阿波国麻植郡における関東御領成立と在地支配の変容
―麻植保と貞光地域の比較から見た中世阿波の地域構造―
里山倶楽部四国 徳島学博士 Tsuyosi Tsubouchi
【序論】
阿波国麻植郡は古代以来、忌部氏との関係が深い地域として知られている。一方で鎌倉時代になると、麻植郡には関東御領麻殖保が成立し、幕府による新たな支配体制が導入された。
従来の研究は、忌部氏の系譜や神社伝承、あるいは中世武士団の動向を個別に論じるものが多かった。しかし、古代の祭祀勢力が中世社会の成立によってどのような影響を受けたのかについては、必ずしも十分な検討がなされていない。
本稿では、歴史地理学的な視座および地域社会構造の比較を通じて、麻植郡平野部に成立した関東御領麻殖保と、穴吹川・貞光川流域を中心とする山間部地域との比較を行い、中世阿波における支配構造の変化を考察する。そして、その過程で古代以来の忌部伝承がどのように継承・再解釈されたのかについて、今後の研究課題を提示したい。
【第一章 関東御領麻殖保の成立】
文治二年(一一八六)、源頼朝は平家没官領となった麻殖保の保司に平康頼を任じた。これは麻殖保が幕府の直接的な支配対象となったことを示している。
さらに文治四年には地頭野三成綱と保司平康頼との対立が『吾妻鏡』に記録されている。ここでは朝廷の内蔵寮領としての権益と幕府の軍事的支配が衝突しており、麻殖保が単なる地方荘園ではなく、中央権力同士の利害が交錯する地域であったことがうかがえる。
承久の乱以後は小笠原氏が地頭として進出し、さらに飯尾氏など幕府と深く結びつく武士層が在地支配を担うようになった。この変化は単なる支配者の交代ではなく、古代以来の地域秩序そのものの再編成であったと考えられる。
【第二章 麻植郡と貞光地域の地理的条件】
麻植郡平野部と貞光地域との間には、高越山系をはじめとする山岳地帯が横たわっている。吉野川流域の平野部は農業生産と年貢徴収に適した地域であり、幕府が関東御領を設置する上でも管理しやすい土地であった。
これに対し、貞光川流域や穴吹川上流域は急峻な山岳地形に囲まれている。ここでは広大な耕地よりも山林資源の利用や交通路の掌握が重要であり、在地武士による自立的な支配が成立しやすい環境にあった。
もっとも、これらの山々は単なる障壁ではなかった。高越山、剣山、見ノ越などを経由する山岳交通路は古くから利用されており、平野部と山間部は完全に断絶していたわけではない。したがって、中世における地域構造は「隔絶」と「交流」の双方の視点から理解する必要がある。
【第三章 中世武士団の形成と地域社会】
鎌倉時代以降、麻植保では幕府権力を背景とする地頭支配が強化された。これに対して山間部では、それぞれの谷筋を基盤とした在地勢力が成長したと考えられる。第二章で述べた地理的な分断こそが、戦国期の政治変動において、それぞれの地域が異なる対応を迫られる要因となった。
貞光地域は讃岐・伊予・土佐を結ぶ交通の結節点でもあり、単なる山村ではなかった。山林資源の集積や流通の管理、さらには軍事的拠点としての性格を有していた可能性がある。戦国期になると長宗我部氏の侵攻、小笠原成助の死、神領地域をめぐる争乱などにより従来の秩序は大きく変化した。このような政治的変動の中で、各地域の有力者は自らの支配を正当化する歴史や由緒を求めるようになったと考えられる。
【第四章 古代伝承の継承と地域社会】
古代の阿波国において、忌部氏は祭祀や産業に深く関わる氏族として知られている。しかし、鎌倉時代以降の社会において、その組織や活動がどのような形で継承されたのかについては、なお十分に解明されているとは言い難い。
麻植保の成立以後、麻植郡平野部では幕府の支配機構が浸透し、地頭や御家人による新たな地域秩序が形成された。一方で、山間部では地理的条件を背景として在地勢力が独自の発展を遂げたと考えられる。
こうした政治的・社会的変化の中にあっても、古代以来の伝承や信仰が直ちに消滅したわけではなかった。地域社会には神社の由緒、家伝、口碑など様々な形で古い伝承が受け継がれ、それぞれの時代に応じて再解釈されながら継承されてきたものと考えられる。
阿波各地に残る忌部関係の伝承や文書類も、そのような地域社会の歴史的記憶の一端を示すものであり、中世から近世への移行を考える上で貴重な資料である。これらの伝承がいかなる歴史的背景のもとで形成され、またどのような過程を経て今日まで伝えられてきたのかについては、今後さらに史料の蓄積と検討を重ねる必要がある。
【第五章 今後の研究課題】
麻植保研究は単に鎌倉幕府の地方支配を明らかにするだけではない。それは古代忌部の世界と中世武士社会との接点を考える重要な手掛かりとなる。特に次の諸問題は今後の研究課題として重要である。
- 第一に、麻植郡平野部と貞光地域との間に存在した政治的・経済的関係の実態である。
- 第二に、山間部に残る忌部伝承がいつ、どのような背景のもとで形成されたのかという問題である。
- 第三に、三木家文書をはじめとする忌部関係史料の成立過程と伝来経路である。
- 第四に、古代の祭祀拠点と中世以降の地域支配との関係である。
これらを総合的に検討することによって、阿波における古代から中世への移行過程がより立体的に理解できるものと思われる。
【結論】
麻殖保の成立は、阿波国麻植郡における支配構造の大きな転換点であった。吉野川流域の平野部では幕府による制度的支配が進展し、地頭を中心とする新たな地域秩序が形成された。一方、貞光川・穴吹川流域をはじめとする山間部では、地理的条件を背景として異なる発展過程をたどった可能性がある。
こうした地域構造の差異は、中世阿波の政治的・社会的展開を理解する上で重要な視点を提供するものである。また、古代以来の伝承や信仰も、このような地域社会の変化の中で様々な形をとりながら継承されていったものと考えられる。麻植保と貞光地域との比較研究は、鎌倉時代以降の在地支配の実態のみならず、古代から中世への移行過程を考える上でも重要な課題であり、今後さらなる検討が期待される。