乱世を生き抜いた武家の真価は、いかに戦に勝ち続けたかではなく、いかに大局を見極め、郷土に平和と繁栄をもたらしたかで測られる。阿波国川田村(現・徳島県吉野川市山川町)に根を張った住友氏の歩みは、まさにその好例といえる。武門の誇りを胸に秘めながらも、時に武力によらぬ道を選び、次代へ確かな礎を残した一族の軌跡である。
本稿では、『川田町史』や『住友家記録』などの一級史料をもとに、武士としての格式を保ちながら郷土の宗教・経済の庇護者として活躍した住友氏の実像を辿る。
後世に編纂された系図によれば、住友家の祖は新羅源氏の流れを汲む土井(土肥)紀伊守で、細川氏の命により川田村に城を構え、三百五十貫を領する在地領主であった。しかし戦国の世、長宗我部軍の侵攻を受けて居城は陥落し、一族は木屋平の三木氏のもとに身を寄せるという苦難を経験する。
それでも一族は武士としての矜持を失わなかった。天正11年(1583年)に家督を継いだ若き藤十郎・三十郎兄弟は、三条小鍛冶宗近、治部藤四郎、高木貞宗といった名工の刀を大切に伝えており、これらの名刀こそ、住友家が格式高い武家であったことを物語る何よりの証であった。
阿波国は室町期には細川氏の勢力下にあったが、天正年間には土佐の長宗我部元親が四国統一を目指して急速に勢力を伸ばし、阿波の在地領主の多くがその侵攻に翻弄されている。住友家もその渦中で居城を失うという苦難を味わったが、動乱の最中にあっても一族の由緒と家格を示す名刀を手放さなかったところに、武家としての矜持の強さがうかがえる。
天正13年(1585年)、蜂須賀家政の阿波入国によって時代は新たな局面を迎える。この転換期、大粟山や木屋平山の在地勢力は新体制に反発し、一揆という不穏な動きを見せた。
この国難に際し、住友五郎右ヱ門らは、無用な戦乱によって郷土が荒れ果てることを良しとしなかった。旧勢力に与することなく、ただちに木屋平へ急行し、一揆の鎮圧と地域の平定に大きく貢献したのである。
この大局を見据えた働きに対し、新領主・蜂須賀家政(小六)自身から高く評価する感状が贈られている。その決定的な証拠として、以下の書状が残されている。
この書状が示す通り、新領主自らが「一段満足」と直接の賛辞を贈ったのである。一族は藩主への謁見を許される「御目見(おめみえ)」の待遇を受け、旧来の所領を安堵された上で正式に庄屋役に任じられた。武力によらず、郷土を戦火から救うという道を選んだことこそが、住友家が川田の統治者としての地位を新体制下でも確固たるものにする礎となった。なお、住友家はこれ以前から「住友」を名乗り、名刀を所持していたことが記録に残っており、拝謁の権利も特定の一代で終わることなく、江戸中期に至るまで代々保ち続けられていくことになる。
天正13年(1585年)の蜂須賀家政の入国は、豊臣秀吉による四国征伐の結果、長宗我部元親の支配が終わりを告げたことに伴うものであった。新領主の入国に際しては、祖谷山をはじめ阿波各地の山間部で旧来の土豪層が近世化政策に反発し、一揆を起こす事例が相次いでおり、大粟山・木屋平山の動乱もこうした抵抗の一環であったと考えられる。そのただ中で戦乱を避ける道を選んだ住友家の判断は、決して小さくない政治的英断であった。
住友家は、農村の実務を担う庄屋でありながら、特権的な地位に位置づけられていた。一般に農村における庄屋の特権は一代限りとされることもあったが、住友家の場合、一族にわたって「苗字帯刀」や藩主への「御目見(拝謁)」が代々許されるという、際立って高い家格を保持していた。
『住友家記録』には、「いつから特権身分に任命されたか」というような明確な辞令や、金銭を支払って身分を得たという記載は存在しない。記録から読み取れるのは、天正期の蜂須賀氏入国当初からすでに藩主に拝謁し、重臣の宿所を提供し、名刀を帯びるなど、特権と実力を有していたという事実である。つまり、彼らは後から身分を獲得したのではなく、入国当初から有していた在地実力者としての既得権益が、江戸時代の制度整備に伴ってそのまま特権的な家格として追認されたと解釈するのが自然である。
『川田町史』には、かつて川田村から木屋平村に至る十ヶ村の年貢米の取り立てを住友家の先祖が任され、その屋敷内に三ヶ所の御蔵(郷蔵)が建てられていたという記録が残る。後の藩の知行地再編に伴い蔵の多くは他の給人へ引き継がれたが、一つは住友家がそのまま拝領し続けた。また西川田・東川田の両村では、一族の中からそれぞれ庄屋が立てられるという分担統治の体制がとられており、住友家が単一の村にとどまらない広域の徴税・行政ネットワークを掌握していたことがうかがえる。
その活動は村の内にとどまらず、徳島城下における藩の公式行事にも及んだ。
住友家を語るうえで欠かせないのが、阿波の霊峰・高越山とその別当寺・高越寺への並々ならぬ貢献である。彼らは単なる村役人ではなく、高越山の修験道を経済的に支える「大旦那(最大のパトロン)」でもあった。
高越山頂に建つ高越寺は、伝承では役小角の開創とされ、大和国吉野の金峰山(大峰山)に対して自らを「西上山」と称するなど、阿波国における修験道の発祥地として古くから知られていた。同時に麓の忌部神社の別当としての性格も併せ持ち、独自の「忌部修験道」とも呼ばれる信仰形態を育んでいた地でもある。このように地域の宗教的中枢であった高越山を経済的に支え続けたことは、住友家が単なる地方の豪農ではなく、阿波の精神文化そのものを支える存在であったことを物語っている。
林業や和紙生産といった阿波山間部の実体経済を担いながら、同時に修験ネットワークの保護者として地域の信仰とインフラを支え続けた――それが住友家の姿であった。
『川田町史』によれば、蜂須賀家政が阿波入国後に推し進めた殖産政策の中で最も重視されたのは「阿波藍」であったが、これに次いで手厚い保護奨励を受けたのが川田の紙(和紙)と高越の豆腐であったという。この地域随一の産業である製紙業を担う生産者たちを束ね、その物流と経済を実質的に差配する立場にあったことこそ、住友家を郷土経済の庇護者たらしめていた所以であろう。
なお高越寺は、次章で述べる忌部神社とも深い関わりを持つ寺であった。地域の信仰の中心であった高越山と、正統性を争われた忌部神社――住友家はその双方に大旦那として関わり、阿波山間部の信仰そのものを支える屋台骨であったといえよう。
元文から寛保期にかけて、古代の名神大社・忌部神社の正統性を巡り、山崎村と川田村の間で「忌部公事」と呼ばれる激しい神社論争が起こった。地域の信仰と尊厳を左右するこの局面でも、住友家は川田の種穂忌部神社(神主・早雲民部)を支える大旦那として重要な役割を果たしている。
古代の名神大社・忌部神社は、中世の兵乱により所在が不明となって以降、阿波国内の複数の神社がその後継たる正統性を主張する事態が長く続いた。川田の種穂忌部神社もその主張者の一つであり、隣接する山崎村の神社との間で繰り広げられた「忌部公事」は、単なる村同士の争いではなく、地域の由緒と信仰の中心をどこに置くかを巡る、藩をも巻き込んだ重大な係争であった。この係争において住友家が種穂忌部神社側を全面的に支えたことは、彼らが地域の精神的正統性の確立そのものに関与したことを意味している。
寛保元年(1741年)から翌年にかけて、早雲民部が藩の後ろ盾を得て京都の神祇伯・白川家へ出頭し、正式に勝訴を勝ち取った際には、住友家が郡奉行や京都留守居役との連絡文書を預かり、その手続きを支えた。勝訴確定直後の寛保2年5月、第5代当主・住友治五右ヱ門正輔は自ら役所へ願い出て、自邸の松を伐り出し、種穂忌部社の一ノ鳥居と杉の額板を新調して寄進・建立する。正当な手続きによる勝利を祝い、地域の精神的支柱であった神社の再建を私財で成し遂げたのであった。
住友家の人々は、武士としての教養と武芸の鍛錬も怠らなかった。宝暦期、嘉七郎は伊勢参宮の帰路に剣豪の地・柳生へ立ち寄って兵法稽古に励み、江戸の門弟との試合でも見事な手柄を立てている。また武徳流兵法者の門下に連なり、困窮する師匠には衣服を送るなど、武芸者への手厚い庇護も忘れなかった。第5代・治五右ヱ門正輔にいたっては、「一本」の四股名を持つほどの力士としても知られていた。
『住友家記録』には、家中の力士・常四郎が各地の相撲興行で活躍し「力は万人に勝り、六十余州の相撲取りが肝を潰した」と評されたという記述や、忌部宮・八幡宮の祭礼で相撲興行がたびたび催されたという記録が残る。第5代・治五右ヱ門正輔自身も「一本」の四股名を帯びた力士であったことを踏まえれば、住友家は一人の郷士が余技で土俵に上がっていたのではなく、家として全国的な相撲興行のネットワークと深く結びつき、これを庇護する側にも回っていたことがうかがえる。
柳生の地は、徳川将軍家の兵法指南役を務めた柳生新陰流の発祥地として知られ、江戸時代を通じて多くの武芸者が修行に訪れる聖地であった。嘉七郎がこの地に足を運び、さらに江戸の門弟と試合を行ったという事実は、住友家が地方の郷士にとどまらず、全国的な武芸のネットワークとも接点を持つ、開かれた家風を有していたことを示している。
阿波川田の住友氏は、激動の時代にあっても武門の誇りを失わず、郷土の平和と発展に身を捧げた名家であった。特権的な格式と名刀を帯びながら徳島城下の公的な場に立ち、高越山修験の最大の庇護者として、また地域社会の調停者として多面的な役割を果たしている。その足跡は、今なお遺された史料の中に確かな輝きを残している。