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『棚保大権現社頭為造営勧進帳』が語る
種穂神社の歴史

〜 天和二年の勧進帳から読み解く忌部公事前夜 〜

はじめに:「棚保」から現在の「種穂」へ

本稿で紹介する『棚保大権現社頭為造営勧進帳』は、阿波国麻植郡の「棚保大権現」における社頭造営の経緯を記した天和2年(1682年)の貴重な勧進帳です。文書内に記された「多那保(棚保)」という名称は、現在の徳島県吉野川市山川町(旧麻植郡)に鎮座する「種穂(たなほ)神社」を指しています。

※史料補足:寛保3年(1743年)の『神社帳』等の記録により、当社の名称が古くは「多那穂大権現」と称され、後に「多那穂忌部神社」、そして現在の「種穂忌部神社(種穂神社)」へと変遷したことが確認されています。

この勧進帳には、神霊の起源(熊野大権現との同体異名)から、中世の激しい戦乱による社殿の焼失、さらには寛文12年(1672年)の大旱魃の際に降らした恵みの雨といった数々の霊験がドラマチックに綴られています。幾万人の人々の合力によって宝殿が再建された歴史のうねりを、ぜひ現代語訳から読み解いてみてください。

現代語訳

【神の起源と大同の神勅】

阿波国麻植郡の棚保大権現の社頭造営のための勧進帳のこと。
一つ、多那保(棚保)大権現は、天照太神の御父母である伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冊(いざなみ)の二柱の命の応化(化身)であり、紀伊国の熊野大権現と同体異名の霊神である。
人王第五十一代平城天皇の御代、聖徳勝延にして天暦の明王である。この天皇が天下を治めるにあたり、日夜ただ四海を治め天下の民を撫育し徳を敷くことのほかに他意はなかった。ここにおいて人の意を祈るため、常に弘く諸神を敬い奉り崇敬することは他時に異なり、大同年間中に幸いにも熊野山に詣でて心願を祈り、通夜して籠ること一宿、夜半に至り夢のごとく神が現容して勅宣された。
「帝の願うところと我が思うところは符節を合わせるがごとくである。故に我は眷属等を従え、諸国を飛巡して国家人民を治めるのである。我はすなわち阿波国に飛越え、阿波麻植郡の棚保山の霊地を仮の所とし、名を多那保大権現と改めて国内の衆万民を治めるであろう」。
帝は思いを致し、忠臣に憑(たの)み奉って麻(阿波)を巡らせたところ、すなわち彼の山において白頭の蠢(鳥)となし、鄙(ひな)の所に告げ知らせるべきであると。帝は恐れ謹んで忠臣に行なわせ、宣った。「我が去る夜の夢の神勅はこのようである。汝は速やかに国に依り住み、神の告げの通り社頭に建立し造営を成し、汝は社務となって神道を弘めるべきである」との勅宣である。

【霊鳥の飛来と社殿の創設】

臣は畏まり承って時日を移さずこの国に渡り、棚保山を尋ね査(しら)べたところ、神の告げの通り、虚空より白項の霊鳥が飛び降りた。今の跡処である。勅使は即ち此処に本社・拝殿・神楽殿・四方の大門を創設し、社務殿・鐘・金銀鐔付の青銅を居(す)え、その奇体を立てた。
近比(ちかごろ)本社の役なくしては両脇に大神宮・愛宕友二三十の寄神を勧請して小社を造り、日夕に仏を奉じ、毎月神楽を以て神事を尽くし、尊崇奉仕を敷き、歳(年月)を経た後、神勅により石造の神像を造り奉遷して籠中に安置した。

【中世の戦乱による荒廃と再興】

その後いくばくもなくして国を行き去り、それ以来身代(代々)四国の領主、この国の押領の主や守護は、皆これに敬意を致し奉らぬ者はなかった。その中間、天下は大乱し、一日も未だ安らかならざる余り、この国は左右に乱れ蜂の如く蠢動し、万民は手足を措くところなく春秋の間を経た。神事は日々に衰え、但(ただ)世の盗者はしばしば盗み拝見し、野武士や盗賊、はては住み着く者まで、神前仏閣に及んで防穢の式を破壊せしめ、神霊は憤怒して災いを発し、殿内より火丸が燃え起き、殿棟の霊鳥も忽ちに炎上し、ただ石像のみが残った。
日月登り年久しくして後、細川氏某が心願の時節あり、この神の由緒を明らかにし、清浄にしてこの山に詣でてこれを見た。神体はあれど社頭がない間、ことごとく神慮に任せて小社を造り、かの石像を奉遷して所思を祈ったところ、三五日を出ずしてその願いは成就した。その後、達隆尊公が御入国されて以来、代々の太守公が申敬し崇敬を加えた。

【寛文の大旱魃における霊験と宝殿建立】

神の政に国は泰安を蒙り、貴賤といえども神霊の徳光を崇め敬い奉るといえども、未だ時を鑑みず。退いて当寛文十二年(1672年)、諸国は大旱魃となり地は枯れ、当村の民は甚だ撥発(はっぱつ)すべからず、ここにおいて諸氏は哀愁を起こし、此処に詣でて雲雨を祈った。神は応じ、時を応じて哉(かな)、雲は能く立ちにわかに三日に及ばずして和雨が大いに降り、枯草は青く長じ、五穀は登籠した。
これより村中及び近里の諸民はことごとく恐れ入り、念を索(もと)めて醵(きょく)し仮殿を造立し、神の処を遷宮して崇敬した。以前に治効の義を我ら祈祷し、茲に我ら是の年祈り、時雨を祈り、安産を祈り、応験(霊験)在らざるはない。茲を以てその神徳は国中及び近国に鳴り伝わり、貴賤となく運歩して直ちに神に詣でざる者なく、依って人数は益々盛んである。
今茲に神徳は盛昌の時である。我らこの時に於いて旦那は離風し北鄙に掠奪せられ、一人の力の及ぶところではない。これにより、我ら幾万人の合力により宝殿を建立する。それ霊神の由緒による者は、神崇により貌(かたち)を見ずといえども、万人のために勧進し、参詣を奉り、祝い奉り、批(これ)を信心を以てす。風奇として宝殿を建立し已に成就す。神恩は広く固く、御奉敬に擁護の力を加え、人民は堅固にして安楽、国家は太平にして春秋長く盛んならん。よって勧進状はくだんの如し。

天和二年(1682年)亥変(※壬戌)三月吉日
多那保権現 社務 早雲兵部尉敬春 これ(之)

【歴史考察】なぜ「忌部」の名が見えないのか? ~忌部公事の前夜~

本勧進帳の非常に興味深い点は、後に阿波国最大の神社論争となる「忌部公事」の当事者(種穂神社)でありながら、この天和2年(1682年)の時点では「忌部」や「天日鷲命」の影が全く見えず、早雲宮司が祭神を完全に「熊野大権現の化身」として位置づけている点です。

※ここからは当時の歴史的動向に基づく推測となりますが、中世から近世初期にかけては、社殿再建の資金集め(勧進)において、現世利益や修験道と結びついた「熊野信仰」を前面に出すことが、広く一般の民衆に訴求するための最適解だったと考えられます。

しかし、その後江戸中期に入ると全国的に国学や式内社(延喜式に記された古社)を探求する動きが活発化します。前述の通り、約60年後の寛保3年(1743年)の『神社帳』の段階では、すでに当社の名称は「多那穂忌部神社」へと変化しています。すなわちこの半世紀の間に、民衆から広く寄付を集めるための「熊野信仰」から、麻植郡という鎮座地の歴史的優位性に着目し、格式高い「阿波国最高位の忌部神社」としての正統性を強く主張する形へ、由緒の戦略的な再構築が行われたと推測されます。

やがてこの主張は、他の論社との激しい「忌部公事」へと繋がっていくことになります。阿波の歴史探訪において、本史料は泥沼の忌部公事へと突入していく直前の、「中世的な権現信仰の最終形態」を真空パックで現代に伝える、極めて貴重な歴史的証言と言えるでしょう。


【史料原文】

阿州麻植郡棚保大權現社頭爲造營勸進帳之事
一 多那保大權現者奉天照太神之御父母伊弉諾伊弉冊二命之應化而與紀伊國熊野大權現同体異名之靈神也
人王五十一代平城天皇 御宇聖徳勝延尊天暦之明王也 此皇治天之面日夜惟治四海撫育天下民敷徳之外無他 是以爲祈人意弘常敬奉崇敬諸神異他時 當大同年中幸詣熊野山祈心願仍通夜籠中一宿至夜半如夢現神現容勅宣 帝所願與我所思如合符節 故我垣替眷属等而飛巡于諸國治國家人民也 朕仍飛越於阿國於阿波麻植郡棚保山靈地假所名改多那保大權現可治國内衆萬民 帝思奉憑忠臣令巡祖麻候則於彼山作白頭蠢可告知鄙所 帝恐謹行忠臣宣我去夜夢神勅如此汝速依國住神告可建立於社頭造營已成汝爲社務可弘神道勅宣也
臣畏承不移時日渡此國尋査棚保山侯神之告之提自虚空白項靈鳥飛降今之跡處 勅使即於此處本社拝殿神樂殿四方之大門創部居社務殿鐘金銀鐔付青銅立其奇體 近比無本社之役則兩脇勸請大神宮愛宕友二三十寄神而造小社以日夕奉佛毎月神樂以盡神事而尊崇奉仕敷歳之後 由神勅以石造神像奉遷籠中而後無何國行去 自爾已來身代四國之領主此國押領之主護皆以無不奉致敬之處 中間天下大亂一日未安之餘此國左右亂蜂家蠢動万民無措手足經春秋之間神事日々衰 但世盜者驟盜拝見之野武士盗賊已而住宿者不及神前佛閣式令防穢式令破壞之 而神靈憤怒災見發自殿内火丸燃起殿棟靈鳥忽炎上唯石像耳残登日月年久然處 細川氏某在心願時節明此神之由緒清浄詣此山見之在神躰無社頭之間悉神慮造小社奉遷彼石像祈所思不遇三五日其願成就 其後自達隆尊公御入國已來代々太守公申敬加崇敬
神政國蒙得泰安貴賤雖奉敬崇神靈徳光未鑑時退當寛文拾二年諸國大旱枯地當村民甚不可撥發 爾諸氏哀愁起詣此處祈雲雨神應應時哉雲能立見不遇二三日和雨大降枯草青長五穀登籠 自爾村中及近里諸民悉恐而念索所醵造立仮殿神處遷宮崇敬 以前治効義我祈禱茲我祈是年祈時雨祈安産無不在應驗 茲以其神徳鳴傳國中及近國貴賤無不運歩直詣神者依人數益盛今茲神徳盛昌時也我於此時旦那離風掠奪北鄙所不及一人力也 依之依我幾萬人合力建立寶殿夫依靈神由緒者依神崇雖不貌見爲萬人勸進奉參詣祝奉批以信心 風奇建寶殿已成就神恩廣錮御奉敬加擁護之力人民堅固安樂國家大平春秋長盛仍勸進状如件
天和二年亥變三月吉日 多那保權現 社務 早雲兵部尉敬春之

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