冬の里山 一宮城趾    2016.12.23
ホームページ 里山倶楽部四国 

- 天然の要害一宮城趾 -

今日は朝から城山で自然観察会だった。

クスノキに似ているヤブニッケイ等を教えて戴いた。

強風が吹き荒れ、見学途中にクスノキの枯れ枝が折れて落下してきたのには驚いた。

1m程の枝だったが直ぐ側に落ちて砕け散った。

太い枯れ枝だったので大きな音と衝撃がした。

頭に当たっていたら大怪我をした事だろう。

山歩きをしているとブナの古木などに、枯れ枝注意と書いてあるが落ちてくれば避ければ良いと思っていた。

しかし、落ちて砕けるまで気がつかなかった。

危険を実感した。

昼食後、家でジッとしているのには余りにも天気が良いので、一宮城趾に出かける事にした。



自宅から4㎞ほど歩いて、大日寺手前から一宮神社に向かう。

国中寺を過ぎて一宮小学校を左へと曲がるとこの辺は昔の城下町。

船戸川を渡り、普段城主が住んでいた御殿居跡を右に見て馬場を進むと神宮寺跡。

神宮寺とは、神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院。

一宮神社にも神宮寺があったのだろうか。

この神宮寺跡から経筒が発見された。



神宮寺跡を過ぎた所の一宮城趾入り口には立派な看板が出来ている。

要略

一宮城は歴応元年(1338年)小笠原(一宮)長宗により築城され徳島最大の山城。

南北朝の抗争時代一宮氏は南朝に味方して、北朝側の細川氏に対して山岳武士の頭領として対抗した。

長宗の代から十代を経て天正年間長門守成助まで、代々一宮氏が城を守りその間236年の長きにわたった。

天正10年(1582年)長宗我部元親の侵攻を受け、天正13年秀吉の四国責めの攻防の舞台となった。

その後、蜂須賀家政が入城し家政が徳島城に移ってからは、阿波9城となり
益田長行が城代となった。

看板では益田長行が城代だとしている。しかし、一宮城は益田長行の父親の益田宮内充一正が城代と記憶している。

調べてみると、一宮城は当初、益田宮内
少輔持正(大匠院の父)が城代となる(阿淡年表秘録)。

持正の後で、持正の子の益田宮内充一正が城代となる。

他の資料では、益田宮内
少輔一正が最初とされているものもある(姿なき阿波古城、徳島県史)。

一体真実はどうなのだろうか。

同じ益田宮内なので混乱がある。

持正が阿波に来たとは思えないし、年代から見て益田
宮内充一正が初代というのが正解だろう。

家政が阿波に入った当初、一宮城に一正と共に住んだとも言われている。。

その後、益田宮内充一正は一宮城を出て、七千石で中村重勝が大西城に移った後の海部鞆城の城代となる。

一宮城の城代は、宮内充一正の長男の益田豊後長行が継いだ。

海部鞆城を宮内充一正が退いた後には、また豊後長行が城代を継いだ。

中村重勝5254石→益田宮内充一政7000石→益田豊後長行7500石

 寛永十年(1633)、益田豊後事件が起こる

(徳島藩藩士録による)


一宮城、海部鞆城の城代については、資料により混乱が見られる。

ちなみに撫養城の城代は益田内膳 正忠。

益田宮内 一正と益田内膳 正忠は蜂須賀正勝の正室大匠院の弟だと言われている。

同じ益田一族なので紛らわしい。

 

その後、元和元年(1615年)に一国一城令が出て、寛永15年(1638年)他の阿波九城と共に廃城となる。

蜂須賀家政が一宮城を出てからも52年の間、一宮城が大粟山地域の押さえとして其の役目を続けていた。



阿波の始祖神大宜津比売命を祀る上一宮大粟神社を本宮とする一宮神社。

阿波藩主2代至鎮の産宮として尊信を受けたといわれ、本拝殿も藩主の建立による江戸初期のもの。

昔は明神丸にあったと言われている。

一宮神社には今日は立ち寄らない。



一宮神社の前に登山口がある。



案内板から転載




コンクリートの階段が続く。

階段が掘れて飛び出しているので、少し歩きにくい。



経筒出土地の看板があるが、実際の出土地はこの下の神宮寺跡。

急坂は竪堀の跡。

竪堀とは空堀の一種で、山の斜面に等高線に対して直角に掘られた空堀。

敵が山腹を横に移動するのを防いだり、敵が登ってくるのを防ぐ目的がある。

竪堀が連続的に並んでいるものは畝状竪堀と呼ばれる。




階段を上りきると左へと道があり其の先には倉庫跡がある。

標高89.7m

炭化米が出土したのでヤケムギとも呼ばれている。

モチツツジが沢山花を咲かせている。



正面に園瀬川と其の右に眉山が綺麗に見える。

此処から見る眉山は普段見ている眉山とは形が違う。

左奥には淡路島、右奥には津田山が見える。



また階段道が続く。

途中、天満谷や倉庫跡等への分岐がある。



石段横に小さな湧き水がある。

ホンの少ししか水が湧き出していないが、山城では貴重な水だったのだろう。



虎口を過ぎて左へと行くと才蔵丸跡



意外と広い。



立派な休憩所が出来ている。



倉庫跡から見た景色と殆ど変わらない。



傾斜が緩やかになるが此処も竪堀らしい。



門跡が有り青石の石段がある。

此処に櫓門があったようだ。



右に行くと明神丸。



帯曲輪を進み、細長い平地の先に展望案内板がある。



一宮や国府の町が一望できる。



西側には入田の奥に鮎喰川が流れていくのが見える。



広場は昔、樹木を伐採したらしく大きな樹木が生えていない。

此処には昔、一宮明神があり剣山遙拝所もあったようだ。

其の遺跡らしい物も残っている。



引き返して帯曲輪を本丸に向かう。



クルクル回ってきたようで位置関係がよく解らなくなっているので案内図で確認。



立派な看板がある。



立派な石垣がある。

石段は一段が高くて登るのにヨイショがいる。



本丸は可成り広い広場になっている。

標高144.3m

古い樹木は此処でも伐採されたようだ。



手水鉢が有り若宮神社がある。



本殿は昨年奉納されたらしい。

奥に古い祠があった。

元々はこの祠が台石の上に鎮座していたようだ。

(昔の写真に残っている)



案内図を見ても中々全容がつかめない。



鮎喰川の右には気延山から続く山並み。

左奥には西竜王山と其の中腹に建治寺が見える。

大粟山などは見えない。

小笠原長宗(一宮長宗)から歴代の一宮氏、長宗我部そして蜂須賀家政が活躍した時代をゆっくりと偲ぶ。



釜床跡の石組みが残っている。



本丸奥から下りるが此処の石積みは正面よりも新しく感じる。



水手丸、小倉丸方向へ行ってみる。



急坂を下ると塔石用の石が置いてある。

こんなので城が守れたのかなあ



色々な遺跡がある。



花畑?

綺麗な良く踏まれた道となる。

この道は昔、焼山寺から神領、鬼籠野を経由して大日寺までの遍路道だったようだ。

昔は鮎喰川沿いの道は険しくてこの道を利用した遍路が多かったのだろう。



山道は複雑に入り組んでいる。



小倉丸に向かう。



細長い広場に櫓台がある。



サンピアや大川原高原が見える。



更に進むと堀が巡らされている。



旧神山街道と書かれた方に行くが、シダが繁っていて引き返す。



道がよく解らないので、県道207号鬼籠野国府線に向けて下っていると思われる道を下る。

良く踏まれた綺麗な道が続くが突然、道が消えて湿地帯となる。

更に進むと人家が見えて県道に出る。



船戸川に掛かる赤坂新橋を越えて進むと船戸比賣(ふなはてひめ)神社に着く。

船戸神社は「一宮祠の東百八十歩 船渡神あり 或は以て船盡と為す

是なり三代実録貞観十四年十一月二十九日従五位を授く、

旧事記云ふ島之石楠船神又の名は天島船神、大宜都比売命の兄弟也」

特に川の最奥の船着き場に祀られる船戸神と「おふなたさん」の伝承が強い古社だと言われている。

神山全域に767カ所も残る「おふなとさん」の元宮だそうだ。

また、船戸神は道の分岐点などに祭られる神。

邪霊の侵入を防ぎ、旅人を守護すると信じられた。

道祖神。塞 (さえ) の神。久那斗 (くなど) の神。巷 (ちまた) の神。

『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と

言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。

『古事記』では、最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としている。



猿田彦との関わりがあるのか、カラス天狗と大天狗の額が祀られている。



庚申塔と地神塔も祀られている。



一宮城に縁のある一宮氏や曽我氏そして佐々木氏の名前が見受けられる。

岡山さんは600万円も寄進している。



帰りに國中寺にも寄ってみる。

國中寺(くになかじ)は、山号は如意山。

宗派は真言宗大覚寺派。本尊は不動明王(波切不動)、遊戯観音。

ぼけ封じ三十三観音霊場13番札所。四国八十八箇所13番大日寺新奥の院。

弘法大師空海が唐に渡る時、嵐の中、先達となったのが 「波切不動尊」。

遊戯観音は、ゆうげ、ゆうぎ、とも読まれる。

右手で身体を支え、飛雲上に坐す姿で、戯は無礙の意で、自在な神通。

遊戯とは、仏菩薩が自由自在に人を導き、それによって自ら楽しむこと。

遊戯観音をお祈りする事によって、人生をユッタリと楽しむ事が出来るのかな。




古い地蔵尊の向こうには眉山



奥には国中神社がある。

平安時代より以前に創立。名方郡十二社のひとつ。

那賀郡
美馬郡等に分社があり、当社はその根本社である。

境内にはヒノキの一木造といわれる男神座像・如来形立像があると言うが見当たらない。

また旧四カ村の産土神として栄えたらしい。



拝殿は本殿と切り離されて新しく建てられている。



倉庫の奥には祠と地神塔が祀られている。



地神塔の台石が丸くて小ぶりな猫足なのが珍しい。



万延元年の百度石や国中大明神と刻まれた石灯籠がある。



下に回ると立派な石鳥居と神社の歴史の説明板があった。



古い神泉と刻まれた石版と昔の泉跡が残っていた。

今日は、近くにあっても、中々訪れる事が出来なかった一宮城趾をゆっくりと回ることが出来た。






総歩行距離 9.8㎞

累計標高差 ±382m

行動時間 2時間55分




← クリック
ホームページにも是非お立ち寄りください