし、澄元がまだ上洛しない内に政元が俄かに討たれてしまった。香西らは計略を以て、九条関白尚経の末子を養って細川九郎澄之と号させ、政元の養子に定めた。洛中は騒動となり、香西らは嵐山に城を構えて立て籠もった。7月、澄元は阿波から三好筑前守長輝ら三千騎にて摂州へ出張し、其処から上洛して京に陣を敷いた。8月、香西らと百々橋を隔てて相戦い、ついに波々伯部が先駆けをして戸倉を討ち殺した。香西も矢に当たって死んだ。その徒党は皆敗れ、細川九郎も害されて洛中は静謐となった。澄元が武家の管領となった。政元は今年42歳、大心院と号する。澄元はこの時16歳であった。

永正年間:細川氏の内紛と三好長輝の活躍

細川政元暗殺後の京の混乱

南海記にはこうある。「永正4年(1507年)6月23日、細川政元が愛宕山への潔斎のために浴室に於いて、家人戸倉次郎がその隙を窺い政元を殺し、行方知れず逃げ去った。これにより洛中は騒動となった。諸将は皆将軍家に馳せ集まったが、在京中は物騒であった。香西備中守元継は管領の館を守って将軍家に達し、細川氏族中へ書を送って曰く『政元公が不慮の害に遭われたことは、是非に及ばざる事である。九郎殿を世嗣に立てられる事は政元の本志である。各々も同意されるべき由を述べる』と云ったが、阿波の屋形を恐れて同意する人はいなかった。九郎を退けて六郎を立てようと欲したため、罪を元継に被らせる者が出た。元継の妻は智謀・威厳共に天下の大事をなすに不足はないと言い、氏(元継)は身命を政元の恩に報い、忠義を九郎澄之に尽くした。嵐山に城を築き、丹波の糧道を利し、京に有合の兵三百余人をもって立て籠もり、細川氏族中へ書を通じて曰く『速やかに我が領中に触れて兵を集めよ』と云ったが、俄かの事なれば馳せ来る者はなし。阿波の屋形義春はこれを聞き、六郎澄元に三千余人を附けた。三好筑前守長輝が7月10日に京着して、嵐山の敵勢を聞いて大音声で向かった。孤軍にて相対すると云えども三百余人をもって百々橋を中にして攻戦すること五日、追って勝負は一味せず(つかず)、彼此の兵の死を致す数は知れず。元継は死戦を設けて盾を荷い橋を越えて打って出、三好が陣へ打ち入らんとした。戦い酣にして勝敗未だ決せざるに、元継は矢に中って死んだ。三好の兵士はこれを見て競い進んで攻め入った。」

九郎澄之の敗死と澄元の管領就任

戦い渇耗して細川九郎澄之は自殺した。三好長輝は則ち六郎澄元を立て政元の家督とした。依って管領に任じた。時に歳は十六であった。長輝がその後見として王畿(畿内)諸州に威を振るった。永正7年(1510年)正月、大内介義興は京都の乱政と政元の死を聞いて時分良しと思い、前将軍義尹を取り立てて筑紫・中国の勢を催し上京した。4月、細川右京大夫澄元を大将として、阿波・淡路・和泉・河内・摂津の兵二万余騎を率いて摂州へ出陣した。将軍・源義澄も京を逃れ出て江州の佐々木六角高頼を頼り、帰洛の謀を廻らした。阿波の屋形義春は近江の高頼と頼み牒を合わせ、細川管領家の諸将へ触れて兵を催し、京都へ攻め入り大内介を追い立て、将軍義尹を慶し(退け)義澄を帰座させようとした。

大内義興の上洛と細川・三好勢の出陣

ゆえに細川右京大夫澄元を大将とし、阿波・淡路・和泉・河内の諸将、兵二万余騎を掲げて摂州へ出陣した。三好筑前守長輝、其の子下総守長秀を先鋒として12月8日に淀川を渡り、東阪(大山崎)に着陣し、細川方兵衆は山崎に到り東西へ分かれ、一時に攻め入らんとした。京都も東より敵が向かうと聞こえたので、大内左京大夫(義興)はその手方を定めた。安芸の武田彦太郎親信、備後・安芸の兵士七千余人を附けて日ノ岡峠を指し塞ぎ、河野四郎通直・陶四郎入道に四国・九州の兵二万人を附けて東寺の表を固めさせた。畠山弾正少弼、同宮内少輔、朝倉貞景ら七千余人は三条の南の所々を守護せしめた。大内介義興一万五千人は、大敵の向かいし方の後詰と定めて洛中に在った。然るに江東の大軍が押し向かうと云われたが、日ノ岡を踰るを得ずして手合の謀は如何にか成りぬ(失敗した)。此外、細川方は三好長輝が山崎表より押し向かい、其の子下総守長秀は鳥羽道を押して入る。執事義興の先鋒杉七郎が拒むと云えども、押し破って京中へ攻め入る。河野通直・陶入道が東寺より出でて敵の後ろを覆う。阿波の兵は初めは合戦に勝って京へ攻め入ったとも云うが、江州の援兵も来ずして謀が相違した。三好長輝は兵卒を集めて百万遍寺に引き入り、三千余兵をもって一場の必死の陣をなし大敵を待った。

山崎・東寺での合戦と三好勢の奮戦

大内の先鋒として河野・陶ら二万余が馳せ向かい一戦を交え、越前・朝倉貞景、伊予・河野通直、大内義興ら三万余兵をもって縦横無尽に攻戦したが、勢力が尽きて百万遍寺へ入った。三好筑前守長輝、其の子下総守長秀は父の命を受けて大兵を下り敗軍を集め、阿波へ逃げ帰って恥を晒すことは武将の道に背くと語り合い、6月23日に一族大将らと共に大内介義興の陣中にて切腹した。大内介義興は関西・西海の武勇を掌にして管領に任じられた。

細川政賢の京攻めと討死

永正8年(1511年)8月、細川太郎政賢が四国・東国の兵を催し京を攻めたところ、将軍義尹、大内義興は京を出て丹波へ赴いた。政賢は入洛し、義尹も兵を集めて取って返し、洛中の舟岡山にて合戦となった。義興は武勇に励み、政賢は討死した。永正17年(1520年)、細川澄元は細川高国と権を争って合戦したが、高国が敗れて江州へ赴いた。高国は細川民部政春の子である。政元の養子の約束が有ったという。正月、高国は又上洛した。6月、澄元が死に、これに依って高国は威を振るい、摂州尼崎を焼き、城を構えて居城とした。

大永から天文年間:三好海雲(元長)の台頭と細川氏の衰退

将軍没落と三好海雲の京攻め

大永元年(1521年)3月25日、将軍義稙(改名)は京都から没落して淡路国に蟄居した。細川高国は謀にて、法住院義澄の子・義晴が播州に在るのを迎え入れた。大永7年(1527年)、朝倉孝景が京都に於いて三好勢と合戦し、阿波勢が多く死んだ。細川高国も動いて桂川で敗れた。同年、三好長基入道海雲が阿波国より出陣し、泉州堺に到って京へ攻め入った。細川高国と桂川にて合戦す。南海記云く、大永7年秋、細川晴元は諸方の手合を約して阿・讃・土佐・備中の五ヶ国の兵を会し泉州へ渡り、摂州へ入って細川高国の与力兵将を追い払い、両国を攻め靡かせ、三万余兵をもって京都へ押し向かう。佐々木六角定頼は晴元の外甥なれば、手合として江東より攻め上ると京都へ告げたため、細川高国は兵を分けて日ノ岡へ向けて防ぎの兵を置き、自ら七千余人を率いて桂川へ出向いた。朝倉孝景七千余人をもって鳥羽道へ押し向かう。将軍義晴は東寺に陣す。然るに三好之長入道喜雲が一万余兵をもって山崎より押し出し、西の郊を経て桂川へ押し向かう。高国の戦は不利にして七条大宮を指して引き退き、喜雲は北を避けて競い進んで京中へ攻め入る。三好が河原に到る。朝倉孝景が鳥羽より取って返し、三好の後ろを襲う。喜雲も北白川へ出でて防戦をなすと云えども、敵兵が京中に分散して聚まらず。朝倉方は兵率互いに力を合わせて相進めば、三好は渇き(力尽き)、喜雲も此処で自殺す。

桂川の戦いと三好之長の自刃

享禄4年(1531年)6月、三好海雲ゆえ、細川澄元の子・晴元(歳十三なる)を大将として、細川高国と尼崎并びに天王寺を過ぎて合戦あり。高国は大に敗れ、三好勢は是を追い、高国が民家の壺の内に身を隠し居るを見出して討ち殺す。天下の権を執り敵を破る故に、高屋の城に居る三好宗三(以下続く)天文元年(1532年)、将軍義晴は江州朽木へ没落。細川右京大夫晴元が管領に任ず。三好海雲が威を振るい、晴元とは不和なり。南海記云く、天文2年癸巳、三好筑前守入道海雲は、去る大永年中より数度の戦功を恃んで天下を己の有とせんとす。晴元は是を憤るといへども権臣の事なれば其の力及ばず。阿波の屋形持隆も愚昧にして細川氏の威勢は日に衰え、三好氏が日に盛んにして国中に盈てり。三好海雲は和泉河内を得て其の根を固くし、天下を横行し執権を破るが故に、高屋の城に居る三好宗三を摂州芥川に還し、其の足跡を鎮めしむ。和泉の先の領主・畠山高政は紀州に蟄居して、和泉河内の隙を窺って恢復せんと計る処に、海雲が兵士を阿州(阿波)へ帰し、微勢なるを知って、泉州・阿州畠山方の者が一揆を起こし、不意に堺の止宿・顕本寺を攻む。入道海雲は無勢なれば防戦の術が尽きて自殺す。其の憤りを含んで腹をかっさばきて天井に投げ付けて死す。

三好長慶の台頭と阿波・讃岐の統治

其の子・筑前守長慶は怒りて細川晴元の執事となる。和泉河内を統領せしめ、其の弟・彦次郎之相を以て阿波の屋形持隆の執事とす。三男に淡州の守護を命じ、讃岐守(摂津守)冬康と名乗る。四男は讃岐十河の家督を續ぎ、十河左衛門督一存と在り、讃岐の目代とす。

晴元の傀儡化と三好氏の天下横行

晴元・持隆は名計りにて、政事は皆海雲の四人の子下知す。晴元は阿波・讃岐・淡路・和泉・河内・摂津・丹波七ヶ国の主として摂州中島に在城す。伊予・土佐は細川の幕下と雖も、三好の下知に従う。三好宗三を以て摂州芥川の城を守らしめ、京方山崎表の先鋒として池田・伊丹・清水・茨木・吹田・多田・高槻等の兵将が是に属す。三好長慶を以て河州飯盛山の城を守らしめ、京方八幡表の先鋒として河州の兵将が之に属す。三好山城守をして高屋の城を守らしめ、三好日向守をして堺の津を守らしめ、三好下野守に岸和田の城を守らしめ、紀州和州(大和)の便宜を窺わしむ。長慶に(三好長慶に)属従させた。天下の一大事に及ぶ時は、江州の佐々木氏と力を合わせ共に救おうとした。故に領地を近くして交わりを結んだのである。しかし、「家臣の威勢が君主に勝る時は、その国は必ず亡びる」という昔の言葉がある。三好氏は晴元の命令を侮り、持隆を軽んじて、自分の思い通りに振る舞っている。敵は外にいるのではなく、懐中に毒虫を入れたようなものである。「阿波・讃岐の乱も遠くない」と言う者が多かった。

天文後期:三好長慶の勢力拡大と細川晴元との争い

細川晴元の京攻めと将軍の没落

天文15年(1546年)3月、細川晴元ならびに三好の一族が京へ攻め寄せようとしたため、義晴と義藤は北白川の城に立て籠もった。4月、晴元は四国の兵を率いて東山に陣を敷き、北白川の辺りに放火して摂州へ帰った。7月、晴元は再び上洛し、相国寺に陣を敷いた。佐々木弾正定頼は晴元を祝賀するために江州の兵を催し、北白川の城を囲んだ。義晴と義藤は城を焼いて坂本へ赴いた。晴元と定頼は共にその罪を赦免され、坂本へ参じて謝罪した。天文17年(1548年)、義晴ならびに義藤が帰洛した。晴元が管領となった。

三好長慶と宗三の対立、江口の戦い

天文18年(1549年)3月、三好筑前守長慶と三好宗三とが摂州にて諍論することがあった。細川晴元はこれに対して宗三を贔屓し、長慶を非とした。長慶は怒って、宗三が居る中之島の城を攻め破った。宗三は江波の城に入った。細川晴元は三宅の城に立て籠もった。佐々木定頼も晴元に力を合わせようと約束した。長慶はそのため、細川高国の子である次郎氏綱を取り立て大和・河内の勢力を後ろ盾とし、中之島城に立て籠もった。6月、宗三は江波を出て江口に出陣した。長慶はその弟である十河民部大輔一存と共に三宅の城を攻めた。江口にも打って出たため、宗三は討死した。晴元は城を出て密かに上洛した。これにより、前将軍、当将軍、細川晴元らは京を落ちて坂本へ赴いた。7月、三好長慶が上洛し巡見した。松永弾正忠久秀を京都の留守として置き、摂州へ帰った。

将軍義晴の死と相国寺焼き討ち

天文19年(1550年)2月、細川晴元と佐々木定頼が如意ヶ嶽に城を築いた。3月、義晴は新城に移ろうとして坂本を出たが、穴太の山中にしばらく逗留した。病気(不例)の様子であったためである。5月4日、前征夷大将軍義晴は江州穴太の山中で逝去した。義藤はこの叡山の辺り、宝泉寺に移り住んだ。晴元と定頼は義藤を警衛した。11月、三好長慶が摂州より上洛し、東山に放火して進み大津の松本に至った。晴元らの家人は敗走した。天文20年(1551年)、三好長慶は洛中の地子銭のことと称した。7月、晴元 の家臣らが相国寺に立て籠もった。長慶は押し寄せて放火した。

天文末期から永禄年間:三好実休の阿波簒奪と久米田の戦い

三好実休の驕慢と持隆の自刃

南海記に曰く、天文21年(1552年)壬子正月、細川晴元は堅田より行方知れずとなった。また三好長慶と将軍家との間に和平が成り、京都へお帰りになり、長慶が天下を掌握したと聞いたので、阿波の執事である三好豊前守義賢(実休)も屋形(主君)を破り、自らが阿波の守護になろうと欲した。その驕慢な様子は外に顕れていた。屋形は元より道理に暗い(盲昧な)人でありこれを知らなかった。実休はその不忠を四宮与兵衛に語りかけ、計略を用いて討つことを相談した。四宮が思うには、「屋形(が衰えている)の順路は去ることであるから、今実休を殺せば、国中の三好方が屋形を攻めるだろう。細川方には防ぐ手立てがない。そうであれば、この謀が漏れても用いられず、かえって我が身に難を受けるだろう」と考え、実休に密告した。実休は語った。実休は各々ともにしこりを作り、不忠に同心した。8月、持隆は龍音寺に入って遊興していた。実休は軍兵を集め、何となく押し寄せて龍音寺を囲み鬨の声を上げた。屋形(持隆)は、事の次第を見て見性寺へ逃げ入り加勢を待ったが、見ると皆三好の旗に属しており、持隆の味方に参じる者は一人もいなかった。これによって細川讃岐守持隆は自刃した。家人の星相左衛門、兵衛、蓮池清助の二人(原文ママ)も同じく死んだ。義賢は17歳で剃髪して物外軒実休と号し、持隆の子である掃部頭直之を取り立てると言って人をなだめ、屋形に押し入って守護と称した。同月、長慶は2万人を率いて入洛し、将軍ならびに晴元は丹波へ没落した。永禄元年(1558年)、三好・松永の乱により将軍義輝や細川晴元らは (木ノ)城を没落した。9月、義輝ならびに晴元は坂本より進発し、勝軍山の城に立て籠もって上った。松永久秀と白川にて合戦した。11月、三好長慶と和睦し、義輝は帰洛した。晴元は芥川に囚われの身となったが、年を経て死んだ。

三好長慶の紀州攻めと阿波・讃岐勢の動員

南海記に曰く、永禄3年(1560年)、三好長慶は紀州を討とうと欲し、泉州岸和田に城を構え、淡州の兵を呼び、安宅摂津守冬康を将としてその二千余人をもって守らせた。紀州の雑賀・根来・熊野の兵士はこれを聞いて、「紀州の一大事である。じっと座っていては後悔しても甲斐がない」として畠山を取り立て、紀州・泉州の主とし、将軍家へ言上して紀州を安堵すべきであるとして、畠山高政が紀州広の浦にいるのを立てて大将とし、一万余人をもって旗揚げしたと聞こえたため、三好はまず堺の請司代である十河民部大夫一存、三好刑部少輔、三好左馬助、炭成主税助、早淵頼母助を加勢させて岸和田を守らせた。阿波・讃岐への陣触れには軍兵が集まり、讃州では香川景則、奈良元行、香西元載、安富成負、寒川信家らがその兵五千人をもって岸和田に着陣した。阿波の兵将は、篠原右京進、伊澤越前守、重清豊後守、大西出雲守、森飛騨守、三好越後守、天野駿河守、一宮長門守等七千余人が、三好豊前入道実休を惣大将として堺の津に着陣した。泉州・河州の兵八千人は高屋の城主である三好山城守と共に城を出て、佐陀河内守を馳せ向かわせた。その軍率先陣は泉州・河州の 八千人。両将は後ろを打つとして、右は十河を旗頭とし讃岐の兵将二千人、左は篠原右京進を旗頭とし阿波の兵将五千人、およそ一万八千人をもって先鋒として三陣とした。

久米田の合戦と実休の不慮の死

三好豊前守義賢入道実休の旗本二千人が岸和田に出る。一方は陣を張り、また実休は兵を進めて久米田に陣を張った。彼我の陣は相近く、互いにその虚実を計って未だ戦を交えずに対峙していた所に、紀州の兵が少ないのを見て篠原右京進の軍手から進んで戦を始めた。十河一存も馬(魔)を駆って進む。左右の将は鬨の声を上げて攻めかかる。畿内の兵も同じく鬨を作って相進む。前線の兵は応酬して安否が定まらない所に、実休の旗本二千人が四方を囲んで陣を破った。一宮長門守は実休と床机を並べて居た。また西條壱岐守、篠原左兵衛尉、三木の道音、西傍遠江守の嫡子次郎大衛門、同じく弥兵郎の道等が実休の床机の方を固めて居た。そこに何処からか飛んで来た流れ矢が一つ来て実休の胸板に当たり、落馬して立ち上がる事もできなかった。生年35歳にて没した。先鋒はこれを知らずに進んでいたが、敵方より鬨を揚げて「敵は不和か、三好実休が矢に当たって死んだぞ。旗本が動揺するのを見よ」と罵った。人々が後ろを顧みると、旗本は堺の方角へ引き取っていく。敵が追いかけて来て、誠に難儀に追いやられた。永禄3年(1560年)3月5日のことである。

三好長慶の栄華と将軍家の渡御

将軍家譜に云う。永禄4年(1561年)4月22日、三好筑前守長慶上洛。義長は梅津に居た。長福寺。2月朔日、義長が出仕し将軍 家は御紋を賜わった。この時、松永弾正少弼も同じく御紋を賜わった。23日、義長が鹿苑寺で遊んでいた時、同朋の像阿弥が来て告げて曰く、「将軍が酒肴を以て来迎しようとしている」と。是に於いて義長は居る所を失い、周章(あわてふためいた)。既にして義長は立売町北木下の地に邸宅を新築し、仮屋や平張を列ね構えて渡御(将軍のお出まし)を請うた。3月、将軍家は伊勢加賀守を河内の飯盛城に遣わし、以て三好修理大夫長慶を召した。26日、長慶は上洛して御紋を賜ったことを奉謝し、且つ義長の宅において渡御があるべきことを賀した。晦日、将軍家は義長の宅に渡御した。塗輿に乗り、立烏帽子に直垂を着て、御装束は唐皮色、着掛の袴、繁綱など辺々に供従の者がいた。細川右馬頭藤賢が御太刀を持ち、大波左エ門佐、細川兵部大輔、上野民部大輔、松永弾正少弼、伊勢左京亮、同十郎伊勢守、万阿弥が供奉した。筑前守義長のため、その一族も長亭した(長く並んだ)。御門の外にてこれを奉迎した。細川右京大夫氏綱、三好修理大夫長慶は縁下にて候した(控えた)。既にして奥の間へ入御し、式三献があった。義長が太刀を献上し将軍家が御覧になった。御馬、氏綱、長慶らは庭上に蹲居した。その後、座に入って冷盃を献じた。将軍家は中央の上座に着き、御伴衆は南方の広縁に大納言、同光、高倉宰相等が列した。右側は右京大夫氏綱、三好修理大夫長慶である。北方は勧修寺中納言晴秀、飛鳥井中納言雅教、三好筑前守義長である。初献の時に進上した太刀、鎧、弓矢、腹巻、馬、その外小袖、段子、及び諸々の具。若干の 氏綱、長慶、松永弾正、三好日向守、同下野守、同弓助、同帯刀左エ門尉が献進物をした。今日の宴は十七献あった。その第四献より御箸を賜り、始めて猿楽があり十四番に及んだ。纏頭(祝儀)として鳥目一万疋。御供衆以下皆飲食した。松永弾正は御部屋衆の相伴となり、日向守、下野守も相伴となった。その余の経営(接待や準備)は美を尽くしたという。その後、義長は器量があったため、松永久秀はこれを恐れて密かに毒殺しようとしたという。長慶は既に老いていた。その弟である十河一存の子・義継を養子として嗣子とした。松永はますます権威を振るった。

永禄後期:三好長慶の死と松永久秀の暗躍、信長の上洛

三好長慶の死と松永久秀の謀反

南海記に曰く、永禄古年中は島ノ城において長慶が卒した。然れども天下の乱を恐れて死を隠し、世上には披露しなかった。弾正はなお以て自己の権力を専らにして将軍家を軽んじること甚だしかった。三好が軽んじるため公方はこれを憤り、松永・三好を退けようと謀った。佐々木、朝倉、毛利等へ松永退治の牒文を遣わしたという風聞があった。松永はこれを聞いて三好日向守、炭成主税助を呼んで密談して曰く、「今、公方は三好家の力によって天下の人主となっているやつだ。それなのに返って当家を滅ぼそうと謀るのは、外(他家)との結託である。後回しにして大事に及べば後悔しても益はない」として、「速やかに撃ち取ってしまえば、他は諸国の兵将の援護となる所はなく、当家の運は長く続くであろう。これを怠れば我が家の覆敗を待つのみである」と言うと、皆その意見に同心した。松永久秀、三好日向守入道釣閑、炭成主税助等、当家の人三人ずつを上京させて坂に兵を密かに潜ませたが、公方は知ら れなかった(お気付きにならなかった)。

将軍義輝の壮絶な最期

永禄8年(1565年)5月19日の夜中、俄かに大軍が御所の四方を取り囲み、鬨の声を作った。義輝公は少しも騒がれず、「敵は何者か問え」と仰せられたので、沼田上総介が承って門楼の上より「今夜の敵は何者か名乗れ」と言ったところ、武者が一騎進み出て「君(将軍)の陰謀が露顕して、三好の代官として松永弾正久秀が馳せ向かって候。疾く(早く)ご切腹なされよ」と言った。沼田は御前へ参り、「三好・松永の謀叛にて候。ご自害あるべきか」と申した。義輝はこれを聞こし召し、彼等に一矢射ようと自ら躙り寄り、弓矢を合わせ指を詰め引き詰めて射玉うと、矢にて二十余人を射殺し、太刀を抜いて十余人を斬り伏せ玉いて「心地よい(相快し)。これまでだ」と言って引き退き玉う。御所中の当番の侍は少なく、松永・三好と挑戦して一人も残らず討死した。将軍は御母公、御台所とともに常御弥、図阿弥を以て御自害を進め、御宝蓄を焼いて御年三十一で自刃し玉うた。

義昭の擁立と織田信長への頼み

何川(河内)飯盛の城主・三好京大夫義継はこの事を知らずして、「京都に事変があった」と聞き、何事とは知らねども兵三千人を挙げて馳せ出したが、宇治橋に至る時に松永が将軍を弑殺し奉ったと聞いて、路次より軍を返した(班軍す)という。義輝の弟である奈良一乗院の門跡・覚慶は早くこれを聞いて、春日山を越えて近江へ赴き、六角佐々木義賢入道を頼って居り、還俗して義昭と号した。永禄10年(1567年)8月、佐々木承禎の子・義郷が三好に通じ、義昭を害そうとした。義昭は これを聞いて若狭へ廻行し武田義統を頼って三好追討を議したが叶わなかったため、越前へ越えて朝倉義景を頼り暫く居住せられた。永禄12年(1569年)7月、義昭は越前より細川兵部大輔藤孝、上野中務大輔清信を使者として尾張の岐阜へ遣わし、織田信長へ三好追討の事を頼んだ。信長は許諾し、不破河内守、伊丹陽前守長政を副えて義昭を迎えさせた。義昭はすなわち岐阜へ赴いた。8月、信州・江州へ出張し、使者を以て六角佐々木承禎に三好追討の事を相談したが、承禎は同心しなかった。上洛将軍家譜に云う。

織田信長の上洛と畿内平定

9月28日、京着。義昭は清水寺に居り、信長は東福寺院中に居り、当先参賀す。29日、信長は兵を進めて勝龍寺城を攻め、岩成主税助は降参した。信長はすぐに渡り向かって摂州の芥川城を攻めた。10月朔日、城主の細川六郎、三好日向守(政康)が退去して2日後、小清水城が陥落した。義昭は小清水に入り、信長は芥川城に入った。そしてそのまま進んで池田城を攻めた。城主の池田筑後守は人質を出して降伏を乞うた。これによって畿内はことごとく平定された。信長はその地を分割して諸将に与えた。松永久秀をはじめ、降伏してくる者が多かった。11月に帰洛した。義昭は六条本圀寺に居り、信長は清水寺に居た。朝廷の臣が制法を申し渡した。皆が言うには、京都の京極・森本・家臣・日賀多馬岡等の方から右の佐々木(六角)の落城の次第を、書面をもって知らせてきたという。その後どうするつもりか。摂津国芥川の城には三好日向守、同下野守(康長)が5千人で立て籠もり、同国小清水には篠原右京亮、同少将が5百人、同茨木城には三好備中守が千余人、同滝川山ノ城には澤田右近大夫が250人、総大将の三好山城入道(長逸)・ 笑岩(長逸)は阿波国へ落ち延びて、再び四国の軍勢を集めて京を攻めようと評議しているという。

三好・松永勢の抵抗と勝龍寺城の陥落

松永弾正忠久秀と、その息子の右衛門佐久通は3千5百人を率いて北白川に陣を取って駐屯した。岩成主税助、同備前守、三好新左衛門尉等も千5百人を率いて京都に居残り、一戦交えようと企てたが、敵の若手の多勢を聞いて対抗しがたいと思ったのか、京を退いて青龍寺(勝龍寺)の城に立て籠もった。また、摂津の池田城には三好山城入道笑岩の老臣である池田筑後守が2千5百人で立て籠もっているという知らせを信長が聞き、「京都に敵はいない。松永父子を生け捕りにせよ」と勇み進んで、永禄11年(1568年)10月28日の子の刻から辰の刻にかけて軍勢を押し入れた。巳の刻に義昭が入洛した。軍勢のきらびやかなこと、馬や武具は今日を晴れ舞台とばかりに見えた。洛中の貴賤は街に群れをなして見物した。こうして将軍は慈照院へ、信長は東福寺、京極(相国寺)義秀は南禅寺に駐屯した。信長はまず松永を诛伐しようと北白川へ向かわせたところ、松永は左近将監久範を使者として「弾正父子の命を助けてくだされば、御味方に属して軍忠を尽くします」と申し出て降参した。信長は許諾し、即座に進んで義昭公に謁見させた。その時、松永吉光(久秀)は短剣「小龍」(九十九髪茄子の誤りか)を献上した。一説には、「松永は代々(幕府の)臣下である。是非をわきまえていないわけではない」という。信長はそこから、岩成主税助、同備前守、三好新左衛門が籠もっていた青龍寺(勝龍寺)城へは、柴田修理亮、蜂屋兵庫頭、森三左衛門、坂井右近、織田十郎左衛門等の6千5百人を大手へ向かわせ、搦手への攻め手には京極義秀の 内の目賀多、摂津守、進藤山城守、平井出羽守、蒲生太兵衛大夫、京極長門守等の五隊5百人を向けた。大手と搦手合わせて1万8百人が青龍寺の城へ押し寄せた。城外の民家に放火したところ、城中から足軽を出して防ごうとしたが叶わず敗走した。同29日午の刻より戦が始まり、城兵も突出して戦ったが叶わず、城内へ引き入れた。寄せ手の方では首を135討ち取った。またその夜、戌の刻より城に攻め懸かり、大手・搦手で揉み合い、息を継ぐ暇もなく攻め立てた。城主の岩成主税助は心優しく士卒を下知し、命を惜しまず防戦した。しかし、寄せ手は新しい兵(荒手)を次々と入れ替えるので、気力を保って攻め戦ったが、城兵には入れ替わる新しい兵がいないため、戦い疲れてしまった。これにより岩成主税助、同備前守、三好新左衛門、畠山六郎等は「今はこれまで」と、首を刎ねて(髻を切って)降人として出た。竹中大膳がこれを取り次ぎ、信長は許しを与えた。その夜丑の刻に城を受け取り、すなわち降参した四人ならびに松永弾正をも、摂津の寄せ手に加えられた。

池田城の攻防と徳川勢の一番乗り

11月1日、信長・義秀の両大将は摂津天神の馬場、高槻、茨木の辺りに陣を取り、城々を攻めようと評議された。芥川の城に籠もっていた細川古郎、植国、三好日向守定康、同下野守康吉、平等守が大軍を見てその夜に城を捨てて逃げ出し、四国へ 落ちて行った。細川古郎は軍を分けて東国へ落ちたとかいう。そうこうするうちに、小清水、滝山の両城に籠もっていた篠原右京進忠雅、同少将、澤田右近大夫長繁等も味方の城の没落を 見て城を逃げ出し四国へ落ち去った。よって寄せ手の大軍は池田の城へ押し寄せ、町屋を打ち破ろうとする所に、城中から軽卒を出して防戦した。城方の足軽頭、高小絞という者が力戦して働いたが、近江勢に取り囲まれて討死した。城中からもこれを見て、南口の木戸を開き、槍の先を揃えて突出したため、近江勢は追い立てられ、右往左往に逃げ出した。勝機に乗って追討し、城から遠くへ馳せ出た。信長の軍勢がこれを見て、横合いから討って掛かった。これにより城兵は大いに戦い、敵が分け入るのを恐れて城へ引き入れかねていた。時に、 東照宮(徳川家康)の御加勢の大将、松平勘四郎信一が「卑怯者ども、討ち入らせよ」と下知して8百余騎が城兵に近づき進んだ。城兵も踏みとどまって戦ったが、後陣の大軍が進むのを見て早々に城へ引き入れたところに、松平の立てた陣を破って徳川勢が付け入りに攻め入った。後陣の大勢も続いて入り、二ノ丸にて攻め誅した。今日の南口の一番乗りは徳川の松平勘四郎であると名乗った。敵に息を継がせまいと、申の刻から酉の刻まで新しい兵の入れ替えに隙間なく攻め立てたため、城兵は勢力が疲れ て防ぎきれなくなった。城主の池田筑後守正久(勝正)は「今はこれまで」と笠を掲げて降参した。信長は即座に許した。すなわち一族郎等50人を追い出して城を渡し、正久は信長へ初めて拝礼を遂げた。すなわち「龍虎」という名馬を信長へ献上し、「市国丸」という太刀を義秀へ進上した。同3日、高槻・茨木の両城に籠もる松山判 却少輔康俊入道松講斎、三好備中守の両人も松永を頼って降参し、城を明け渡した。同4日、河内若江の城主・三好左京大夫義継が天神の馬場に来て、信長に謁見し申したことには、「同姓の笑岩(長逸)は不義にして前の将軍(義輝)を殺し奉りました。しかもそれについて私も謀られましたのは如何にも無道な連中に与したと思い、一族を離れて志を義昭公へ通じております。そのため笑岩は度々私を討とうと軍を起こしましたが、ついに城を落とすことはできませんでした。そうしたところに、早速の御上洛、喜びに堪えません」と申したので、信長はその貞心を感じ入り大いに褒美を与えられ、河内一国の無事を義継に任せ、若江の城に返し、「笑岩が攻め上って来たら出向いて防ぐべし」と 下知された。12月から正月にかけて、三好の残党が京都へ乱入した。

天正初年:長宗我部元親の阿波侵攻と三好長治の最期

上櫻城の落城と信長の権勢拡大

義昭はこれを拒んで退く。南海記に曰く、天正元年(1573年)3月22日、阿波国麻植郡上櫻の城主・篠原紫雲入道(長房)、嫡子大和守、その他家の子郎等らが故あって立て籠もった。阿波の屋形・三好彦次郎長治は元より味方の将であるから、是非の沙汰にも及ばず、まず紀州・淡路・讃岐の兵を集め て、弟の十河存保を惣大将として上櫻の城を囲みこれを攻めた。数ヶ月を経てついに落城し、一族は残らず討死した。城跡の郡に訴えあり(?)。あるいは落城は元亀3年(1572年)7月16日であるとも云う。天正元年(1573年)11月、信長は河内へ発向し、三好左京大夫義継を攻め殺した。天正2年(1574年)12月、信長は権大納言に任じられ、右大将を兼ねた。

長宗我部元親の甲ノ浦攻めと海部制圧

案ずるに此の頃は、土佐の長宗我部元親が(土佐)一国を伐り靡かせて、阿波を窺ひ、阿波に攻め入らんとして、土州安芸郡甲ノ浦の城を攻め取りて、阿波海部へ伐り入らんと、野根の城地は土州なりといへども、この城主元木氏は阿波宮水城主とは別にして、土州に属せし事 は知らない。阿波に準じ、近年土州の領主長宗我部に押領せられて、多くは阿波へ逃げ隠れた。南海記に云ふ。天正3年(1575年)秋、元親は土州の兵を挙げて野之山千里の山路を越えて、甲ノ浦を攻め取りぬ。それより阿波宮水の領主は土佐の野根で長宗我部に攻め取られて海部の城へ逃げ入ったが運悪く、海部右近将監入道宗寿は軍役によって讃州へ出陣中で留守であったが、居合わせた兵卒が少しおり、宮水に討ち出でて、鈴カ峯に押し上り、備えを立てて待ち懸けた。元親はこれを見て進むこと能はず、「攻め討て」と大音に罵って押し登れば、目に余る多勢に敵わないと思ったのか、山を下へ退散した。追ひかければ、城へも入らず山中を行方知れず逃げ去った。これに依て海部は阿波国中で一番に長宗我部が物となった。

細川真之の勝瑞脱出と三好長治の孤立

南海記に曰く。天正14年(天正4年の誤りか)12月5日の夜、細川掃部頭真之は勝瑞の屋形を抜け出でて、福良出羽守を頼み飯谷に落ち行く。お供の侍は、仁木伊賀守、林裏波、ただ三人、下働き三人、主従六人である。出羽守は仁者であるから、甲斐甲斐しく手配して、仁宇山の奥の要害 を構へ、細川屋形の旧臣・大粟右近服部、因幡守森監物、栗田宇左エ門、中津野六郎左エ門等を招き寄せて番役を勤めさせて、「密かに跡を責めよ」といひ、長治といひ、互に阿波一国の有様、若しこれを討つのではないかと思った。長治は此の様子を聞きて心安からず思はれたことだろう。天正5年(1577年)3月上旬に、兵を集め荒田野口へ出張して、仁宇山へ兵を向かはしめた。然れ共山路は難所の要害なれば、手安く攻め兼ねて数日を送る内に、一宮長門守、井澤越前守が悪意を通じ、沙汰があったのか、急に軍勢を挙げて後詰めをなし、長治の兵は敵わないと思ひけん、切火縄を竹木に結び付けて多くの兵が持ち懸けたる侍に見せかけ、其の夜密かに長治は篠原へ(原ニ)着いたのか、今切の城に入りぬ。

今切城の攻防と三好長治の自刃

然るに一宮成助、井澤越前守は時日を移さず、細川真之を大将として二千余人で今切の城に馳せ向かった。長治は敵わないと思ひけん、土佐泊の森志摩守へ使を遣はし、「淡路へ渡海すべき事がある、急ぎ船を助任川へ乗り回すべし」と伝えた。志摩守は早速船を装い、遅れまいとしたが、弥生の下旬の雨の夜にて暗かり、紛れた船頭水夫たちは、山を立ち退いて助任川へは入らずして、佐古山下へ乗り入りした。長治は夜中に今切の城を忍び出で、助任川を登り下り舟を尋ねけれども、甲斐なし。東雲が明るく行く程になりかたき(なりぬか)、別宮の渡しで里の役人を呼んで、讃州へ渡り玉ふべき由を云ひければ、「畏りて候」と申しながら敵方へ注進した。又之に依りて一宮、井澤、 頼俊は二千余人を以て長治の居る所を取り囲みければ、遁るべき方なく、天正5年(1577年)3月28日辰刻、別宮浦長原と云ふ所に於て自殺した。介錯は姫田佐渡守、共に自殺した。濱隠岐守、梶井又五郎、原孫助、正道等も同じく自殺した。長治は則ち絶命。辞世が有る。

「三好野の 梢の雪と散る花を 長き春とや 人の言うらん」

三好式部少輔康俊は直諫を以て、常に左太を憚り(?)、共に自殺し辞世を残した。

「三好野の 花の散るにはあらねども 散るには漏れぬ 山桜かな」

なお式外神社の部に詳しい。

矢野駿河守の敗死と一宮成助の籠城

天正6年(1578年)、阿波国。去年春、三好長治自殺の跡は誠に亡国にて、誰か屋形と号する人なきため、去年夏、矢野駿河守、篠原肥前入道自遁が語らひ相共に計りて、井澤を討つ。其の後一宮成助を討たんと謀計を廻らすと云ふ共、成助は大身の者なれば人数多く勝つべき道なしと日々送る所に、成助が土佐方に属しければ、「光南方・葉野(那賀郡か)を取返すべし」とて、矢野駿河守、篠原自遁、兵卒三千余人を率ゐて南方葉野には発向す。一宮長門守は土佐の与力として其の後に出陣す。篠原入道は其の変を知りて紛れ忍んで北濱に帰る。矢野駿河守は兵を引いて帰りけるか、柴山に打上りて敵の方を見れば、兵士五百許り勝浦川を渡りて 駿河守は心急き、無将にてよき時機と陣を引いて合戦を始む。南方の兵はこらえきれず犬寺(丈六寺か)へ入らんとす。駿河守は追ひ攻めて首級二百余を得たり。夫より舟に乗て津田に渡り勝瑞へ帰陣す。其の後、阿波の各将は紀州に勝れ合して大身を招き、七千余人を以て一宮へ攻寄る。成助は城を守りきれず、要に兵を引て栗山の奥・焼山寺へ取籠る。其後山分は勝浦の奥、仁宇、和食、木頭、海部、何処も皆土佐方に成る。元親が阿波に入て南北より片端に呑食スレハ、「大将を立テヽ国主と頼まう。十河存保は長治の弟なれば勇智計略を兼ね備へている」と、堺の警衛を替へて近々下向し、阿州の君に備んとテ 三好越後守、矢野駿河守、河村左

天正6年:十河存保の阿波入国

十河存保の阿波下国と篠原自遁の降伏

馬免(十河存保か)ら連判の書状を贈って存保を呼び下し、その使者は久保佐渡守という三好家譜代の家臣であった。存保や笑岩(三好長逸)へも以前から通じていたので、「早速下国しよう」ということで、兵卒200人を引き連れて淡路に渡り、陸路を経て、天正6年(1578年)正月3日に阿波へ渡り向かった。寒さが厳しく風も激しく、船の通行が難儀であったため、「ここで一晩宿泊しよう」ということで、時木津の城主・篠原肥前入道自遁(これまで自立の志があったが、存保を主君とすることを好まず、使者を通じて断ってきた)は、「存保がこのように近くへ下国されたことの便宜でありますから、ここから勝瑞へはお入りになられず、一戦交えましょう」と申し上げた。また存保も、数代の誼を忘れるほどの逆心の者(自遁)を討つよりほかに望みはなく、「一戦しよう」と返答し、陣所を見立て、「早いことだ」と十河猪右衛門、同菊助、久保左助の三人が走り回り、大代掃部の土居構えが究竟(最適)の地であった。三人は中に入って、「存保公の御下国である。悪い節がある」と言った。掃部と同弟の三四郎らは「畏まりました」と言うなり、六人ともに裏道から後ろへ抜けようとした。猪左門、菊助の二人が両人を人質に取り、左助を存保へ迎えに遣わし、この土居構えに移り入った。大代掃部は自遁の妹婿である。見捨てるのが難いと思ったのか、自遁の方から扱い(仲裁)を入れて和談し、存保を勝瑞に入れ申した。阿波・讃岐の懇意の者たちが来集して拝賀し、万歳楽を呼ぶという、目出度い春の始まりとなった。同年の夏、土佐の長宗我部元親は大軍を率いて阿波の大西に出張し、重清の城を陥落させて下郡へ攻出ようとした。

重清城の攻防と香西父子の討死

この城は、以前に遺して(置いて)おいた大西上野介(大西頼武か)の計略によって、叔父の重清豊後守を討ち殺し、その亡き跡へ、兄で讃州に流浪していた覚養を呼び返して居置いていたものを、今年になって存保が阿州に入る手始めとして、この城を攻め抜いて大西覚養を殺し、大西を押さえて城とし、番手をもって守らせていた。今回、元親が大軍を挙げて大西へ出ると聞いたため、三好存保は阿波・讃岐に陣触れをして兵を集めた。讃州の香川一千人は香川山城守、阿田七郎兵衛を陣代とした。香西五百余人は香西備前守、その子六郎大夫を陣代とした。存保は阿波の兵二千余人をもって重清の城の後援とした。同月、土州の先鋒・久武内蔵助は、大西上野介の重清の城へ差し向かった。両陣は川を隔てて相対した。讃州の香西備前守は五百余人をもって先陣に進み、川端に向かって陣を張り、前欠けの堀を残して列をなした。この備前守は我が家の騒動に因って私的に離反して東国へ行き、多くの兵(父の仇)として窺うには今日を限りにしようと思い定めているべきであった。土佐方の兵は、大西上野介の手勢五百人が真っ先に進んで川を越えた。久武もまた辞退しつつ越えようとした。三好存保も讃州の援兵を先陣とし、阿波の兵を二陣とし、存保はそれに続いた。香西備前守とその子六郎大夫と名乗って真っ先に駆け合わせ、互いに川に渉り入って、顔も逸らさずに攻め戦った。敵味方の眼前での、誠に晴れがましい勝負であった。土佐方は後陣の兵が湧くように続き、その数は知れなかった。三好方は僅かに五千人であったため、川の戦いに続く者がいなかった。香西父子はこの戦いで戦死した。大西久武も相討ち(討死)した。

天正年間:長宗我部元親の勢力拡大と中富川の戦いへの道程

長宗我部元親の岩倉攻略と信長の制止

川を越えて三千余人が鬨の声を揚げて攻め懸かったため、存保の兵将は敗走し、兵を引いて勝瑞へ帰った。重清の城を抜いて、元親は右陣(本陣)とした。ここから岩倉表へ発向しようとした。岩倉の城は、美馬・三好二郡の旗本であって、河内国高屋の城主である三好山城入道笑岩(長逸)の本領である。その子の式部大輔(初名は慶幸という)がこれを守り、すなわち和平をなし、実子を人質として土州へ遣わ菅した。家臣の大島丹波も実子を遣わした。皆、人質を渡して拝礼するという事になった。よって上二郡(美馬・三好)は土佐の得るところとなり、元親は土佐へ帰陣した。同年夏、三好笑岩が信長に訴えたことには、「長宗我部元親が自分の威光を頼みに振る舞い、公儀(信長)を恐れずに阿波国へ攻め入り、南方の二郡を相領し、笑岩の本領である美馬・三好の二郡をかすめ取りました。すでに信長公の幕下であるのに、笑岩の本領を犯すべき理由はありません。畢竟、上を蔑ろにする狼藉者です。急ぎ制止を加えられなければ、後日天下の禍害となるでしょう。早く御裁断を仰ぎたい」と由を言上した。信長はこれを許容し、「即座に制止を加えるべし」として、まず元親に書状を下した。その文面は甚だ厳重であり、「私的に兵革(戦)を起こす事を制止する。阿州南方は長宗我部氏に遺恨があるゆえに、これは赦免する。それ以外の阿波・讃岐・伊予は公(信長)の幕下であるから、決して弓矢を取ってはならない。もし違反すれば土州に征伐を加える」と下知があった。とはいえ元親はこの趣旨を承知し、「昔、我らは人より先に信長へ伺候しました。身は不肖であるとはいえ、元親が四国を平均(平定)して、信長の片敵の根を絶ちましょう」と乞うた。

三好式部大輔の寝返りと岩倉城の悲劇

これによって、孫七郎(元親の嫡男・信親)に「信」の一字を賜った。「今また何の故に先約を変えられるのか。これはただ佞人(へつらう者)どもの言葉が妨げているのだろう。この旨を然るべく申し入れよ」との返答があったと聞こえた。同7年(天正7年)、讃州香川、羽床も皆元親に降参した。三好存保も頼みとする者が少なくなった。また阿州岩倉の城主・三好式部大輔は、「元親に対して何とか一廉の働きをして拝謁しよう」と思い、12月26日に森飛騨守、矢野駿河守、三好越後守の方へ使者を遣わし、申し入れた条項は、「この岩倉の城は三好累代の家族といい、同姓、傍輩、先祖の本領地である。存保公が遺棄されるような事があってはならないとはいえ、近頃は土佐方の勢いによって不得已(やむを得ず)降伏した。明日27日には土州の番兵が引き退くという由を申してきた。これまで兵将を向けてくださるなら、我らは寺(城)を裏切りましょう(内応しましょう)」と申し通じた。各々はこれを聞いて同心し、誰もが「まさにその通りだ」と思い、森飛騨守、三好越後守、矢野駿河守、河村左馬介らが急に兵卒を整え、27日の早天に岩倉の城へ向かった。城中は兼ねてからの方便(計略)であったので、城を出ずに敵を引き付けた。この城は、北は峻高な山であり、南は大川(吉野川)の激流であり、川と城の間へ敵を引き入れて合戦しようと待ち構えていたところへ、案の定、城下の町へ焼き討ちに入ってきた。昨日の手合わせの事が無い(味方するはずの合図がない)のを不審に思っていたところに、その兵の半分ほどが川上の方へ攻め上った時、煙の下から兵を下し、鉄砲をもって撃ち立てた。味方は後ろから崩れ立ち、川上へ登った兵は皆川へ追い入れられた。大軍が乱れ立ち、止める手立てもない様であった。岩倉の城から半里程ばかり川下を渡って引き退く所に、服の城には武田上野介が守る所であり、土州の加勢・大西上野介の兵もこの城に居合わせ、柳原に伏兵をして待っていた所に、三好の敗卒が逃げ来るのを兼ねて見知っていた事なので、毛舟にてこれを討ち、矢野駿河守、その子九郎二郎、森飛騨守の三人を一所で討ち取った。伏兵が一度に起き立ったため、河村左馬介、三好越後守も討死した。相次いで討たれた人々には、戸井新左衛門、川田鴨島城主・久須木與左衛門、久次川島兵衛進、川島城主・麻植志摩守、飯尾東城主・内原菊大夫、飯尾久左衛門、飯尾西城主、その他勇士数百人が顔も振らずに討死した。その翌日、式部大輔は白地の城に元親が在ったため、首注文を添えて送った。元親は悦んで、使者をもって褒賞を与えたという。岩倉の家老・美馬蔵人は駿河守を討ち取る一番首であり、その上敵将を討ち取ったため、感状に添えて熨斗付の長刀を賜った。同大島丹波守は秋月某を討ち、土佐の小姓組・山本勝右衛門は森飛騨守を討ち、右二人には敵将討ち取りの感状を賜ったという。天正8年(1580年)正月3日、三好民部大輔存保は阿波の屋形を潜かに夜に紛れ、忍び出て、讃州十河の城に入り給うた。その理由をいかにと言うに、篠原紫雲の旧臣・庄野和泉守、同姓右近らが勧めて、紫雲の子・篠原右京進を取り立てて一宮成助と一つになり、存保を大敵として防ぎ、「一宮の逆臣を討つことは一大事である。懐中に螫(毒虫)を生かしておいては、先祖の跡を踏まえて国家の存亡を司る事は不可能である。

十河存保の十河城入城と新開氏の降伏

殊に篠原自遁は素より逆意があり、君臣の道を失っている。自遁・成助が土佐方と一つになって存保を敵とすれば、阿波の滅亡は近い」と。これによって引き去った。また一宮成助はこの旨を聞いて即日勝瑞に番兵を遣わし、屋形を守った。篠原右京進の伯父・篠原久兵衛尉は古兵(ベテランの武士)であり、君臣の礼を失わず、右京進の不忠を深く嘆き、即座に連れ立って讃州へ来り、存保に向かって君臣の礼を尽くした。「世が澆季(末世)に及んで、天下の我が氏族がどうして義を背くのでしょうか。願わくば先日の右京進の罪のような事は赦され、永く君臣の道を立てていただきたい」と涙を流して申したため、存保も久兵衛の言葉の誠、有理に服して鬱憤を捨てて和解をなし、助けた。即ち右京進を残し置いて奉仕させた。久兵衛は阿波へ帰った。存保が去る天正7年より元親が讃州へ出て西讃岐を侵す故に、8年中は十河の城に留まり、「我が味方を敵として土佐勢を東に向かわせまい」と防いだ。元親は西讃岐に長尾の城を築き、阿波大西から取り付いてよく吾憎を相守り、断々と国を呑食しようとした。存保はこの旨をもって信長に達し、「早く援兵を下していただきたい」と頻りに請うたところ、まず三好笑岩(長逸)を下し賜い、播州の羽柴筑前守(秀吉)に命じて淡州の衆軍を渉らせ、「阿波・讃岐へ取続き(陣を進め)、近頃は凶徒を退治すべし」ということであったが、事が延びたのは、その頃阿州葉野(那賀郡か)城主・東條関之助は土佐方であり、同郡富岡の城主・新開遠江入道に通じており、裏は三好方にして互いに隣里にて相諍っていた。新開は元祖が関東の姓であり、文治または承久の乱の後に阿波へ下って年久しい名家である。通裏(東條)は毎度東條と攻戦して敗北を取っていた。よって葉野衆は出陣せず、その後、海部の城主・曽我部左近大夫親泰の方から使者を遣わし申し送ったのは、「土佐の元親は近年中に三好と一戦して弓箭を落着(決着)させようと欲している。その内に足纏いになる富岡の城をまず陥落させようと議定したと相聞こえる。また貴老(新開)がその内に降伏して阿州の弓矢の勝敗を行ない給えば、これは士民の安堵である」ということであった。通裏も「三好の家運が挫け傾き、またどれ程か有るべきとも恢復すべき家ではない。殊に我が家の滅亡は今日の一言にある」と心得て、一家門葉の者を集めて相談し、親泰の意に随い、元親に降参した。天正9年(1581年)、長宗我部元親は讃州北條郡(香川郡か)西ノ庄の城に入る。香西家臣の久利三郎四郎吉茂を番将として二千余人をもって綾坂の切所を指し塞ぎ、奈良太郎兵衛尉勝政に二千余人をもって宇足津の城を出た坂の出口に陣させ、東・西の陣線を通じて力を合わせて相守った。元親は西ノ庄の城に仕置(統治)を定め、香川民部少輔に土佐の兵五百余人を加えて辺りに置き、「西長尾の城とかく合い相持ち、左右の手のように相救うべきである」との謀計を下知し、元親は阿波の大西の城へ帰った。同7月、三好民部大輔存保は信長の命を受けて讃州香西、安富、寒川、植田、池田の三長(諸?)の城主、阿・淡の兵士を集めて一万人を引率し、北條に来陣し、西ノ庄の城を囲む。香西氏の番将・久利三郎四郎吉幸は二千余人を率いて先陣に進む。7月13日の夜、月が明らかなるに及んで、東の方の攻口より真部弥助祐重が唯一人、溝隍(堀)を越えて城中に入り、大音を揚げて名乗り、敵を招いた。城中の兵は、弥助が一人であるとは知らずに大いに騒動し、手に持った兵(武器)や足に踏む所も知らずに混乱した。城中の軍司・揖取彦兵衛尉友貞と名乗って鎗を直して相戦った。弥助はついに彦兵衛を討ち取り、垣を越えて我が陣営に帰った。諸人はその意気(勇敢さ)を知らずして、援助をなす者がいなかった。陣中驚いてこれに感心した。翌日、城門を開いて兵を出して懸合の戦いがあった。土佐の兵は山坂に馴れた小馬に達騎として乗り、阿波・讃岐の乗馬は大長であるから馬軍には不相合い(適さず)、悉く駆り立てられて隊伍が煩乱した。土佐衆は常に山に附いて廻軍し、平陸に出る事を好まないのはこの所以である。ここに香川民部少輔の家臣・宮武源治兵衛が良馬に乗って傍輩数十騎を、後ろに馬の鼻を並べて調え、日に一騎駆け込んで敵の背を踏ませるべし。「下立って看取るべからず(見くびってはならない)、早く敵が離れて引き取るのを高名とせよ」として、一斉に駆け破り引き取って、城門に待ち合わせ、一騎も失わずに城に入る。敵味方これに感心した。阿讃の兵衆はこの戦いに勝って旗色を直し、三好存保の勇武を顕わし、無威威大(威勢を大いに)にして城を囲んだ。土佐の兵は微勢であるため、大西の城へ通じて後援を待つといえども来らず。兼ねて定めた西長尾の援兵も、敵の大勢の間を知らずして来らず。これによって土州(の軍勢は…)

羽柴秀吉の動向と長宗我部の猛攻

淡路経由の羽柴秀吉の支援と四国政策

加番の兵はただちに降伏を乞うて西長尾へ退去した。存保はすぐに香川民部少輔を降参させ、城を受け取って香川伊賀守に渡し、番兵を入れて守らせた。香川は数代の居城を明け渡し、一族や家臣たちは白峰の片嶺である青海浦へ引き取らせ、自身は従兵二十人を連れ、甲冑を着けずに日頃の髪を剃って出家し、敵も味方も同情しない者はいなかった。存保は即座に信長へ注進し、早速の加勢を乞うた。三好笑岩も右の趣旨を信長へ伝えた。播州へも即時に安富方から黒田孝高(官兵衛)へも注進した。阿波の篠原自遁は三好家に同調せず、一宮成助と同調して土州(長宗我部)へ降伏しようと企てていた。信長は近国へ触れ、すでに四国の意向に関わろうとしていたが、信長への服従を望み、播州の羽柴秀吉へ頼みを通じていた。これより先、淡路の住人らが秀吉へ縁故を頼って和平をなしたため、仙石権兵衛を淡路へ遣わし、洲本に城を置いて、そこから淡路の諸将と相談して阿波への援兵を出そうとした。播州から生駒甚助、明石与四郎は自遁がいる木津の城へ渡海した。黒田官兵衛は淡路の野田孫五郎の城に入り、三好存保が阿波勝瑞の城を譲り渡すことについては、仙石氏が淡路の諸将を連れて入城させるべきであり、その時は官兵衛は淡路志智の城に移り、阿波の兵将から人質を取り、ことごとく存保の城へ送り入れて確実に調略すべきだと定めた。これにより四国への手配が段々と整い、讃州の安富肥前守はその子である後藤庄次郎を人質とし、自身も連れて播州姫路へ来て羽柴秀吉に面会して阿波・土佐両国本陣の城へ播州から滞りなく弾薬等を運送し、不足がないように手配した。12月15日に淡路の諸将を渡海させる旨を存保へ預け置き、由良の城を攻めたところ安宅氏が降参して淡路が治まり、また洲本の城へは仙石権兵衛尉を配置された。阿波国は三好笑岩入道が来て本領である美馬・三好の二郡を取り返し、岩倉・脇(芝山)の両城を得て元の通り守った。これによって一宮氏・新開氏共に信長に対して心安からず思っているところへ、三好存保が大軍を率いて阿波勝瑞の城へお入りになった。紀州から来て手合わせした兵卒も期日を約束して駆けつけ、淡路から田村孫廣が二百余兵を率いて到着し、存保は非常に喜ばれた。

一宮成助の孤立と長宗我部元親の阿波平定

時日を移さず一宮の城を取り囲んだ。この一宮の城というのは、かつて乱の後に小笠原長経の次男を大西から分け、佐々木経高の没収地を与えられ、新城を築いて一宮阿波守として居城とした強固な城であるため、なかなか容易に落ちる城ではなく数日を経たところ、9月8日に土佐から元親の名代として久武彦六郎親秋が二万余人を上郡に率いて駆けつけ、間近に迫ったため、その夜に陣を替えて奥野に引き退いた。同10日、一宮成助は久武彦六郎を迎えるために中島まで出向かい、兵卒一千余人を伴った。その頃、篠原自遁は信長に通じていたため、二千の兵をもって勝瑞寺に拠り、矢上村の表を防戦して一宮の兵二百余りの首を討ち取った。その内、和田林大夫という者は勇力を振るって二十一の首を得た。一宮は引き退いて城を守り、黒田の原に至って土佐の兵二万余人を率いて久武はここへ来た。しかし日が黄昏に及び、また恐れる兵を引いて久武も一宮の城に入り、即時に郭を築いて番兵を置き、土佐へ帰った。その帰陣の行程の間に、三好笑岩は阿波岩倉から出立して上洛し、信長へ申し上げた。「長宗我部元親は信長公の命令を塞ぎ、四国において逆威を振るい、寺社領を攻め破り、人民の命を奪うこと数知れずです。これにより信長公の追討軍を待ち、早々に駆け向かい力を合わせるつもりです。阿波の三好存保、同式部大輔、讃岐の香西、安富、寒川、伊予の河野、宇都宮、西園寺らは皆破られ海に追いやられています。将を遣わされて力を加えられれば、四国を平定することは手中に有るようなものです」と上申したが、信長は関東の事変があったため延引した。

信長横死による情勢の急変と十河城の戦い

天正10年(1582年)正月、信長は明智光秀に命じて使者をもって元親に達した。元親は先年からの好誼として本国(土佐)と阿波の南方二郡を賜ったが、それ以外の三ヶ国は信長の領国であるから、必ず軍備をしてはならないというものであった。元親は承知せず、「血戦をして賜ったものであり、ただ信長の恩ではなく、我が力をもって切り取った国であるから、お許しがあるべきだ」としたため、武田勝頼が没落の時に四国の陣は延引した。南海記に云う。信長は四国へ織田七郎信孝を大将とし、先陣として三好入道笑岩を指し遣わし、天正10年5月上旬に笑岩は先だって阿波勝瑞に到着し、まず一宮、富山、西城を攻め落とし、岩倉表を平定して、信孝の和泉の岸和田の陣へ日和を待っていた。丹羽五郎左衛門長秀が後詰の将軍として信孝の元へ集まった。信長公は京都に滞陣していた。その頃、秀吉は備中に出張し、毛利家が九州の兵を率いて備中高松城の後詰として現れ、秀吉は微勢で相対し難いという趣旨を知らせてきた。即ち明智日向守(光秀)に七万人の兵を与えて追いやろうとしたが、光秀は信長を恨み、信長が京都で微勢であるため、「我が兵七千を集めてこれを討つべきだ」と思いたち、京都へ押し上った。信長父子の人数はことごとく微勢で防戦の術がなく、父子共に明智光秀のために城の露と散った(本能寺の変)。三好笑岩は阿波勝瑞の城にて上京の変を聞いて、「元親の運が開く時が来た」と慍って(いかって)存保と勝瑞に籠もり討議を巡らした。南海記に曰く。8月吉日、讃州の伊賀守が元親に降参して東讃岐を攻めようと議定し、香西へ拝礼のために香西の加藤兵庫、行山志摩守を遣わした。謝礼事が終わって東征の事を議論した。加藤兵庫は「これより東において、この大兵に向かうべき者は一人もいない。十河の城に存保の名代として三好隼人佐が居るが、城を出ては何の名城を頼って守ることはできないだろう」と言ったところ、長宗我部親政もその意に同意し、8月11日に国分寺を出発して東方へ赴いた。その兵一万余人、伊賀守の兵一千余人を以て駆け加わった。新手であるため三手に分け、香西の加藤兵衛、植松帯刀、その子左衛門、唐人弾正、片山志摩守らを兵将として東に行かせ、十河城の西方の大将として向かわせた。南を指して城中の兵粮を入れ、兵衆を减らして長く籠城する計略をなし、退兵に備えて一千人の三ヶ月の兵粮を積み留めた。また敵兵は一万余人で山田郡に入り、秋の麦や粟を刈り取って人馬の兵粮とし、これを幾日も野を清め農民を脅かし、便りもなく四方に迷い疎まれる事であった。故にまた十河の城というのは、三方は深田に入り、南方は平野に向かって大きな出口とする。土居を二重に築き堀切はない。故に堀をなし、土質が生質(粘土質など)で崩れにくく不用意に切り立つ堀の勢いを尽くすということはできず、攻めあぐねていた。万余の兵が薪に火を点けて四方を囲み、田中に道を築いて四方から攻め口の用をなした。城中も鉄砲が多く、四方の櫓から放つので、築道も半途で止まった。また香西の方の陣所は西方に当たり、城から流れ出る草尾であり、城楼から二丁ばかりの距離を見計らって、先年能島が合戦の折りに渡って来た時に手に入れた大鉄砲二挺があり、これを運搬して右の楼に仕掛けて打ち放つと、楼が傾き敗れて人影を見るや東西の攻口へ持ち行き、火薬の用がある方へ打ち放つ程に城中は痛み、外へ出る働きも用をなさず内に籠もるばかりであった。城兵の前田甚之丞は退陣の隙を計り、夜討ちをして糧食を奪い取ること数度であった。或いは旗を破り、或いは兵具を奪う。本国に遠く兵粮運送の用も続かないため長陣になりがたく、三つに分けて二十日間故郷へ帰し、9月14日、敵も味方も長陣に疲れて夜の守りも緩くなった。また城中も機力が尽きたことにより、大将・三好隼人佐をはじめ前田甚之丞らは、敵方が夜の守りに怠慢があるだろうと欲した。此の時、諸手に令を下し、長宗我部は本陣を鏡(要)とし陣をもって夜討ちをし、「親政を討ち取れば総兵は皆退散するはずだ。汝らは必ずよく討て」と命じられた。元親の敵の陣所を夜に知り、また我らも知り尽くしている者二百人が、竊盗の舟より五十人を選りすぐり、内に入って敵に紛れ交じって機会を窺う程に、百五十人も三所に分かれ入って相図をもって討ったところ、頭の方の兵将十人を切り取り、早くそのしるしを知って引き上げたため、味方三百人は手を出さずとも早く親政を討ったと鬼神も親政に恐れおののいた。その後、甚之丞は隼人佐に語って「謀(はかりごと)は人の智にあり、死生は天の運にある。此の度親政を討ち漏らしたのも元親の運が強い故だろう」と言った。

中富川の激戦と三好勢の敗退

天正10年(1582年)8月上旬、元親は二万三千の兵を挙げて阿波の国を平定し、牛枝(牛岐)の城に着陣した。同国勝瑞の三好存保は後援の 信長公も薨去されれば、真に孤独の城にて助けもないが、共に攻めを我一人身に受けても怯む気色もなく座所に在った。長宗我部元親の兵将は、宿老の甚左衛門、十市備後守、業末孫次郎、光留権助、津野藤蔵、久武内蔵助、馬場因幡守、吉良播磨守、同左京進、江村孫左衛門、業名太郎左衛門、姫倉豊前守、吉田次郎左衛門、同三郎左衛門、山川五郎左衛門、同安田又左衛門、桑衣丹後守、同平左衛門、同将監である。土佐方の阿波の城持ちは、野中三郎左衛門、北村関斎、東条関之兵衛、牛岐右京進、仁宇但馬守、四国肥前守、同左馬九、香曽我部左近大夫親泰である。則ち親泰の力により居城である牛岐の城に馳せ参じ、五日間の評定があって、8月26日に出立し、その日一宮、夷山、西城の間を押し通り、早淵に至って城から足軽を出し鉄砲を撃ち掛けるも、元親は小敵に取り合うなと制して押し通り、翌日27日には川を南地の民家へ火を放って威を増し、翌28日には兵を二路に分けた。一方は長宗我部親泰を師将として南に向かって押し寄せ、一方は長宗我部新左衛門尉を定めて上郡中島口より押し寄せる。一宮、夷山の番兵もその夜勝瑞に集まる。元親の先陣・一宮長門守成助、桑野康明は黒田の原まで押し来たる。三好民部大輔存保は五千余兵を以て勝瑞を押し出し、勝瑞寺表に本陣を居え、先陣には余兵中富川の端辺へ 押し出し、川砂をかき上げ鉄砲を掛けて待ち懸けた。親泰の三千余兵が川端に臨む。元親も川へ五丁の時、久武内蔵助が元親に向かって「川を渡るべきです」と言うと、元親は軍師に向かって「時は何(いか)に」と問う。「善日なり」と答える。信親が馬に鞭打ち馳せようとする。元親は「信親の馬の口を取って放つな」と言う。信親は馬取りの手を鞭にて打ち放ち、川へザブっと馳せ入る。元親も続いて馳せ入る。これを見て先んじて親泰が下知して川を渡す。震日未だ舟渡りの大河ではなく、ただ大軍が前後を争い渡した程に、川下へ徒武者の腰に立つ(腰の深さ)ばかりであった。三好方も川へ下り入って鎗を合わせる。白波を蹴立てて相戦う。親泰の三千の兵が川下へ落ちざる所を久武内蔵助、長宗我部信親共に渡して鎗を合わせ、三好の家老・矢野伯耆守はその日の軍奉行であったが、親泰を見懸け名乗り掛けて鎗を合わせる。親泰の武具は草摺の上まで鎗で突き抜かれ、親泰はその手を下す。伯耆守は笑い落とし、我が徒の者に首を取らせた。諸手入り乱れて戦うが、土佐方の猛勢に押し立てられ三好は敗軍する。三好の従兵は今日限りと争って息する事なれば弑すること討死する。存保も今日を期と思し召して駒を進めようとなさる所を、家臣の東村備後守、十河但馬守の二騎が馳せ来て、「大将は不覚の死をせずものなり。千騎が一騎になることで命を全うして後をなすのが大将の術です。先ずは勝瑞へお入りなさいませ」と馬の前に塞がって諫めたため、旗を退して防ぎ勝瑞へ帰り入る。元親も後を慕いしか歩卒の腰桶等 をつかわせ夕陽に及んで勝瑞の城に寄り来たる。

天正10年:勝瑞城の攻防と十河存保の退去

勝瑞城籠城と大洪水による中断

二の丸、三の丸を攻め破り、本丸での攻防戦となった。元親から使者が来て言うことには、「勝瑞城を落とせば、その他の城は攻めるには及ばず、言うまでもなく降伏するだろう」と制止した。これにより掃部も勝瑞へやって来た。板西において首級三十を討ち取ったという。そうするうちに、勝瑞の城は二万余りの兵をもって昼夜取り囲んで攻め戦っていたところ、六、七日過ぎて大雨が降り、雷が鳴り動いて山が崩れ、世の人が跡形もなく流された。「屋敷を攻め崩したため、天の咎めではないか」と恐れた。阿波は西南が大きな山であるため、洪水が国中に充満して、一面の大きな湖のようになった。牛馬は数え切れないほど死に絶えた。土佐勢の陣所も難儀して流された。諸陣は皆、棚を作って上に登る者もあり、林の木に縋り付いて登る者もいた。土佐の馬は皆溺れ死んだ。元親は光勝院に、親泰は補陀羅山に、信親は萩原寺の本堂の瓦葺きの上に、三日間おられた。その四日目の八つ時(午後二時頃)から水が引き始めた。元親の小僕で岩左衛門、金八という二人の者が水練(泳ぎ)の上手であったため、泳がせて攻め口を見させたところ、櫓も攻城具も残っていた。しかしながら、食事を調達するすべがなく飢えに及んでいた。元親の本陣は土地が高かったため、ここで飯を炊き、筏に乗せて諸方へ運び飢えをしのいだ。そのうちに水が引いて、それぞれ食事の準備をした。城内は食糧が無かったが、森志摩守から関船二艘に兵糧を積んで送り届けられた。柿原源五は三好家の恩顧の者であったため、火薬を大量に舟で送り入れた。城中は勢いづき、再び攻めてこられても鉄砲を撃とうとしたが、水が胸に迫る深さであったため、火薬が湿って火が点かず、撃つのを止めた。

和議の成立と十河存保の東讃岐退去

すでに城攻めから十七日が経ち、城中から休戦(矢留)を乞い、東條関之兵衛のところへ存保から使者を遣わして言うことには、「この城は明け渡し申す。しかるべき和議を結びたい」ということであった。元親は承知せず、「この度、三好家とは弓矢(戦い)を尽くす決着をつける」との返事であった。存保はまた言うことには、「私は二度と元親に敵対しないという誓紙を奉る」ということであった。これにより、誓紙の正本を見届けるために、検使として中島の砦の兵衛を関之兵衛に添えて遣わして和議が調った。元親は一里引き退いて黒田原に陣を構え、存保は勝瑞の屋形・城を明け渡して、天正12年9月21日の夜、東讃岐へ退去した。

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