阿波国麻植郡・美馬郡の山間部は、険しい地形と独自の共同体意識に守られ、中世から近世にかけて特異な歴史的ダイナミズムを生み出してきた地域である。近代以降の地域史研究においては、木屋平の三木家に伝わる『三木家文書』などが示す「あるべき歴史」をそのまま史実として受け止め、古代忌部氏から連綿と続く神聖な血脈としてのみ捉える傾向が強かった。
しかし、現代の歴史学が古文書に鋭いメスを入れたとき、そこには全く別の生々しい景色が浮かび上がってくる。本論は、天正期の在地勢力の実態と近世後期の阿波和紙産業の展開、そして近代の歴史学者たちによる精緻な「史料批判」の成果を踏まえ、在地領主がいかにして自らの「由緒」を創出したのかを紐解く。さらに、支配者である徳島藩(蜂須賀氏)が同時代の「忌部公事」と絡めながらその虚構をいかに極めて合理的に利用し、近代の国家神道において前代未聞の裁判沙汰を引き起こすに至ったのかまでを射程に入れ、歴史のうねりを立体的に考察する。
時計の針を、蜂須賀氏が阿波に入部した天正期に戻そう。この激動の時代、在地領主たちは生き残りを懸けて重大な選択を迫られていた。
天正13年(1585年)、蜂須賀入部に抗する仁宇・大粟山の一揆が勃発する。このとき、川田村の住友(土肥)氏は一揆勢を武力で追払うことに成功し、その軍功により代々の「御目見」と「郷高取」という確固たる武家待遇を藩から勝ち取った。
一方、一揆勢から同心を求められた木屋平の在地指導者「天田兵衛丞(三ツ木村兵衛之丞)」は、飛脚による情報提供に留まった。実は『三木家文書』の中には、この天正13年の功績を賞したとされる「欠年九月二日蜂須賀小六感状」が残されている。しかしここで決定的なのは、その感状の宛名が天田個人の武将名ではなく「みつき(三ツ木村)・柏原 名主百姓中」という村落共同体(惣村)宛てとなっていた点である。つまり、天田氏の功績は武士としての個人的勲功ではなく、あくまで村の百姓・名主層としての惣村的功労に留め置かれたのであった。
武力鎮圧による武士としての確固たる恩賞を得られなかった天田氏は、江戸時代に入ると無姓へと転落する。この事実を如実に物語るのが、天和元年(1681年)の文書(B35「乍恐申上御訴訟之事」)である。これは三ツ木村庄屋であった長右衛門(長左衛門)が、前述の感状を前提としつつ、藩に対して「苗字・刀番赦免」を求めて起こした訴訟の記録であり、文書内には「近年無姓になり…名字之義も御赦免被為成被為下候ハ」と悲痛な懇願が綴られている。彼らが当初切実に願ったのは、古代忌部の名門の血脈などではなく、失われた本来の名字である「天田」姓の復活に過ぎなかったのである。
徳島藩は一国一城令や兵農分離を徹底し、中世以来の在地勢力を「武士」と「百姓(庄屋層)」に厳しく分断した。過去の武勲や高貴な血筋を主張しようとも、藩はそれを理由に武士身分へ引き上げることは決してなかった。しかし、『住友家記録』には、天正の長宗我部侵攻時に幼少の住友正家を「三ッ木村三木何某」が預かり養育したという記録が残されている。のちに創出される「古代忌部の名門」という完成された姿ではないにせよ、地名に基づいて周辺から「三木某」と呼ばれる有力な実力者が、確かにこの阿波山間部に実在していたことは疑いようのない事実である。
無姓の身となり、「天田」姓の復活をただ願っていた彼らに、歴史の決定的な転換点が訪れるのは延享4年(1747年)のことである。不祥事により本家の庄屋長左衛門が罷免され、代わって分家の元助が庄屋職を引き継いだ。
ここから、元助・惣助・武之丞と続く分家三代の快進撃が始まる。彼らは単なる村の行政官に留まらず、阿波の重要産業であった和紙(尺長紙)の生産を完全に掌握した。しかし、この巨大な和紙ビジネスは天田氏単独で完結するものではなかった。山奥の三ツ木村で天田氏が和紙の「製造」を牛耳る一方で、その楮紙(こうぞがみ)の「流通・販売」を担い、下流で莫大な利益を上げていたのは、川田村の庄屋であり商人でもあった住友氏である。製造の天田、流通の住友という強固なサプライチェーンがこの地域に形成されていたのだ。
寛政2年(1790年)の記録によれば、天田家は資金貸付から紙の集荷までを牛耳り、山間部における生産の頂点に君臨していた。莫大な富と権力を手にした分家の武之丞が次に求めたのは、単なる「天田」姓の復活ではなく、自らの地域支配を絶対的なものにするための壮大な「精神的権威」であった。寛政10年(1798年)、武之丞は実子の恒太を没落した本家の養子として送り込み、ここで初めて「麻殖郡三ツ木村百姓恒太家筋由緒書」を藩に提出する。
【「嘘」と「事実」のハイブリッド構造】
ここで注目すべきは、約100年前の天和元年(1681年)に本家の長左衛門が提出した訴状との「微妙かつ決定的な差異」である。
しかし、この「三木姓」へのすり替えは、寛政期になって突然思いついた完全な架空の産物ではない。ここに由緒形成の恐るべき巧妙さがある。第一章で見たように、『住友家記録』という外部史料には、天正期に彼らが周辺から「三ツ木村三木何某」と呼ばれていた事実が刻まれている。公式な名字が「天田」であったにせよ、地域社会における通称や地名としての「三木」というアイデンティティは、戦国期から彼らの中に確実に根付いていた古い記憶であった。
分家・天田氏の真のしたたかさは、無から有を生み出したことではない。古くから地域に定着していた「三木」という【本物の記憶(事実)】を核として、そこに「古代忌部氏の血脈」や「南北朝期の天皇綸旨」という【巨大な虚構】を接ぎ木(ハイブリッド)したのである。完全な嘘だけで構成された由緒書は、地域社会や藩の厳しい審査を通過できない。一部の確かな事実で巨大な虚構を包み込んだからこそ、この由緒書は圧倒的な説得力を持ち、近代国家をも巻き込むほど強力な影響力を放つに至ったのである。
この『三木家文書』が伝える壮大な古代からの血脈に対し、現代の歴史学者たち(福尾猛市郎氏、脇田晴子氏、福家清司氏、丸山幸彦氏ら)は鋭いメスを入れた。検証の結果浮かび上がったのは、近世の和紙産業を背景とした極めて巧妙な「偽作」のトリックであった。
第一のトリックは「宛名の不自然さ」である。脇田氏が指摘するように、天皇の命令書である「綸旨」が地侍クラスに直接下される場合、相手の身分を慮ってあえて具体的な名前(充所)を書かないのが中世の公式ルールであった。しかし、『三木家文書』の南朝綸旨には「三木太郎左衛門尉」と不自然に明記されており、これは後世の人間が「自分たちの家への直接の命令書である」と強弁するために偽作した決定的な痕跡と断定された。
第二のトリックは「時代背景のズレ(仮託)」である。13人の「御衣御殿人」が連署したとされる南北朝期の契約状には、毎年山崎で市が開かれる際に寄合を行うと記されている。しかし、山崎村西久保が交通の要衝となったのは、近世末期に麻植郡の紙を検査する「紙役所」が置かれたためである。つまり、この文書は古代忌部神信仰の集会記録などではなく、近世の和紙生産者たちが結成していた「講集団」の結束と特権を、そのまま南北朝期に遡らせて正当化したものであった。
では、この精巧な「偽書」を含む壮大な由緒書を受け取った徳島藩は、易々と騙されていたのだろうか。結論から言えば、藩の態度は極めて実利主義的で冷徹なものであった。
その証左として、同時代の「忌部公事(公式な祭祀)」を巡る藩の対応が挙げられる。藩は公式な「忌部神社」の正統な神職としては、あくまで川田村・種穂神社の早雲氏を認定し続けていた。藩は神事・祭祀の実務を担う公的な権威と、新興の在地勢力(天田氏)が主張する「古代忌部の血脈」という名誉を明確に切り離して扱っていたのである。
なぜ藩は川田村の早雲氏を祭祀の中心に据え続けたのか。その背後には、川田村を拠点とする住友氏の強大な地盤と経済力が透けて見える。天正の一揆鎮圧で武功を立てた住友氏は、特権(御目見・郷高取)を得ていただけでなく、前述の通り天田氏が製造する楮紙の「流通・販売」を握る大商人(庄屋)でもあった。藩の財源である和紙の専売制を安定運用するためには、地域の生産を束ねる天田氏の統率力も不可欠だが、その経済の動脈(流通)は結びつきの強い住友氏に握らせておくのが最も安全である。
藩の思惑は明確だ。和紙の「製造」現場である山間部は天田氏に束ねさせつつも、経済の生命線である「流通」と、公的・宗教的な「忌部公事」は、信頼の厚い川田村の住友氏・早雲氏のラインに握らせておく。この「製造と流通」「実利的な名誉と公的な祭祀」の巧みな分離と勢力均衡(バランス)こそが徳島藩のリアリズムである。
そして、天皇即位の大嘗祭における「麁服(あらたえ)」調進は、南北朝時代(1338年)を最後に完全に途絶えていた。すでに途絶えた過去の伝統であるからこそ、藩はこれを「現在の体制を決して脅かさない無害な権威」として三木家にあてがうことができたのである。藩の統治を脅かすような実務的権限は与えず、神聖な名誉のみを付与する。三木家にとっては生産者としての覇権を彩る最高のブランドとなり、徳島藩にとっては彼らの労働力を間接統治に利用するための極めて安上がりな政治的カードとなった。
江戸時代、徳島藩と三木家の間で成立していた「実利を伴わない無害な権威」は、明治維新と国家神道の成立によって、突突として巨大な火薬庫へと変貌する。
明治政府が全国の神社を近代社格制度に組み込む中、古代『延喜式』に記された名神大社「忌部神社」を国幣中社に列することが決定した。しかし中世の戦乱を経て本来の社地は不明となっており、阿波国内で「真の忌部神社はどこか」という熾烈な比定論争が勃発する。麻植郡山崎村と美馬郡西端山の両陣営が、村の威信を懸けて激しく衝突したのである。
この論争において、決定的な「証拠」として中央政府に影響を与えたのが、江戸時代後期に三木家が創出した『三木家文書』であった。明治7年(1874年)、政府の考証において、山崎村周辺を忌部郷の中心地とする根拠としてこの文書群が採用される。かつて単なる「天田姓の復活」を願っていた一族が創り上げたローカルな「村落支配の虚構」が、近代国家の正史を決定づける「一級史料」へと鮮やかに、そして劇的に反転した瞬間である。
しかし、西端山側も猛反発し、論争は泥沼化する。この地域間対立の最中、歴史を揺るがす驚くべき事件が起こる。当時の裁判記録や郷土史研究によれば、なんと文書の所有者である三木家の当主自身が「山崎側の証拠とされた文書(山崎の契約書など)は、考証家の小杉榲邨が偽造したものである」と当局に自白し、裁判沙汰へと発展したのである。
司法の場での検証の結果、小杉による偽造こそ否定されたものの、文書そのものが幕末より前から存在する「江戸時代に創出された偽書」であることが法廷の場においても確定するという前代未聞の事態となった。自らの手で由緒の虚構性を暴露する自白と、裁判における偽書の確定。この決定的なスキャンダルによって、山崎村側の根拠は音を立てて崩壊し、地域間の対立は完全に収拾不能へと陥ったのである。
その結果、明治政府は最終的に両陣営の主張をすべて棄却するというウルトラCの決断を下す。明治18年(1885年)、どちらの由緒地でもない徳島市二軒屋町(眉山山麓)の中立地に全く新しい「忌部神社」を創祀し、強制的に決着を図ったのである。
『三木家文書』を、現代の史料批判の眼で「偽作」と見破ることは今や容易である。しかし、歴史学者たちもまた、これを単なる偽物として切り捨てるのではなく、18世紀の村落社会のダイナミズムを示す一級の資料として再評価している。
天正の動乱を生き抜いた在地勢力は、近世の和紙産業という新たな経済基盤を手にして自らの存在を「神聖な権威」へと上書きし、徳島藩はそれを冷徹な実利主義のもとで間接統治のツールとして飼い慣らした。しかし、藩政の枠内でコントロール可能だったはずのその「虚構」は、近代という新しい国家の枠組みの中で作成者の手を離れ、ついには当主の自白と裁判劇という形で暴走し、国家をも巻き込む巨大なエネルギーとなって独り歩きを始めたのである。
古文書とは、単なる過去の事実を記した静的な記録ではない。厳しい山間部の環境でしたたかに生き抜こうとした在地領主たちの野望と、権力者たちの思惑が激しく火花を散らした、生きた政治的闘争の痕跡なのである。