杉の小山の記

(天石門別八倉比賣大神御本記解説本)

令和8年度歴史講座 八倉比売神社信仰と卑弥呼伝承 古文書を読み解く 4月27日 原稿

阿波歴史資料集

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杉の小山の記 画像集

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粟の落穂
粟の抜穂

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『八倉比売神社御本記』にみる「移動する神」の構造

里山倶楽部四国 阿波歴史探訪

『天石門別八倉比売神社御本記』における鎮座伝承の再検討と杉の小山の記

用字「唬(えらき)」の分析と史料的性格の特定について

本稿は、『天石門別八倉比売神社御本記』の解説文「杉の小山の記」を精読することにより、近世期に成立した『天石門別八倉比売神社御本記』の叙述構造を精査し、その史料的性格を改めて定義することを目的とする。

本論では、これら諸条件の検証を通じ、本記に内包された本来の信仰の実態について考察を深めたい。

これは、徳島県立図書館デジタルアーカイブ所収の『杉の小山の記』をできるだけ忠実に現代語訳したものである。
しかしながら、解読困難な箇所もあり、すべてが正確とは言い難いことに留意いただきたい。

徳島県立図書館デジタルアーカイブ所収の『杉の小山の記』 序

阿波国矢野の人、柿乃園(かきのそのという号)の森眞秀が本書を携えて来訪し、自身には推敲の力が十分でないため、加筆修正を求められた。そこでこれを閲覧したところ、本書は名西郡矢野村に鎮座する杉尾神社の由緒を記したものであった。

本書は、もともと古くから社家に伝来した記録を基にし、古代の書記法に従って正字および真仮字を交えて書かれた文書である。ただし、原文には読み下しが困難な箇所も散見されるため、本書の内容を損なうことなく、仮名書きによって改めて書き改められている。

その執筆者は、出雲国杵築の人、出雲宿禰俊信である。俊信は、同国の先代国造某君の弟であり、現国造にとっては叔父にあたる人物である。すなわち、神系を引く尊貴な出自を有し、かつ古代学の伝統においては本居宣長(鈴屋翁)の門弟として、長年にわたり学識を積み、志操の篤い人物であった。この点から見て、本書に記された内容に虚偽が含まれるとは考え難い。もっとも、本書の原本は古記であるため、細部においては全く疑義がないとは言い切れない部分も存在する。しかしそれは、元の古記そのものに起因するものであり、本書を書き写した俊信の誤りではないであろう。

『万葉集』巻一に見える矢野神山の歌については、奥書に「柿本朝臣人麻呂之歌集に出づ」との記載があるが、必ずしも人麻呂の自作と断定することはできない。また、その歌の詠作地についても確定することは困難である。『秋寝覚』には伊予国と注記されているものの、これを確証とするにはなお検討の余地がある。さらに後世の歌は、この万葉歌に依拠して題詠として詠まれたものであり、その内容から当該地を比定することはできない。枕詞として用いられる「梓弓」もまた、地名比定の直接的な根拠とはなり得ない。

これに対し、確実な史料として注目されるのは、『続日本後紀』承和八年八月戌午条に「奉授阿波国正八位上天石門和気八倉比売神従五位下」と見える記事、ならびに『三代実録』元慶三年六月壬午条に「授阿波国正四位下天石門別八倉比売神正四位上」と記される記事である。これらの神階叙任の記事は、年代・対象ともに明確であり、史料的信頼性はきわめて高く、疑う余地はほとんどない。

天保二年四月、紀伊国の本居大平、これを記す。


伊国(伊勢)本居太平。 注;本居宣長の養子 紀州藩に仕えて、古学館や国学所の基礎を築いた。本居の私塾鈴屋の継承者

「杉の小山の記」出雲宿禰俊信著

阿波国名西郡矢野村に鎮座する杉尾大明神と申し上げ奉る神社は、『延喜式』神名式における阿波国名方郡(旁記:大政官符録に曰く、寛平八年丙辰九月五日、阿波国名方郡。名東・名西の二郡となったのは文政十三庚寅の年で、三百三十五年前のことである)の「天石門別八倉比売神社」であり、大月次(おおつきなみ)や新嘗(にいなめ)の祭祀に与る社、すなわち当神社のことである。

『続日本後紀』第十巻に「阿波国正八位上 天石門和気八倉比咩神」と記載があるように、阿波国における大社であり、また神階を高められて神祇官の月次の祭や十一月の新嘗祭に与る神社と定められていた。このように神階が進められ、朝廷からも深い御崇敬を受けていた神社である。

さらに『類聚国史』神祇部第十巻(旁記:十五字)には「阿波国従四位上 天石門和気八倉比咩神に正四位下を授け給う」と見え、また『三代実録』第三十巻(旁記:三下ニ)には「阿波国正四位下 天石門別八倉比咩神に正四位上を授け給う」と記されている。そして天慶三年二月一日に正三位を賜ったということは、『長歓勘文』にも見えている。

このように由緒を尋ねて考察すると、元暦二年三月三日に正一位を授けられたということが『諸神記』および『源平盛衰記』に見える。また、歴代にわたり神階を進め給うた(旁記:加叙して神階を進めるのは佳例であると賜う)。

また「杉尾」と名付ける理由は、杉の小山に近い里であるゆえに世俗において杉尾大明神と称した。阿波国の大社であるこの社に伝わる本記を考察するにあたり、由緒ある古伝に合致していて、九月十三日を祭日と定められていることはみだりに動かすべきではない。矢野の神山と言える証である。

『万葉集』十巻に (旁記: つまごもる)「妻隠 矢野神山露霜に にほ(旁記: にほひたり)ひたり実始散巻惜」

『新勅撰集』秋下 鎌倉右大臣(源実朝)「風吹いて雲切れ間の月影に矢野の神山色変わるなり」

『続拾遺集』春上 従三位行能「梓弓春の山辺に霞立ち引く方知らぬ矢野の神山」

『玉葉集』春上 入道前太政大臣「梓弓張るるものゆえ霞の神山かすむ野川」

『新千載集』秋下 常盤井入道前太政大臣「秋と言えばいずれの山も時雨れるけれども神山風は峰の松風」

右の詠歌に詠まれているごとく、阿波国矢野の神山が当地(当神社のある場所)である。

『出雲国風土記』に「神門郡の八野郷に、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)大穴持命が屋(宮)を造り給うた」と見えることや、『万葉集』の「妻隠八野」というのもその地(出雲)のことだろうかという疑いもあるだろうが、それは後世の神代巻とあるようなものであろう。出雲国に思い当たるような神名があることにかこつけて、八野と同じ名であるからこのような山もあるのだと造り合わせたものであり、本来「八野」というのは阿波の「矢野」を指している。弓矢を納めた「矢矧(やはぎ)」と言ってその場所の由緒は一通りではないなどと言っているのも附会(こじつけ)である。

『延喜式』において天石門別神社は、大和国高市郡の天津石門別神社、摂津国嶋下郡の天石門別神社、近江国伊香郡の天石門別神社、陸奥国白川郡の伊波止和気神社、美作国英多郡の天石門別神社、備前国御野郡の天石門別神社、土佐国吾川郡の天石門別安国玉主天ツ神社、また山代国葛野郡の天津石門別雅姫神社(旁記:名神祭に与る)として列記されている。

天石門別神は『古事記』に「天石戸別神、亦の名を櫛石窓神と謂ひ、亦の名を豊石窓神と謂ふ。此の神は御門の神なり」と記されているように、御門の神である櫛石窓神・豊石窓神のことであり、神祇官西院に鎮座して御門巫(みかどのみかんこ)が祭る神を指しているのである。これは朝廷において大御門を守る堅神(守護神)である。

右に述べたように天石門別神社は数多く存在するが、正しく神代の故事を伝える著名なものは阿波国石門別神社である。式においても重きをなす八倉天石門別神については、『古語拾遺』に「全豊磐間戸・櫛石間戸命の二神、殿門を守衛す」とある。

神祇官西院において御門巫が祭る神は八座(旁記:ならびに大月次・新嘗に与る)あり、櫛石窓神(旁記:四面の門に各一座)と豊石窓神(旁記:四面の門に各一座)の二神を四面の御門に各一座ずつ祭るゆえに、合計で八座となるのである。

これに関連して『祈年祭の祝詞』にも「御門は御巫の祭る、称辞竟へ奉る皇神等、鎰前(かぎさき)より櫛磐間戸命・豊磐間戸命と御名白して称辞竟へ奉るは、四方の御門に湯津磐村(ゆついわむら)の如く塞り坐して、朝は御門を開き奉り、夕は御門を閉ぢ奉りて、疎ぶる物の下より往かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守り日の守りに守り奉る故に」とあり、この神は門を護る神であるとされている。

神名帳に「丹波国多記郡 櫛石窓豊石窓社二座(旁記:並びに名神大)」と書かれていて、この社と高天原を開いた御霊宝の神は、この島に神社として現御身(うつしみ)で存在しているのである。

皇孫命が天降り給うた時、この神の御霊宝を添え降らし給うことになり、現御身(実際の姿)と御霊(神霊)との区別をよく知るというその趣旨が理解できなければ、神典を解釈することも難しい。阿波国名方郡矢野の神山に天降り給うたというのは、現御身が天降り給うて御弓と御矢を納め給うたことが当神社の本記に詳しく見えているのがこれである。

現御身が降り給うがゆえに、『姓氏録』に「多治比連は神魂命の児、天石都倭居命の後なり」とあるのも、天降り給うた時の御先達として降ったゆえに系図に記されているのである。

『古語拾遺』には太玉命の降った場所がどこにも見えないかのように記されているが、本主の命は高御産巣日命の御子であって、阿波に同じく移られたのである。皇孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向に天降り給う時、八坂瓊曲玉を下し給うて「鏡建み守(かがみたてみまもり)」とも言い、その後阿波国より現御身として下り給うて、大神社の勅命によって弓矢を持って降り給うたのである。その後また高天原に帰り給い、伝えに[不明]その後この地に留まり給うたので、これが本殿に祀られる二前の神である。八倉大神とは、天照大御神がこの御霊宝を下し給うて豊葦原中国に守護神を降し給う際の御名であるからして、そのことが本記に詳しく記されている。

『延喜式』神名帳に「天石門別八倉比売神社」とあるように、二柱の神号を合わせて一つの社の名とする例は多く存在する。同社に二神を祭るにあたり、それぞれの名称をその場所に充てる理由が見えるのは、我が地元の八雲国(出雲国)の杵築大宮(出雲大社)においても同様である。出雲においては、「大名持伊那西波岐社」や「大穴持御子社」があることによって、大穴持大神と伊那西波岐神は二柱の御神としていらっしゃるけれども、神名(帳)においては大穴持大神と斉しく称され、大宮(杵築大社)において「大穴持社」とだけあるように、すべて国記(出雲国風土記)に載せられていて、伊那西波岐神も同じく崇められているのである。

それに対して、当社の天石戸別神は(別にして)分けて、弓矢が残されているという天降りの由緒をはっきりと示しており、この石門別神を(社の)主(中心的な由緒)とするべきである。総じてこのように、『延喜式』において神社の名を表す際に、二柱の神号をもって社号としていることを尊ぶのである。

これら(神々)を崇める先人の意図は深く、各所の御本記(神社の根本記録)には真仮名(漢字の音訓による表記)が用いられていて世の人が皆それを読み難く思っていた。そのため、その本記を今の世において広く仮名書きに改め、読みやすくしようとして、ここに書き改めるものである。

八倉比売神社御本記

【天地開闢と八倉比売大神の誕生】
はるか太古、天と地が初めて分かれた時、高天原(たかまがはら)に現れた神の名を「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と申します。次に、国土がまだ若く、水に浮く脂のように漂っていた時、葦(あし)の芽のように萌え出て成った神の名を「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」と申します。 その後、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)と伊邪那美神(いざなみのかみ)が現れました。この二柱の神が、国土や海原、山川、形成諸々の精霊を産み成した後、伊邪那岐神が左の御目を洗った時に成った神の名を「日霊大神(ひのみたまのおおかみ=天照大御神)」と申します。これすなわち、八倉比売大神(やくらひるめのおおかみ)であります。

【弓矢の譲渡と阿波への降臨】
大神は高天原にお生まれになり、最初はご自身で武備(軍事)を司っておられましたが、ある時、天石門別神(あまのいわとわけのかみ)に勅命を下されました。「これより後、汝(なんじ)らは私に代わって、天の武備を手ずから引き受けよ」 この頃、須佐之男神(すさのおのかみ)が高天原で乱暴な振る舞いをされたため、大神は持っていた「天の羽々矢(あめのははや)」と「天の麻迦胡弓(あまのまかこゆみ)」を天石門別神にお授けになり、こう仰せになりました。「この弓矢を持って葦原中国(地上)へ降りなさい。そして善き地にこれを隠し納め、二度と(戦いに)用いることのないようにせよ。私もまた天降り、その地を住処としよう」 勅命を受けた天石門別神(とその一族)は、高天原よりこの弓矢を持って降りる際、空中で立ち止まり、「志(こころざし)あるならば、この矢の止まる所を隠し場所としよう」と誓いを立てて矢を放ちました。矢が流れて落ちた地を「矢達(やたつ)の丘」と名付けました(現在の矢陀羅尾)。二柱の神はこの地にやって来て、矢を探し出し、その地を「矢野(やの)」と名付けました。そして矢を納めた場所を「矢の御倉」、弓を納めた場所を「弓の御倉(波万乃御倉=はまのみくら)」と呼びました。その後、二柱の神はこの地に留まり、鎮座されました。これが「松熊二前(まつぐまふたまえ)の神(櫛石窓神・豊石窓神)」であり、今も御矢倉と御弓を守り続けておられます。

【八倉比売大神の降臨と気延山への行幸】
その後、八倉比売大神(天照大御神)は、天の八重雲を押し分けて天降りなさいました。最初に「禍乃小川(わざのおがわ)」の清らかな流れをご覧になり、「この川の水は深い(良い)」と仰せられ、また「流れが速い」と仰せられました。ゆえにその地を「早淵(はやふち)の邑(むら)」と言います。その時、地元の神である大地主神(おおとこぬしのかみ)と水股神(みずまたのかみ)がお迎えし、川の魚を獲って大神をもてなしました。大神は「ひれが狭い魚(鮎など)であっても、食べるべき良い物だ」と喜ばれました。ゆえにその川を「鮎喰川(あくいがわ)」と名付けました。 大神は二柱の神に「私が住むべき場所へ導きなさい」と命じました。大地主神は答えて言いました。「ここより西の方角に、朝日が真っ直ぐに差し、夕日が照り留まる『気延(けのべ)の嶺(みね)』がございます。その地に行幸されるのがよいでしょう」 一行が西へ進み、杉の小山の麓に至ると、眷属である石門別神が出迎え、敬礼して申し上げました。「よくぞおいでくださいました。ここは以前、仰せの通りに御矢を納めた地でございます」大神はたいそう褒められ、この地に一晩泊まられました(これによりこの地を「矢倉の郷」、また「屋度利(やどり)の社」と言います)。

【気延山への鎮座と「エラキ」の神事】
さらに山坂を登り、杉の小山を経て、気延山に到着されると、広浜の神が参上し、季節の御衣(みころも)を奉りました。すなわち、気延山の嶺の、地下深く続く岩盤の上に太い柱を立て、天に通じるように高くそびえるこの社(やしろ)に、大神は正式に鎮まられました。(天の石門を押し開いて鎮座されたゆえに『天石門別』と言い、八倉の郷に鎮座する姫神であるゆえに『八倉比売』と言います。) この夜、八百万(やおよろず)の神々は集い、「唬楽(えらき)」をなして、神を迎え、この地に鎮め奉りました。「えらき」とは「歓喜咲」とも書き、「恵良岐(えらぎ)」と読みます。「咲き、栄え、楽しむ」という意味です。これは、神の恵みや喜びが兆しとして現れ、人々や土地が栄え、祝福に満たされることを表す言葉です。神々はこのことによって、大神を迎え、土地を祝福し、豊かさの兆しを示す祭儀を執り行ったのです。 その神々が集まった場所を「神集岳(かみつどいだけ)」あるいは「喜多志嶺(きたしのみね)」と言い、その神楽で使用した草や種々の道具を納めた場所を「加久志(かくし)の谷」と言います。大神は歌をお詠みになりました。

「雲の居る 八倉の郷の気延山 下つ磐根に 宮居そめつも」 (雲が湧き立つ八倉の郷の、気延山の盤石な岩の上に、初めて宮居を定めたことだよ)

また、大泉の神に命じて「天の真名井(あまのまない)」の水を汲ませ、玉の椀(もい)に入れ、朝夕の食事を炊く水とさせました。気延山は、大日孁貴(おおひるめむち)が鎮座されたため、尊んで「神山(かみやま)」とも呼ばれます。

【杉の小山への遷座と奇跡】
それから二千百五年が経ち、推古天皇の元年(593年)の秋八月。大神は人(毛原美曽持)に神がかりして、こう託宣を下されました。「私の宮がある場所(気延山山頂)は、あまりに高く険しいため、人々は参拝に苦労し、足が遠のいている。『杉の小山(現在の鎮座地)』は、高くもなく低くもなく、遠くもなく近くもなく、まことに善い地である。その嶺に遷座しようと思う。かつて私が天より持ち降った『瑞(ずい)の赤珠(あかだま)の印璽(いんじ)』をそこに深く埋め、天の赤土で覆い隠せ。この赤土は、あらゆる災厄や病を防ぐ不思議な力がある」 神主たちは「遷座すべきですが、もし目に見える奇跡(効験)がなければ、人々は信じないでしょう」と申し上げました。すると大神は「もっともだ」と仰せられ、「私の御前の谷の水を逆流させ、山の頂へ注ぎ上げ、田を作って社殿造営の食糧とせよ」と命じました。すると一夜のうちに、谷の水が逆に流れて山頂に至り、稲がたちまち熟して、八束(やつか)にもなる立派な穂が実りました。(その谷を「サカシマ谷」、その田を「シルシ田」と言います) 人々はこの奇跡を見て恐れ敬い、ただちに杉の小山に立派な社殿を造営しました。大神は「御簾(みす)、日の御簾」の奥深くに隠れ、国家の基盤を守護すると誓われました。遷座が行われたのは、九月の「中三日(13日)」でした。それゆえ、今でも九月十三日を、御霊が現れる最も重要な祭日としているのです。

奉授神位。

爾の時 文政十一年戊子春三月 七十三叟 盛重誠(花押) 注:盛重誠 石井、矢野の藍の豪商 大阪屋新助

【境内の禁忌と神宝の霊験】
その社殿が造営された山の敷地は、四方約四町にわたり、殺生が禁じられており、その他の不浄や穢れも忌み嫌うべき場所である。特に白鳥や獣の類を、神社の境内で飼うことは禁じられている。これは大神が常に愛しておられるためである。
また、境内には古い井戸がある。これを「真名井(まない)」と呼ぶ。もし天下が日照り(旱魃)になり、雨乞いの祈祷を行えば、必ず恵みの雨(甘雨)を降らせるのである。 また、様々な病気で苦しむ者が、この赤土(※杉の小山に埋められた天の赤土)を用いて祈願すれば、必ず平癒する。この他にも、不思議な霊験は数え切れないほどである。

【奉納和歌】
本居大平
神代より 伝へて久し 杉の小山の 赤土の 恵みは人の 病癒すなり

千家俊信
いづくとも わかぬ阿波路の 杉むらに 標を立てて 尋ね来にけり

森眞秀
千代経とも 変わらぬ御代の しるしなる 杉尾の宮の 古き跡

ここに古い記録が破損していくことを嘆き、わずかばかりその大略を記して、後世に伝えるものである。

【奥書】
天保2年(1831年)辛卯の年 4月
 杉尾大明神
   祠官 盛氏
   同  森氏


以上のように、この地に神が鎮まり、人々がこれを敬い奉ってきたことは、一時の出来事ではない。代々にわたり、神を迎え、祀り、供え、守ってきた積み重ねによって、今日に至っている。山の形、谷の水、田の実り、社の営み、そのすべてが神の恵みとして語り継がれてきたのである

このため、ここは単なる一社の縁起ではなく、土地と人と神とが結ばれてきた歴史そのものを記したものといえよう。神を祀ることは、華やかな祭りのみを意味しない。日々の暮らしの中で、慎み、畏れ、感謝し、正しく生きることこそが神への奉仕である。この記は、そうした心のあり方を後の世に伝えるために記されたものである。

願わくは、これを読む者が、この地の神を敬い、その由来を軽んじることなく、永く守り伝えていくことを切に望む。

補遺

長月(九月)の十三日。此の日をもって御霊が此処に現れた日と奉る神事を執り行い、この記を奉納する。この日、神前にて奉告の儀を行い、あわせてこの書を納めた。後に読む者が、この記の趣旨を誤らず、神の由来と土地の来歴とを正しく知ることを願っている。
右、記して後世に伝える。

注:現在でも新暦の10月13日に秋期大祭として継続されている

神徳のこと

  1. 寛延年中新掌石燈籠之事
    → 寛延年間(1748–1751)に、新たに石灯籠を奉納・設置したこと。これは盛氏が寄進した八倉姫の石灯籠のことか
  2. 早渕村為居原之事
  3. 入田村内御田之事
  4. 矢野の内谷之事
  5. 同延命之事
  6. 阿波延来馬王魂下馬之事
  7. 宮山際償墓無之事

右外古言ノ伝有之但必考之
右に挙げた以外にも古い言い伝えがあるが、必ず検討・考証すべきである。

杉の小山の記には、本文以外に細かな注釈文が書かれている。細かな字で読みにくいが、出来るだけ読み下した文を下記に添付しておく。

:読み下しのため、国書データベース等の写本も参考にしたので徳島県図書館のデジタルアーカイブ解読文とは異なる部分があります。

『天石門別八倉比売神社本記』

 天地開闢と天降りの神勅

いにしえ、天地初発の時、高天原に成った神の名を「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と号する。(これは『古事記』の初めにあるべき記述である。) 次に、国が若く浮き脂のように漂っていた時、葦牙(あしかび)のような物によって成り出でた神の号を「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」とする。(これは『日本書紀』の神代巻に存在する事柄である。)

その後、右の神である伊邪那岐神(いざなぎのかみ)、次に妹の伊邪那美神(いざなみのかみ)、この二柱の神が国土・海原および山川の諸々の霊神を産み生み出した後、伊邪那岐神が左の御目を洗った時に成った神の名を「日孁大神(ひるめのおおかみ)」と号する。これすなわち「八倉日孁大神」である。(八倉とは、日孁大神すなわち天照大神の御霊宝に御名があって共に寄り添い給うという意味であり、記紀にも記されている。)

いにしえ、高天原において武備(武の力)を備え賜った後、天石門別(あめのいわとわけ)の神に勅命を下された。「今より後、お前たちは私に代わって武備を奉れ」と。 また仰せになった。「この羽の矢、この御弓を葦原中国(地上世界)に持ち降りて、ふさわしい良き地に末永く収め奉り、永く用い定めるように」と。(八倉姫大神も共に高天原から阿波国をお定めになるために天下り給うのである。)

 それゆえ、二柱の神(天石門別神)が高天原よりこの弓矢を持ち下り給うてお示しになった時、「私もまた天下ってその地に住もう」と宣言されて、天の羽々矢(あめののははや)および天乃麻迦胡弓(あめのまかごゆみ)をお与えになった。二神は天の中空に立って、「この矢の止まる所をもって、お納め奉る地としよう」と誓約(うけひ)をして、矢を放たれた。

矢の御倉の定立と鮎喰川の由来

天から放たれた矢が止まった地を「矢達の丘(やたちの丘)」と名付けた。(現在では「矢達」と謂う。矢を放たれた所を「おろし」といい、気延の麓の高所ともいう。里人は今そこを「矢たて処」と言い伝えている。) その矢をこの地に見に来て、あまねく探し求め給い、二神はこの地において「弓矢の野」とし、その矢が飛来して出現したものを永く納め奉る地を「矢の御倉」と名付けた。(矢の御倉とは、名方郡矢野村の気延社のことである。)その弓を納め奉る地を「弓の御倉」と名付けた。(これも気延の神であり、三丁ほど西の山の尾に小弓を納めた場所である。)

その後、二神はこの地に留まり鎮座して、松熊二前(まつくまのふたまえ)として、御矢倉および御弓を長年にわたり守り給うた。(松熊二前の神とは、御門の神である櫛磐間戸神・豊磐間戸神のことである。)

天下り給うた時、いにしえの耜の小河(すぎの小河)が清らかに流れるのを照らし御覧になり、「この川は水が深い」と仰せられ、大旱魃(ひでり)の際にも良いだろうと宣言された。そのため、その場所を「早渕の邑」と呼ぶ。(すぎの小河は、名東村杉の小山の麓から二丁余り南にある。早渕は鮎食川北西の川岸である。)

その時、大地主神(おおとこぬしのかみ)、水股神(みつまたのかみ)、御井神(みいのかみ)が参りお会いして、この川の魚を捕らえて神饌(みあえ)として奉った。(大地主神は名東の里人が祀る神、水股神は御井の水神である。) 大神は、これを「久鰆(あゆ)の挟物(はさみもの)」と称えられ、食物として大変良いと仰せになった。それゆえ、その河を名付けて「鮎喰川(あくいがわ)」と呼ぶのである。

鎮座地の選定と石門別神の出迎え

ここにおいて、大神は大地主神および水股神に対して勅命を下された。「私が住むべき場所はどこか。お前たちが案内し奉りなさい」と。 大地主神は答えて申し上げた。「見渡しますと、この郷の方向に、朝日の直刺(たださ)す山、夕日の日照留(ひでりとどま)る氣延(きのべ)の山嶺がございます」と。(朝日の直刺す山とは東に向いて朝日が真っ直ぐ当たる所、夕日の日照留まるとは西が開けて夕日が射し留まる所を言う。)

「どうかその地へお導き申し上げましょう」と申し上げて、道を案内し奉った。(気延山は名西郡矢野村にある。) その時、神の名を「伊魔離神(いまりのかみ)」と申し上げる者がおり、この野に生える篠(しの)から作った五百箇(いほつ)の野薦(のごも)、八十(やそ)の玉簏(たまこ:美しい竹かご)、種々の御幣(ごへい)を奉った。

伊魔離神(いまりのかみ)は阿波国の北海津神(きたのうみつかみ)のことである。 名西郡矢野村の矢倉社(やぐらのやしろ)から二丁(約200m)ほど東に少し小さな社があり、これが伊魔離神を祀る小社である。

その幸いなる野の地を「五十串野(いぐしの)」と呼び、その神饌を奉った地を「阿閇野(あへの)」と呼び、今は「狹野(さの)」と呼んでいる。 小山の麓に到着されると、石門別神(いわとわけのかみ)が迎えに来て、敬礼してご案内を申し上げた。

気延山への鎮座と歓喜の祝宴(えらぎ)

「すず」とは小竹(篠竹)のことである。(『日本書紀』の)神代巻にある「筍野薦(たかのみこも)」という記述は、この(篠で作った野薦の)ことだろうか。 語源は、神の気を吹き下ろして撫でる「スズ吹く風」や、清らかな「スズの道」を通るという言葉から出たものである。

『古今著聞集』には、石泉法印(しゃくせんほういん)が靫(うつぼ)の別当であった際、折々に「すず(篠)」を多く用意し、それを武家へ送り届けるにあたって次のように詠んだとある。

「竹すず(篠竹)が白鶴の福を湛えるように、あなたを万代の[友として頼もしく]思います」

(※その後の記述は、篠竹の皮を剥いて準備する様子や、月夜に鶴の福を呼ぶ儀礼に触れ、かつて「吊り薦(つりごも)」を「薦」と誤認した例があるが、ここでの「薦」は竹(篠)に関連するものであると説いています。) 結論として、「すず」とはこの地(五十串野など)に生える小竹のことである。

八十(やそ)、六十(むそじ)、八千万事(やよろずのこと)に至るまで、すべては神の御心のままであるという趣旨を申し上げた。 「御幣(ごへい)」は、もともと二つとないほど貴重な、神へ献上するすべての品物の総称である。略儀としては、結布(ゆう)などを串に挟んで捧げるものを指す。 『和名抄』では、この幣帛(へいはく)を「之久良(しぐら/みくら)」と呼んでいる。

「いくし(五十串)」とは、「五十串野」の由来となった「八尋鉾(やひろほこ)」、すなわち伊弉諾(いざなぎ)の祠(ほこら)のことである。この祠は、道から二丁(約200m)ほど東の場所に倒れた状態で安置されているが、今でも「五十串(いぐし)」という田の地名として残っている。

「髪そぎ(かみそぎ)」という名も地名に残っている。毎年正月、杉の小山から矢野村にかけて神前を通り過ぎる際、西の山に夕日の影が残る頃、道端で自らの髪を切って竹(篠)に挟み、大御神への印として道傍に立てる儀式があった。

このため、今でも「髪そぎ」という田の名が残っている。この小山は、矢野村の矢蔵(やぐら)の社から五丁(約500m)ほど西にある、山へと登る坂道の途中である。

大神は永く神勅を下された。「お前たちは、私の勅命の通り、私を久しく守り続けるであろうか」。そのように先述の通り神勅を下し、すなわちこの御矢を納めた地を、大神は大変喜ばれて詩(うた)を賜り、この地に一晩お泊まりになって「氣延の山」とお呼びになった。 到着された時、廣濵(ひろはま)の神が参上しお会いして、時節の御衣(みそ)を奉り留めた。そのためその地を「御衣足(みそたり)」と言う。

氣延の山嶺の下津磐根(したついわね)に宮柱を太く立て、高天原における峻峙(しゅんじ)のごとく、天上の儀式と同じように鎮座された。(天石門別神が天降り鎮座されたゆえに「天石門別」と謂い、八倉の御霊姫神であるゆえに「八倉比売」と云うのである。)

この夜、八百万(やおよろず)の神々が神集い(かむつどい)に集まって(えらぎ)楽をなされた。その神々が集まった場所を「喜多志嶺(きたしのみね)」と言う。それは竹の奥谷の上にある。

(「えらぎ」とは「歓喜咲(かんきえむ)」の意味であり、神々が歓び笑い、神楽などの祝宴を行ったことを示している。)

その楽(えらぎあそび)に用いた芋草(いもくさ)、および種々の品物を収め置く場所を「加久志乃谷(かくしのたに)」と書き記す。

「かくしの谷」は奥谷の西にある谷である。

そこで大神(おおかみ)が和歌を詠んで仰った。

「雲乃居留(くものゐる) 八倉乃鄙濃喜能(やぐらのひなのきの) 辺山下津磐根尓(へやま・したついわねに) 宮井素女都毛(みやいすめつも)」

この後、大泉(おおいずみ)の神に勅命を下して、真名井(まない)の水を玉碗(たままり)にたっぷりと汲み移し、朝夕の御食(みけ:神へのお供えの食事)を炊くための水とする。

杉の小山から乾(いぬい:北西)の方角へ登り、五丁(約500m)ほど登ったところに真名井がある。

(真名井は)深さが五寸ほどであり、どれほど日照りが続く旱魃(かんばつ)であっても井戸の水はいささかも減らず、大雨が降っても水かさが増すことはない。

また、井戸から一反(いったん)ほど下ったところに田がある。 宝暦(ほうれき)年間(17511764年)の頃、その田を新しく作っていた者の嫁が、田の水で不浄の物を洗ったところ、たちまち盲目になってしまった。そこで神をお祀りし、祓い清めたところ、元のように目が見えるようになったという。 大泉の神は、その峰の[頂(いただき)にある]小さな社である。

〇「玉碗(たままり)に水を汲む」とあるのは、『日本書紀』武烈天皇の巻に「苞苴(つと)を以て波豆倍毋理(はづばむり)と」とあるのと同じである。「玉碗」とは立派な椀という意味である。『豊受宮儀式帳』には「御水(みみず)三毛比理(みけひり)」と言うなどと見える。

また、小泉神田(こいずみのかんだ)の御田(みた)を奉り、御饌(みけ)のための御田とする。

気延(きのべ)の山のまたの名は「神山(かみやま)」である。大日孁貴(おおひるめのむち=天照大御神)が鎮座なさるため、尊んで神山と言うのである。

その後、二千百五年を経て、小治田(おはりだ)の御宇元年(推古天皇元年)秋八月に至り、大神(おおみかみ)は毛原(もはら)の美曽持(みそもち)に託宣(神懸かり)して仰った。 「私の宮地(みやどころ)は遥かな高山の険しい場所である。この故に、神主(かんぬし)・祝(はふり)・巫(かんなぎ)及び百(もも)の蒼生(あおひとぐさ:数多くの人民)に至るまで、参詣や拝趨(はいすう)に疲れ果てている。

杉の小山は、高くもなく低くもなく、遠くもなく近くもなく、まことに善き地である。かの山嶺(やまのね)に遷座しようと思う。

〇田口の南田は、杉の小山の西南に五歩ばかり(のところにある)。 〇小治田の宮は、人皇三十四代・推古天皇の御代である。 〇毛原は杉の小山の麓である。巴鐔(ともえつば)の方角へ五丁(約500m)ほどの所にして、今も田の名に残っている。 〇美曽持は人の名と見える。毛原より三丁(約300m)ほどの所にして、田の名に残っている。

天から持ち降ったところの瑞(みず)の赤珠(あかたま)の印璽(しるし:御印)は、杉の小山の山嶺に深く埋め、天の藉(あめのしとね:天の敷物)をもって雨覆いとし、隠し置け。この印(しるし)は、諸々の邪鬼・妖怪および諸病を厭(ふせ)ぎ、奇(あや)しく妙(たえ)なる験(しるし:御利益)がある」と教え諭し賜うた。

諸御印(もろもろのみしるし)と名付け奉る秘密がこれである。その印(しるし)を埋めた所の地を、印王の峯(しるしのおおきみのみね)と言う(または御印の峯とも言う)。

その時、神主・祝(はふり)らは申し上げた。 「大神の託宣の通り、遷座し奉るべきです。そうではありますが、効験(しるし)がなければ諸人(もろびと)の疑いを、どうして信じさせることができましょうか」と申し上げた。

その時、大神が仰せになった。「もっともなことである。

【(割注)】 〇佛石巌(ほとけのいしぐら)は大傳神(おおつてのかみ)の社である。三十間(約54m)ほど裏山の道にある所である。今は無い。毎年正月元旦に印の峯の西谷の際にある所に[出向く]、神の神輿の休み所と言う。

(大神は続けて)「私の目の前の谷の水を、逆さまに山の頂へと激しく流そう。 (そこで)田を作り、造営の御食(みけ:神饌)とせよ」と勅命を下された。

すると一夜にして谷水が溢れ渦巻いて山の頂上に至り、田はすぐに実り、その稲穂は八束(やつか:たいへん長く立派な様子)にもなり、豊かに茂った立派な穀物(嘉穀)となった。

その谷を「左加志摩谷(さかしまだに)」と言う。 その田を「志留志田(しるしだ:印田)」と言う。

神主・祝(はふり)および多くの人民たちは、その神の御言葉がはっきりと(奇跡として)現れたことを畏れ敬い奉り、 すぐさま杉の小山に宮柱を太くしっかりと立て、高天原に向けて千木(ちぎ)を高くそびえさせ、 天の御蔭・日の御蔭として、永遠にお隠れ(お鎮まり)になり、 国家の大きな基盤をお守りなさるのである。 (以上が)遷座の月(事の次第)を記したものである。

長月(九月)の日の中の三日(九月十三日)、この故にこの日をもって、御霊(みたま)が現れた日として申し上げ奉るのである。

今このように、九月十三日に御祭(おまつり)があるのは、まさにこの本記(この記録)の文の通りである。


神徳の事(神の御利益・由緒にまつわる事)

一、気延山中の新宮の造営の事

一、早淵村(はやぶちむら)の鳥居の事

一、入田村(にゅうたむら)内の御田の事

一、矢野の内谷の事

 一、同(矢野の)延命の事

一、この道を往来する際、馬に乗っている者は頭を下げて下座(下馬)する事

一、宮山(神域の山)での殺生を禁断する事

右の趣旨は、名言(確かな言い伝え・記録)として存在している。(それぞれの出来事の)時代等については、ここでは記載を省略する

『天石門別八倉比売神社御本記』 現代語訳

【天地開闢と八倉日孁大神の誕生】 昔、天地が初めて分かれた時、高天原(たかまがはら)に成った神の名を「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と号する。次に、国が若く浮き脂のように漂っていた時、葦牙(あしかび)のような物によって成り出でた神の名を「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」と号する。 その後、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)と妹の伊邪那美神(いざなみのかみ)の二柱の神が、国土や海原、山川の諸々の霊神を産み出した後、伊邪那岐神が左の御目を洗った時に成った神の名を「日孁大神(ひるめのおおかみ)」と号する。これすなわち「八倉日孁大神(やくらひるめのおおかみ)」である。

【天石門別神への弓矢の授与と降臨】 昔、高天原において武備を備え賜った後、天石門別神(あめのいわとわけのかみ)に「今より後、汝らは私に代わって武備を奉れ」と勅命を下された。 また「この羽の矢、この御弓を葦原中国(地上世界)に持ち降りて、ふさわしい良き地に末永く収め奉り、永く用い定めるように」と仰せになった。二柱の神(天石門別神)が高天原よりこの弓矢を持ち下り給う時、「私もまた天下ってその地に住もう」と宣言され、天の羽々矢(あめのははや)および天乃麻迦胡弓(あめのまかごゆみ)をお授けになった。二神は天の中空に立って、「この矢の止まる所を、お納め奉る地としよう」と誓約(うけひ)をして矢を放たれた。

【矢の御倉・弓の御倉の定立】 天から放たれた矢が止まった地を「矢達の丘(やたちの丘)」と名付けた。二神はこの地に来て矢をあまねく探し求め、この地を「弓矢の野」とし、その飛来した矢を永く納め奉る地を「矢の御倉」と名付けた。また、弓を納め奉る地を「弓の御倉」と名付けた。 その後、二神はこの地に留まり鎮座して、「松熊二前(まつくまのふたまえ)」として、御矢倉および御弓を長年にわたり守り給うた。

【鮎喰川の由来と神饌の献上】 大神が天下り給うた時、耜の小河(すぎのおがわ)が清らかに流れるのを御覧になり、「この川は水が深い」と仰せられ、大旱魃の際にも良いだろうと宣言された。そのため、その場所を「早渕の邑(はやふちのむら)」と呼ぶ。 その時、大地主神(おおとこぬしのかみ)、水股神(みつまたのかみ)、御井神(みいのかみ)が参りお会いして、この川の魚を捕らえて神饌(みあえ)として奉った。大神はこれを「久鰆の挟物(あゆのはさみもの)」と称えられ、食物として大変良いと仰せになった。それゆえ、その河を名付けて「鮎喰川(あくいがわ)」と呼ぶのである。

【気延山への案内と伊魔離神の奉献】 ここにおいて、大神は大地主神および水股神に対して「私が住むべき場所はどこか。汝らが案内し奉りなさい」と勅命を下された。大地主神は答えて「見渡しますと、この郷の方向に、朝日の直刺(たださ)す山、夕日の日照留(ひでりとどま)る氣延(きのべ)の山嶺がございます。どうかその地へお導き申し上げましょう」と申し上げて、道を案内し奉った。 その時、「伊魔離神(いまりのかみ)」と申し上げる者がおり、この野に生える篠(しの)から作った五十箇(いほつ)の野薦(のごも)、八十(やそ)の玉簏(たまこ)、種々の御幣を奉った。その幸いなる野の地を「五十串野(いぐしの)」と呼び、その神饌を奉った地を「阿閇野(あへの)」と呼ぶ。

【気延山への鎮座と歓喜(えらぎ)の祝宴】 小山の麓に到着されると、石門別神が迎えに来て、敬礼してご案内を申し上げた。大神は「汝らは、私の勅命の通り、私を久しく守り続けるであろうか」と勅を下し、御矢を納めたこの地を大変喜ばれて詩(うた)を賜り、一晩お泊まりになって「氣延の山」とお呼びになった。 到着された時、廣濵の神(ひろはまのかみ)が参上しお会いして、時節の御衣(みそ)を奉り留めた。氣延の山嶺の下津磐根(したついわね)に宮柱を太く立て、高天原における峻峙(しゅんじ)のごとく鎮座された。天石門別神が天降り鎮座されたゆえに「天石門別」と謂い、八倉の御霊姫神であるゆえに「八倉比売」と云うのである。

この夜、八百万(やおよろず)の神々が神集い(かむつどい)に集まって「唬(えらぎ)」楽をなされた。(※「えらぎ」とは「歓喜咲」であり、神々が歓び、神楽などの祝宴を行ったことを意味する。)その神々が集まった場所を「喜多志嶺(きたしのみね)」と言う。その唬楽(えらぎあそび)に用いた芋草、および種々の品物を収め置く場所を「加久志乃谷(かくしのたに)」と書き記す。

大神はここで和歌を詠んで仰せになった。 「雲乃居留 八倉乃鄙濃喜能 辺山下津磐根尓 宮井素女都毛」(雲の居る 八倉の鄙の 氣延山 下つ磐根に 宮居そめつも)

この後、大泉の神(おおいずみのかみ)に勅命を下して、真名井(まない)の水を玉碗(たままり)にたっぷりと汲み移し、朝夕の御食(みけ)を炊くための水とさせた。また、小泉神田(こいずみのかんだ)の御田を奉り、御饌のための御田とした。 気延の山のまたの名は「神山(かみやま)」である。大日孁貴(おおひるめのむち)が鎮座なさるため、尊んで神山と言うのである。

【杉の小山への遷座の託宣と印璽】 その後、二千百五年を経て、小治田の御宇(推古天皇)元年秋八月に至り、大神は毛原の美曽持(もはらのみそもち)に託宣して仰った。 「私の宮地は遥かな高山の険しい場所である。この故に、神主や祝(はふり)、人民に至るまで、参詣に疲れ果てている。杉の小山は、高くもなく低くもなく、遠くもなく近くもなく、まことに善き地である。かの山嶺に遷座しようと思う。 天から持ち降ったところの『瑞の赤珠の印璽(みずのあかたまのみしるし)』を杉の小山の山嶺に深く埋め、天の藉(あめのしとね)をもって雨覆いとし、隠し置け。この印は、諸々の邪鬼・妖怪および諸病を防ぎ、不思議な効験がある」と教え諭し賜うた。

【奇跡の顕現と新社殿の造営】 その時、神主や祝らは「大神の託宣の通り、遷座し奉るべきです。しかし効験がなければ諸人の疑いを信じさせることができましょうか」と申し上げた。 すると大神は「もっともなことである。私の目の前の谷の水を、逆さまに山の頂へと激しく流そう。そこで田を作り、造営の御食とせよ」と勅命を下された。 すると一夜にして谷水が溢れ渦巻いて山の頂上に至り、田はすぐに実り、その稲穂は八束(やつか)にもなり、豊かに茂った立派な穀物となった。その谷を「左加志摩谷(さかしまだに)」と言い、その田を「志留志田(しるしだ)」と言う。

人々はその神の御言葉がはっきりと奇跡として現れたことを畏れ敬い、すぐさま杉の小山に宮柱を太くしっかりと立て、高天原に向けて千木を高くそびえさせ、天の御蔭・日の御蔭として永遠にお鎮まりになり、国家の大きな基盤をお守りなさるのである。 遷座が行われたのは長月(九月)の中三日(十三日)である。この故にこの日をもって、御霊が現れた最も重要な祭日として申し上げ奉るのである。