阿波忌部研究・一次史料を読む

三木家文書

三木家文書の現代語訳と実証的考証――一次資料から読み解く忌部伝承

太政官符(官宣旨)2通

天皇即位の大嘗祭において阿波国から麁妙(あらたえ)を調進するよう命じた太政官符(官宣旨)である。

太政官符(永仁六年)

【釈文】

左辨官下 阿波国 應早令織進麁妙御衣事 右権大納言藤原朝臣泰通宣奉 勅大 嘗會主基所神事依被國承例以忌部 氏人令織備附神祗官之使早以進上者 國宜承知依宣行之余期有限不得遅怠 永仁六年九月 日 右大史中原朝臣師熈奉 右少辨藤原朝臣在判

【現代語訳】

左弁官が阿波国へ下す。早く麁妙(あらたえ)の御衣を織り、進上させるべき事について。右の件、権大納言藤原朝臣泰通が天皇の命令(勅)を奉じて宣る。大嘗会の主基所(すきしょ)の神事にあたり、国に仰せつける先例により、忌部の氏人(うじひと)に織り備えさせ、神祇官の使いに付属して早く進上させよ。国はこれを承知し、命令の通りに実行せよ。(神事までの)期日には限りがあるので、遅滞してはならない。永仁6年(1298年)9月 日。右大史中原朝臣師熈奉(うけたまわ)る。右少弁藤原朝臣在判。

太政官符(文保二年)

【釈文】

左辨官下 阿波国司 應早令織進麁妙御衣事 右大納言藤原朝臣師信宣奉 勅大嘗會主基所神事依被国 依先例以人令織備附 神祗官之使早以進上者国宜 承知依宣行之會日有限不得遅怠 文保二年九月廿六日 左大史小槻宿禰 右少辨藤原朝臣(高?)判

【現代語訳】

左弁官が阿波国司へ下す。早く麁妙(あらたえ)の御衣を織り、進上させるべき事について。右の件、大納言藤原朝臣師信が天皇の命令(勅)を奉じて宣る。大嘗会の主基所(すきしょ)の神事にあたり、国に仰せつける先例により、常の氏人(うじひと)(※忌部氏の間違いか)に織り備えさせ、神祇官の使いに付属して早く進上させよ。国はこれを承知し、命令の通りに実行せよ。(神事の)期日には限りがあるので、遅滞してはならない。文保2年(1318年)9月26日。左大史小槻宿禰。右少弁藤原朝臣(高?)判。

【解説】

これにより文保2年(1318年)の時点では大嘗会の主基所(すきしょ)の神事が行われ荒妙の献上が行われていたことが解る。その後細川氏が阿波の国司に任命された頃から荒妙の献上などが忘れられていって大正期まで長く中止された。


なお、本状の写し(画像右から4〜5行目)を仔細に観察すると、「忌部氏人」となるべき箇所が明確に「常氏人」と書かれている。この記述について、原本からの誤転記である場合と、原本通り「常」が正しい場合の両面から以下の通り考察できる。

1. 「常」が誤転記(「忌部」の読み違い)である場合

この写しが、仮に中世に作成されたものだとしても、あるいは寛政期の特権喪失という危機的状況下で未亡人や娘が家の由緒を証明するために必死に筆写した痕跡だとしても、そこから導き出される事実は揺るがない。由緒に関わる重大な氏族名に対し、原本のくずし字を読み違えてそのまま「常」と誤記している事実は、いつの時代であれ、筆写した人物にとって「忌部」という名が実感を伴わないものであったことの何よりの証左である。自らのアイデンティティに関わる名を当事者が間違えることはあり得ず、一族内でその意識がすでに風化していた、もしくはそもそも忌部氏または其の関係者ではなかったという当時の実態を静かに物語る史料上の特徴である。

2. 「常」が誤転記ではなく、原本通り(意図的な記述)である場合

朝廷が意図して「常氏人」と記したとすれば、麁妙調進が特定の神聖な由緒を持つ「忌部氏」に依存する呪術的・祭祀的な行為から、「先例に従って、常氏人(通常の人々、あるいは一般の集団)に織らせて準備せよ」という極めて実務的・行政的な物資調達の命令へと変質していたことを意味する。これは朝廷から見て、阿波国において公的に「忌部氏人」として名指しで命令を下すべき対象が存在しなくなっていたことを示唆する。中世以降の実務は名主職として公事を請け負う在地領主(三木氏など)が担っており、朝廷側も古代の氏族名ではなく、在地の実務請負人たちを「常氏人」として直接的に表現した可能性がある。

結論

文保二年の時点で、阿波忌部氏の血統を引く一族や関係者が歴史上から完全に消滅していたのかどうかという事実については、この太政官符の記述のみから断定することはできず、厳密には「不明」である。しかし、誤転記であったとすれば筆写した在地側において「忌部」という名に対する当事者意識が喪失しており、原本通りの記述であったとすれば中央の朝廷側において「忌部氏」という公式な名宛人が消失していたことになる。どちらの解釈をとったとしても、古代的な意味での「忌部氏」の実態が、この文書が機能していた時代背景の中ですでに変質していたことを静かに物語っている。

三木家文書が語る「忌部氏人」の実像と文書継承の意義

中世以降、麁妙調進の実務を担った木屋平の三木氏(御殿人)は、下知状などの史料によれば名主職として公事を請け負い、在家の管理を行う優れた実務能力を持った在地領主であった。史料上に三木氏自身が「古代忌部氏の直系である」と明記されているわけではないが、朝廷から阿波国司を経て発給された太政官符を、名主である三木氏が所持し受け継いできた事実は極めて重要である。三木氏はその卓越した地域統括力をもって、山岳資源の調達から織造に至る複雑な工程を管理し、国家からの命令である「忌部氏人」の職務を実質的に完遂する立場にあった。


鎌倉時代後期まで機能していた調進の公的システムは、建武の新政以降、細川氏など武家政権への移行に伴い途絶えていった。さらに戦国時代には朝廷の困窮により大嘗祭自体が約二百年以上にわたり中絶し、麁妙調進も完全に実態を失った。しかし、三木氏の真の凄みは、公的システムが完全に消滅した後の数百年もの間、かつて朝廷から下された鎌倉期の太政官符を家の誇りとして大切に守り抜いたことにある。決して文書と記憶を手放さず、長く暗い時代を生き抜いたその執念と誇りこそが、三木家の真の偉大さを物語っている。

地形的制約と歴史的動態から推測される三木氏の変遷(仮説)

なお、明確な一次史料に基づく史実としてではなく、地形的な制約や中世の歴史的動態を考慮した論理的な推測として、以下の変遷シナリオが考えられる。

1. 物理的制約と「山奥での機織り伝承」の矛盾

麁妙となる白く美しい麻布を精練するためには、大量の清冽な水を用いた水晒し工程が不可欠である。しかし、穴吹川上流に位置する木屋平の三木家屋敷周辺は急峻な渓谷であり、これらの作業を大規模に行うための地形的条件を満たしていない。大正・昭和期の大嘗祭において、実際の製造現場である「麁服織殿」が木屋平ではなく山崎の天日鷲神社境内に設けられた事実が示す通り、三木氏が自ら山奥で大麻を育て機を織ったとする伝承は、物理的に成り立たない。江戸後期に三木家が楮紙の取引等で繁盛した事実が、後世において「山奥で荒妙を製造した」という誤ったイメージを生んだ可能性が高い。

2. 平野部からの退避と文書の継承

また、中世の交通事情において、険しい山道を隔てた木屋平から吉野川下流域の製造現場を日常的に管理・統括することも不可能に近い。したがって、本来は大麻の栽培や水晒しに適した水利・農地に恵まれた平野部(山崎や川田周辺)を拠点としていた実務集団の先祖が、中世の権力交代(小笠原氏や細川氏ら新興武家政権の台頭)によって所領を追われ、防御に優れ軍勢が侵入しにくい木屋平の山間部へと退避・土着したと考えるのが極めて自然である。その際、かつて朝廷から公事を請け負った正当性と誇りの証として、太政官符を携えて保管し続けたと考えられる。

3. 職能集団名としての「忌部氏人」

三木家の名が江戸期の蜂須賀体制下で与えられたものであるとすれば、中世における彼らの公的な呼称は何であったのか。古代から中世において「忌部」とは血縁に基づく特定の名字ではなく、神事や祭祀具作製を担う「職能集団」に対する公的な役割名であった。太政官符に記された「忌部氏人」という宛名も、実務を担う名主層の集団に対して国家が用いた公的な職能名であったと解釈できる。この前提に立てば、文保二年の太政官符の写しにおいて筆写者が由緒ある「忌部」を「常」と書き間違えた事実も論理的に説明がつく。彼らにとって「忌部」は血肉化した固有のルーツではなく、あくまで過去に割り当てられた「役職名」に過ぎなかったため、一族内においてその名に対する強い実感が伴っていなかったと考えられるのである。

忌部神社を巡る「忌部公事」と血塗られた権力闘争

忌部神社は『延喜式神名帳』に載る麻植郡の名神大社であるが、中世の戦乱や長宗我部氏による兵禍などによって社殿が焼失し、本来の社地(正蹟)が不明となってしまった。


江戸時代に入ると、阿波忌部氏の祭祀権と正蹟をめぐり、川田(種穂神社)の神職である早雲家と、山崎(忌部神社)の神職である村雲家との間で激しい権力闘争が勃発した。特に1735年頃から1801年まで続いたこの紛争は「忌部公事」と呼ばれる。この争いに対し、藩が早期に裁定を下さず黙殺を続けた背景には、山崎村を正式な忌部神社として認定すれば広大な社地を返還せざるを得なくなり、年貢収入が激減してしまうという藩側の財政的な思惑があった。


事態は泥沼化し、元文5年(1740年)に京都へ上って正当性を訴えようとした村雲勝太夫は、早雲側の密告によって藩から神職を剥奪され海部へ追放された。寛延2年(1749年)、密かに帰村し拝殿で参拝していた勝太夫は、早雲民部・早雲式部父子から暴行を受け死亡するに至る。さらに早雲氏は山崎の神鏡を奪い、あろうことか山崎忌部神社に火を放って焼き払うという暴挙に出た。こうした早雲氏の度重なる不法行為や専横が長年放置された背景には、藩の家老との癒着だけでなく、同族であり当時の藩主・蜂須賀治昭に重用された「早雲古宝(伯耆)」の強い影響力があったとみられる。


また宝暦年間には、貞光の忌部神社(御所神社)の神職が証拠の神宝を掲げて多数の参拝者を集めたが、藩はこれに対しても神職父子を投獄・追放し、神宝を没収して空海筆とされる額面を打ち砕き焼き捨てるという徹底的な弾圧を行っている。


山崎村民は、早雲側による神事の強行やそれに伴う異常事態に耐えかね、寛政7年(1795年)に箱訴(直訴)に踏み切ったが、惣代6名が投獄され獄中死者を出す惨事となった。最終的に寛政13年(1801年)に早雲氏(中川氏)が罷免されたことで、約60年にわたる争論は一応の終息を見た。しかし、この血塗られた抗争と焼き討ちによって、山崎村の旧社地からは由緒を示す社殿などの物理的証拠が完全に失われてしまったのである。

幻の候補地・宮之嶋八幡宮と善入寺島の悲劇

この忌部公事が争われていた江戸時代、史料上にはもう一つの正蹟候補地が記録されている。江戸時代後期の『阿波国22社巡拝記』に記された麻植郡宮ノ嶋村の「宮之嶋八幡宮(浮島八幡宮)」である。同社は一説によれば白鳳2年(674年)創建とされ、名神大社の忌部神社であると伝えられていた。


同書には、古老の伝承として「中世に川嶋の城主である林氏が村に来て、鎮座していた八幡宮を忌部の社内に遷座して合殿とした。領主が特に八幡宮を信仰したため、忌部の神号はいつの間にか廃れてしまった」と記録されている。また、社地については「昔から葬墓がなく、水難のない浮嶋である」と具体的な地勢が記されていた。


しかし、この候補地に対する地形や遺構からの実証的な検証は現在では不可能となっている。大正時代の吉野川改修工事に伴い、同社が鎮座していた善入寺島の住民約3000人が立ち退きを余儀なくされたためである。1915年(大正4年)に浮島八幡宮を中心とする43社が移転・合祀され、翌1916年(大正5年)に現在の川島神社として新たに創建された。


旧社地は改修工事(爆破等)によって完全に失われ、過去の地形や信仰の動線を示す物理的な証拠は消滅した。したがって、宮之嶋八幡宮が忌部神社の正蹟であったかという真実は、確かな物的証拠を欠く以上「不明」のままとせざるを得ない。

明治初年の所在地論争と古文書の偽造疑惑

1871年(明治4年)、忌部神社は「所在地不明」のまま国幣中社に列格された。官社として国家から経費が支給されるため、どこが「正蹟」であるかの特定が急務となった。1874年(明治7年)、小杉榲邨は木屋平村の「三木家文書(正慶元年)」などを根拠に、麻植郡山崎村(現・吉野川市山川町)の天日鷲神社を正蹟と断定する建言書を政府に提出した。同社は、阿波忌部氏の祖神であり製麻・製織の神として知られる天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀る古社である。これにより、一度は山崎村が正蹟と認定された。


しかし、小杉が山崎村説の根拠とした三木家文書(正慶元年)について、後に三木貞太郎が「明治6年に小杉から依頼(廃社になると脅されて強要)されて偽造した」と自首する書簡の写しが残されている。この記述は、「西野氏広瀬文庫(西野市広瀬文庫)」に所蔵されている論争資料の中のメモが根拠となっており、メモには「折目栄宛、三木貞太郎書簡の写し」が存在すると記されている。


2008年7月に発行された『阿波学会紀要 第54号』に掲載された報告「美馬市旧木屋平村における文書調査」では、徳島県立文書館などの合同チームが三木家に伝来する寛政期の古文書を分析した結果、17世紀終わりの土地取引不正事件による特権喪失や、当主と嫡男の相次ぐ他界による苦境などが判明したと報告している。


小杉自身は、この忌部神社の論争において教部省の役人に自説を説き伏せたことで知遇を得て、明治7年に教部省へ出仕するなど、中央への栄達を果たした。

四至立石の発見と地勢に基づく正蹟の検証

小杉榲邨が山崎村を正蹟と断定した背景には、疑義の残る古文書だけでなく、実は現地における強力な「物理的遺構」の発見があった。嘉永3年(1850年)、阿波国風土記編輯御用掛であった野口年長が山崎村の黒岩と呼ばれる旧社地を調査した際、四方に一丈(約3メートル)余りもある巨大な「四至立石(しいしたていし)」を発見したのである。これを測量した結果、東西十一町、南北二十七町となり、古代の大社の基準である「四至九町の制」と見事に合致することが判明した。


江戸期の早雲氏による社殿の焼き討ちによって建造物は失われていたが、この四至立石の存在こそが、山崎村がかつて延喜式に載る名神大社としての広大な社地を有していたことを裏付ける決定的な物証となった。


一方で、美馬郡貞光(御所神社)には、忌部氏の祖神である天日鷲命が友内山から降臨したとする具体的な伝承が語り継がれ、近世には集散地として栄えた経済的・文化的な繁栄の歴史がある。宝暦年間の藩による厳しい弾圧にもかかわらず、貞光が依然として有力な正蹟候補として支持され続けたのは、こうした地域に根ざした信仰の動線が息づいていたためである。


細矢庸雄が山崎村説に真っ向から反対した背景には、作られた由緒や一部の遺構にとらわれず、現地の地形や信仰の実態を自らの足で比較検証したことが影響しているとみられる。偽造を疑われる史料、焼け残った境界石、そして土地に刻まれた伝承の対立が、所在地論争をかつてないほど複雑化させていったのである。

妥協策による決着と「不明」なままの真実

1875年(明治8年)、讃岐国田村神社の細矢庸雄らが、美馬郡西端山(現・つるぎ町貞光)の御所神社を忌部神社とする説を主張し、小杉の山崎村説と激しく対立した。この御所神社も天日鷲命を主祭神とし、かつて忌部氏の後裔とされる三木氏が奉斎したと伝わる創建不詳の由緒ある神社である。1881年(明治14年)、政府は小杉の考証を却下し、方針を転換して御所神社を忌部神社に変更した。しかし、これに対して今度は山崎村側が猛反発した。


1885年(明治18年)、政府はこの果てしない論争に終止符を打つため、名東郡富田浦町(現在の徳島市、眉山中腹)に新社地を定めるという妥協策を通達した。1892年(明治25年)、現在の忌部神社が正式に遷座し、御所神社はその境外摂社とされた。政治的決断によって「新規な歴史」が創られる結果となった。


中世の戦乱、江戸期の利権闘争による暗殺や焼き討ち、近代の治水工事などによって幾多の物理的証拠が失われてしまった以上、厳密な意味での古代忌部神社の鎮座地が山崎村であったのか、貞光村であったのか、あるいは全く別の場所であったのかという真実は、今後新たな一次史料が発見されない限り「不明」のままとせざるを得ない。

歴史の皮肉と大正期における真の復活(後記)

忌部神社の所在地論争に絡む古文書偽造事件の背景には、江戸時代後期から明治にかけての冷酷な権力構造と身分格差が存在していた。嘉永3年(1850年)の「組頭庄屋等名簿」が示す通り、貞光側の折目氏や川田側の住友氏らが多額の献金によって「小高取」などの特権的地位を確固たるものにしていたのに対し、三木家はすでに公的な特権を喪失し、有力者名簿の圏外へと没落していた。この圧倒的な力関係の落差を鑑みれば、無力な状態にあった三木貞太郎が、中央の権威(小杉榲邨)からの廃社の脅しに屈して文書偽造に手を染め、その後、対立する強大な地域権力(貞光側の折目氏)の猛追及に耐えきれずに自首・告白へと追い込まれたのは、歴史の必然であったと言える。


政府の妥協案により新社地が徳島市に定められた結果、山崎側も貞光側も名神大社の正蹟としての公認は得られなかった。しかし、大正時代に入り大嘗祭における麁妙調進が国家事業として復活したことで、事態は劇的な逆転を迎える。一度は偽造の汚点を残した三木家であったが、彼らの手元には偽造ではない本物の一次史料「太政官符」が守り抜かれていたことで、調進の統括責任者としての正統性を証明した。


同時に、実際の麁妙製造にあたっては、地形的に不可能な木屋平に代わり、吉野川下流域の豊富な水利と技術を持つ山崎側(天日鷲神社)の境内へ「麁服織殿」が特設され、そこでの水晒しや機織り工程が不可欠となった。作られた由緒や政治的な駆け引きの勝敗ではなく、代々死守してきた「本物の史料(三木家)」と、土地に刻まれた「確かな技術と地形的条件(山崎側)」。この二つの実体が結びつくことによってのみ、古代の儀式は遂行可能となったのである。


「木屋平の山奥で荒妙を製造した」という伝説や、名目上の神社論争を超え、三木家と山崎側が「由緒ある名義人」と「不可欠な技術実行者」という両輪のパートナーとして歴史の表舞台に見事な復活を遂げた事実は、地形という嘘をつかない証拠に基づく実証的歴史のダイナミズムを現代に静かに物語っている。

用語・人名解説

太政官符(だいじょうかんぷ)
日本の律令制において、最高行政機関である太政官から管轄下の官庁や地方の国衙(こくが)へ発令された正式な公文書である。詔勅の伝達や行政命令などに用いられ、太政官の印である外印(げいん)が捺印される最も権威ある文書の一つであった。詳細は以下の通りである。
・役割:天皇の命令(詔勅)を各機関へ伝える際や、一般的な行政命令、国司などの地方官が任命された際の証明(任符)として発給された。
・書式の特徴:文書作成の責任者である史(し)と弁官(べんかん)の署名が日付の後に記され、諸国へ下す場合は内印(ないいん)、在京の官司へ下す場合は外印が押された。
・歴史的背景:平安時代以降は形式化することもあったが、公的な効力を持つ重要な命令書として機能し続けた。
麁妙(あらたえ)
天皇即位後の重要な祭祀である大嘗祭(だいじょうさい)において供えられる麻の織物である。
忌部氏人(いんべのうじひと)
古代より朝廷の祭祀や祭祀具の作製を司った忌部氏の構成員(氏人)のことである。本史料において、単なる「忌部氏」という抽象的な氏族名ではなく、実際に阿波国に居住し織物の実務を担う特定の「氏人(うじひと)」に対して麁妙の調進が直接命じられている点が非常に重要である。なお、三木家には忌部氏の末裔であるという系譜伝承があり、この太政官符が同家に伝来していることは重要な事実であるが、本史料の文面そのものに、両者を結びつける直接的な記述が含まれているわけではない。
小杉榲邨(こすぎ すぎむら)
幕末から明治時代にかけての国学者。明治初年の忌部神社の所在地論争において、木屋平村の三木家文書や野口年長が発見した「四至立石」などを根拠に山崎村の天日鷲神社を忌部神社の正蹟と断定する建言書を政府に提出した。この論争を通じて教部省の役人に知遇を得て、明治7年に同省へ出仕するなど中央への栄達を果たした。
折目栄(おりめ さかえ)
忌部神社の所在地論争に際し、三木貞太郎から古文書偽造の経緯を自首・告白する書簡(写し)を送られた宛先の人物である。「西野氏広瀬文庫」に所蔵されている論争資料のメモにその名が記録されている。史料上に具体的な肩書きや出自を示す記述がなく、詳細な系譜関係については不明である。しかし、嘉永3年(1850年)の史料には貞光村の小高取として折目氏(伊勢蔵、和太蔵ら)の名が複数記録されていることから、同村の有力な庄屋層であった折目氏の一族に連なる人物であると推測される。この推測に基づけば、折目は所在地論争において御所神社(貞光村)を支持する貞光側の立場にあった人物であり、だからこそ対立する山崎村説の根拠とされた「三木家文書」の偽造の事実が、彼宛に告白されたのだと論理的に整合する。
細矢庸雄(ほそや つねお)
讃岐国一宮である田村神社に属していた神職である。1875年(明治8年)、国幣中社に列格された忌部神社の宮司として政府より任命され阿波へ赴任した。しかし、小杉榲邨の考証によって正蹟とされた山崎村の天日鷲神社の地勢や規模に疑念を抱き、実地検分の結果、美馬郡西端山(現・つるぎ町貞光)の御所神社こそが真の忌部神社であると主張した。神職としての矜持から、作られた由緒(山崎村説)に真っ向から反対する建言を政府に行い、所在地論争の当事者となった。
藤原朝臣泰通(ふじわらのあそん やすみち)
永仁6年(1298年)当時の権大納言。太政官符において、天皇の命令(勅)を奉じて宣じる役割を担っている。
藤原朝臣師信(ふじわらのあそん もろのぶ)
文保2年(1318年)当時の大納言。同じく太政官符において天皇の命令を奉じて宣じる役割を担っている。
中原朝臣師熈(なかはらのあそん もろひろ) / 小槻宿禰(おづきのすくね)
太政官で公文書の作成や実務を取り仕切る「大史(だいし)」という役職に就いていた官人である。中原氏や小槻氏は代々この実務官僚の役職を世襲した家柄として知られる。
右少弁(うしょうべん)
太政官の右弁官局に属する官職である。太政官符の末尾で「在判」や「判」として署名を行い、文書の作成と発行の責任を負っていた。