PC漂流記
私とパソコンとのつきあいも、いつの間にか20年以上となる。
今やいとおしささえ感じるが、ショップで部品を買ってきて、トラブルさえなければ
2時間ほどで組み立てが出来てしまう。この味気なさは、阿讃山脈を車で登る感
覚に似ているかもしれない。
徒然に今までのパソコンとのお付き合いを綴ってみたい。

*年代、スペックは記憶をたどっていますので、定かではありません。

スペック
黎明期1

東京
1971〜  私が新人で配属された開発室では丁度国産コンピュータの第二世代の開発が進んでいた。
 IBM360に何とか追いつこうと必死だった。予算も国から潤沢にでた。
 それまでトランジスタロジックだったのが、ICそして一部にLSIが使われ始めていた。
 メモリーはコアメモリーから一部にICメモリーが使われだしていた。
 研究室ではワイヤーメモリーとか、バブルメモリーとか研究していた。
I Cメモリーは将来主流にはならないと思われていた。
 漢字の研究しているやつもいた。
 私の仕事は、新しいLSIが出来るまでトランジスタで回路を組み、評価すること。
参考資料は全部英語だった。一枚の基盤を4〜50枚のトランジスタボードで組み上げ診断プログラムを作り、評価をし基盤の設計グループに提供すること。プログラムはカードに打ち込んでいた。そのうちタイプライターから紙テープにアスキーで打ち込むようになった。
 デバックは2000ステップ(80桁カード一箱分)くらいで、4時間ぐらいかかった。
 マシンルームの完徹は日課となった。
 そのうちファームウェアの概念が出来てきて、回路はまずソフトで組めるようになった。
これは非常に便利で、新しい資料が来るより早く、自分でLSIのイメージがわいてきて、予測で仕事をするようになった。
 そのうちファームウエアローダーはカセットテープになった。
 他社はフロッピーディスクなるものを使っている。
 そのころFDよりもCMTが信頼性が高い?と社内では思われていた。
 FDをテストしろと言われ、ユニットを輸入。コントローラーを組み上げて試験すると、CMTの数十倍信頼性が高いことが判明。報告すると「そんなはずはない、テストプログラムが間違っている」と担当を変えられた。
 暇なので、ドクターというあだ名のパイプ叔父がやっていたECC(エラーコレクティングコード)の開発を手伝った。256ビットのエラーを検出し、11ビットのエラーを修正する能力を持つコードだった。彼が考えたコードをマシン語でプログラムに落とし実証する。理論は良く解らなかったけれど(群論とか言うらしい)、気持ちの良いほど成果が上がった。
 それを彼がハードに設計し直し、私がテストプログラムを作り援助した。テストプログラムを作っていると回路図が頭の中に浮かんできて、彼の設計のミスがテストする前に感じられた。良いコンビで楽しい3ヶ月だった。
 他の同僚にも頼まれて色んな診断プログラムを作った。
自分の仕事は退屈で単調だった。
 週末は毎週三浦海岸に行きヨットに没頭していた。
 ある時上司から、君だけ残業していないのはけしからん。他の人は200時間/月している。 仕事が無くても残業しろと言われ頭に来て喧嘩。
 2ヶ月もしないうちに営業に出される。
 12月29日の引っ越しは、心細かった。
小型

紙テープ入出力
磁気ドラム
512KB

中型

コアメモリー
128kb
カード入力
磁気テープ
DISK 13MB/台
コアメモリーは1ドロア8KB。32KBで1ユニット(1立法Mくらいあった)

大型

ICメモリー512KB
集合DISK50MB×8〜
その後100MBも出た。

IBM370シリーズが出た

富士通のF230シリーズが好評だった。

インテルが4ビットマイコンを発表(1971)
IBM370に8シリーズ発表
仮想メモリー採用
富士通230に8シリーズ発表
同じく仮想メモリー採用

インテル8080開発
(1974)
黎明期2

神戸
1976〜  営業も慣れてきた頃、アマチュア無線仲間が、TK−80なるものを仕入れてきてなんかやっている。なんと市販のカセットテープにプログラムを入れて動かしている。
 ディスプレーは数字のみで、なんのこっちゃらピーピーガーガーやっている。
 そのうち先輩がPC−8001なるものが出来て、見本で1台もらえるがお前いるか?
 ただなら貰おうと言うことで貰った。専用ディスプレーなど無い。テレビにつないでカセットからプログラムをロードしてインベーダーのゲームをしていた。
業務用コンピュータにCRTが登場。それまではコンソールにシリンダー形や、ゴルフボール形の印字ヘッドが付いていて、ガチャガチャとうるさかった。
しかし最初はコンソール用で入力はエディターライン1行で、表示はアウトプット専用だった。小型機のブート装置も紙テープからCMTそしてFDに変わっていった。
記憶装置は磁気ドラムから磁気ディスクになった。2.45MB*2で一枚はカートリッジになっているのが主流だった。
TK−80
CPU 8080

PC−8001 168,000円(1979年)
CPU Z−80 4MHz
マイクロソフトN−BASIC
メモリー16KB
入出力 カセット
CRT 640*400

インテル8086開発
(1978)
創世記1

高松
1980〜  アマチュア無線のログ帳をPCでやるソフトなるものが発売され、巷で使われだした。
シャープのMZ−80Bが大人気だった。
香川の観音寺にダイエレクトロニクスという会社があって、無線用の素晴らしいソフトを出していた。
 カセットを使って自分でベーシックで組んでみたが、使い物にならない。
 そのうちフロッピーディスクがPCの世界にもでてきた。
 FDは容量が160KBになっていたが大して変わっていなかった。
これなら簡単にログ帳でも作れる。
 でも実際にはパックマンばっかりやっていた。
FDD 160KB*2

ソフトバンク創設
創世記2 1982〜  この頃、アマチュア無線のメンバーがどんどんPCを買いだした。PC8801が大人気だった。私も購入。CWの自動解析ソフトには驚いた。画面にどんどん相手の打った文字が出てくる。これなら私にも、簡単だ。
 でも漢字はおまけみたいで使い物にならない。業務用のコンピュータの漢字がやっと単文字変換出来た頃だから、仕方ないかな。
 業務用に三菱のマルチ16、NEC N5200、F 9450登場 16ビット機 
 スーパーカルク日本版のマルチプラン相当が付いていた。
高くて、重かった。

IBM産業スパイ事件 H社、M社がFBIのおとり捜査にひっかかる。
PC−8801
228,000円
CPU Z−80A
漢字ROMボード

マルチ16、N5200、
F9450
CPU 8086
ゲームではシャープの
X−1が一番だった。

インテル80286開発
縄文時代

松山
1983〜  無線の世界に突如、無線FAXなるものが出てきた。最初は業務用FAXを改造して無線機につないでいたが(煙が出て大変だった。)、そのうち無線PC−FAXになった。もちろんインターフェースカードは自作。
 これは楽しかった。国内はもとより海外から沢山の画像を送ってもらった。
ただ同期をとるのが難しくて、オシロスコープや発振機、カウンター等を作った。
 PCは16ビットの時代に入ってしばらく経っていた。
 FDDも最初は640KBが付いていた。
 PC9801VM2を購入
 PC−100が発売された。
 ワープロ内蔵で、アイコンメニュー。マウスが付いていた。
 今思うと画期的だったが売れなかった。時代が早すぎた。
 PC−100に内蔵されていたワープロソフトの改良型の一太郎が、値段で松、桐を凌駕し始めた。一太郎はコピーされやすく、闇のマニュアルが売られていた。
マッキントッシュが発売された。

F社、H社がIBMのOS著作権問題で和解
PC−9801VM2
CPU V−30
メモリー 640KB
FDD 1MB*2
マルチスキャンTVモニター

1985年は石鎚山の標高と同じと言うことで盛り上がった。家族で登った。試し鎖から飛び降りて膝を痛めた。野球が出来なくなり、峠の下りでは今でも痛い。

任天堂のファミコンが大人気だった。
インテル80386発表
弥生式時代 1986〜  また突然、アマチュア無線界に、デジィピータなるものが出現した。
 無線機にモデム経由でPCを接続し掲示板やチャットを楽しめる。
 そしてその無線局が中継器となって、次々と中継出来るシステムだ。
 モデムを制作すべく個人輸入で機材を調達し、仲間達に講習会を開いた。
 まず自宅を中継局にして二台の無線機とPCを設置し大きなアンテナも上げた。
 高縄山に中継局を作る計画をした。JARLに認めて貰うべく嘆願書も出した。
 車のダッシュボードに、発売されたばかりのPC98LT(NECの失敗機)を埋め込んで、いろんな山の頂上から電波を出した。ソフトは某電力会社のSEに作ってもらった。
 出張先からでも、自宅のPCの掲示板に連絡を送り込んでやれば、メンバーに連絡が付くというのは本当に便利だった。そのころ日本でも無線モデムが発売され、急に広まりつつあった。
98LTはN−BASICと似ているが少し違う。
この違いが売れなかった原因だと思っている。
12Vで動くパソコンはその後も出ていないと思う。
古墳時代 1987〜  NTTの知り合いから、四国でパソコン通信ネットワークを始めるので、参加しないかと言われ、モデムをお借りした。300ボーだった。無線モデムが2400ボーだったのでずいぶん遅いと思った。
 会員は大学の先生とかが多かったが、全く活用されなかった。
 その頃、PC−VANがオープンした。
 試験運用で無料だった。
 会合でその話をすると、NHKが取材に来た。
 それまでの商用データベースが普及していないので、パソコン通信の未来は明るくはないのでは?とか会員はどれくらいの予想か聞かれた。
 1万人も加入すればよいのでは?と言われたので、一年間で10万人は加入するでしょう。何年か後にはPC−VAN以外にも以外にも沢山商用ネットが出来て、100万人は軽く参加するようになるでしょうと言ったら、びっくりたまげたので、パソコン通信と、日径などのデータベースとの違いを説明した。
 要するに「コミュニケーションツールで、アマチュア無線の進化したようなものだ。よって アマチュア無線人口より遙かに増える。」その後全国版で何回も放送された。時計を貰って今でも使っている。
 その後無線局は落雷で、ぶっこわれてしまった。
富士通のFM−77、FM−116βが隠れた人気を持っていた。CP/Mが動いて、マルチプログラミングが出来るのでパソ通のホストマシンに最適だった。

HDD 10MB 購入
13万ほどした。

X−68000が出た。グラフィックが強くて驚いた。
ここで、もう一息がんばっていれは゛シャープは後のマルチメディア時代にトップになっていたと思う。
奈良時代

高松
1989〜  pc−vanでパソ通をしている内に、あるボードに参加するようになった。
そのボードはいくつもに分かれていて、いろんな人が参加していた。
 そこの俳句のボードに参加し、連句形式で次から次と連句を巻いていく楽しみに没頭した。
 オフラインと言うことで新宿(サラマンダー)での飲み会にもよく参加した。
 山椒魚戦争という本があって、ボードのテーマとなった(同じ遺伝子が繰り返されて、無意味に長いけど進化しない彼らの哀愁がテーマ)。続いてウサギ戦争というのもあったかな?
 モデムは1200ボーから2400ボーに移りつつあった。
画像を送るためにQLD?というファイルを使いバイナリーモードで圧縮して送った。
 いろいろな圧縮方法が考えられていた。
 最初のボードオペが忙しくなり、臨時に私がボードオペになった。
 そこでパソ通の新しい取り組みとして、オンライン出版をしようと言うことになった。
 それぞれがテーマの原稿を作り、出版社にメールしとりまとめて出版する。
 今では当たり前のことを初めてやった。
 責任者は京都のウナギ屋の若旦那がやった。
 どんな風に編集されているか誰も知らない。
 結果立派なパソコン通信入門ができあがり発売した。原稿料で4万ほど貰った。
 中古でPC−9801VX21を購入
 ボードのログを保管するためHDD購入 アップルの展示会でSCSIなるものを初めて知った。
インテル80486発表

ゲームボーイもそのうち出てきた。
パソコンではRPGがはやっていた。

PC−9801VX21
CPU V−30&80286
クロック8/10MB
メモリー 640kb+2mb
+HDD40MB 6.8万円

MIFES+ATOK
続く
おまりに間違いが多いので修正しました。