麻植郡三ツ木村伊左衛門後家先祖家筋成行書附
(寛政9年11月)

【背景・解説】

寛政期(18世紀末)の文書群)には、三木家の由緒を紹介したものが残されています。
これらの文書は、極めて苦しい状況にあった三木家を立て直すため、郡代などの諸役人に再興への助力を願い出る「重要な歴史的根拠(説明資料)」として作成されました。当時の背景には以下の経緯があります。

  • 栄華からの転落: かつて「阿波忌部」の末裔、「阿波山岳武士」として麻植郡の山間で威風を誇っていたが、17世紀末に村内の土地取引に絡む不正事件が発生。監督責任を問われた三木家は、庄屋役とともに身分的諸権利(小家とも夫役免除、藩主御目見等)を失うこととなった。
  • 存続の危機: 特権喪失による経済的打撃に加え、当主の他界や嫡男の早世が重なり、深刻な苦境に追い込まれた。
  • 再興への動き: 三木家の女性たちと、親戚で庄屋役を引き継いだ天田家の当主・天田武之丞(後見人)が中心となり、天田家から恒太を跡取り養子として迎えた。
【翻刻】

麻植郡三ツ木村伊左衛門後家先祖家筋成行書附
一、伊左衛門元祖家筋之儀、忌部佐兵衛尉重村と申、元弘・建武之兵乱之節より宮方エ与力仕、軍忠有之、地領種野山之内三ツ木村近郷領知仕、正平年中之頃より在名ヲ名乗、三木佐兵衛尉重村と申由、元祖より弐代目三木太郎左衛門尉より官途仕、太郎左衛門倅帯刀、又左京之進、兵衛尉迄は、先祖之領知相続仕、代々忠切有之候ニ付、綸旨・宣旨被為下置候、其後御国御先祖蓬庵様御入国被為遊候以来、御順国為御代黒部兵蔵様・久代市兵衛様上山迄御越被成候所、仁宇・大粟之百姓共御両人様エ御随不申、非議之働有之趣ニ付、曾祖父三木兵衛尉倅長左衛門義、小家之者共、又は三ツ木・柏原之百姓共召連、上山村エ走向、非議之族共相鎮、御両人様之御供申、兵衛之宅エ御越被成、夫より川田村迄御見送り申上、西川田村住友五郎右衛門先祖之儀も家筋之者ニ御座候ニ付、彼方ニ而御一宿被成、翌日舟ニ而御城下迄御見廻り申上候処、段々骨折之段、御耳ニ相達可申旨被仰聞、在宿仕候処、御先代様より右様之御書翰被為仰附候、其節兵衛尉倅長左衛門被為召出、蓬庵様エ御目見被為仰附、御意被仰出候は、先祖より子細有之家筋ニ候得は、自然御陣等之節は、御用可被召出候、依之先祖身居苗字・大小御赦免被為下置、猶又小家拾八人無役ニ被仰附、并庄屋役義も相勤可申様被為仰出候

【現代語訳】

一、伊左衛門の元祖の家筋について申し上げます。忌部佐兵衛尉重村という者が、元弘・建武の兵乱の節より宮方(天皇方)に与力し、軍忠がありました。種野山のうち三ツ木村近郷を領知し、正平年中(1346〜1370年頃)より在名を名乗り、三木佐兵衛尉重村と称したとのことです。元祖より二代目の三木太郎左衛門尉より官途(官職)に就き、太郎左衛門の息子である帯刀、また左京之進、兵衛尉までは、先祖の領知を相続し、代々忠勤がありましたので、綸旨・宣旨を下されました。

その後、御国(阿波)の御先祖である蓬庵様(蜂須賀家政)が御入国されて以来、順国(領内視察)のため、御代官の黒部兵蔵様・久代市兵衛様が上山まで越えられたところ、仁宇・大粟の百姓たちが御両人様に従わず、非議(不穏)な動きがあるとのことで、曾祖父の三木兵衛尉の息子である長左衛門が、小家(家臣・手勢)の者たち、または三ツ木・柏原の百姓たちを連れて上山村へ向かい、非議の者たちを鎮め、御両人様の供をして兵衛(自身の宅)へお通しし、そこから川田村までお見送り申し上げました。西川田村の住友五郎右衛門の先祖もまた家筋の者(由緒ある家柄)でしたので、その地で一宿なさいました。

翌日、舟にて御城下まで見回り申し上げたところ、「度々の骨折(尽力)の旨、御耳(藩主の耳)に達するよう取り計らう」と仰せ聞かされ、在宿(村に帰っていた)していたところ、御先代様(蜂須賀家政)よりそのような御書簡を仰せ付けられました。その時、兵衛尉の息子である長左衛門が召し出され、蓬庵様(蜂須賀家政)へ御目見えを仰せ付けられ、御意として「先祖より子細(由緒)ある家筋であるから、自然(いざという時・軍陣など)の節は、御用として召し出すであろう」と仰せ出されました。これによって、先祖の身居(身分)・苗字・大小(帯刀)の御赦免を下され、なおかつ小家十八人を無役(諸役免除)と仰せ付けられ、併せて庄屋役も相勤めるよう仰せ出されました。