阿波忌部氏をめぐる「忌部公事」と明治期比定問題
そして三木家文書の史料的再考

―権力構造・在地支配・由緒創出の視点から読み解く地域史―

里山倶楽部四国 坪内 強

本稿の性格について(研究ノートとしての視座)

【論考の構成と目的】

本稿は、阿波国麻植郡(現・徳島県吉野川市周辺)における忌部神社の正統性をめぐる江戸時代の紛争「忌部公事」と、それに連なる明治期の「延喜式内社比定問題」、さらに大嘗祭の麁妙(あらたえ)調進を担った三木家をめぐる史料上の諸課題について、在地社会における「血脈の分散と再編」という機能主義的アプローチから一つのまとまった論考(試論)として再構成したものである。ここで論じられる内容は、『阿波志』『山川町史』『住友家記録』等の一次・二次史料に基づき比較的確実な史実として跡付けられる経緯と、それらの史実の間隙を埋めるための社会史的推論・仮説とから成る。

【定説への立場と「由緒創出」に対する新たな視座】

あらかじめ明記しておくべきは、本稿の立場である。本稿は、阿波の在地神官たち(早雲・村雲などの忌部五雲)が忌部氏の末裔であるという「定説」を否定するものではない。むしろ、戦国末期の長宗我部氏の侵攻等の動乱を経て、本来の忌部の血脈を引く神官たちの一部が生き残るために山間部や川沿いへと分散し、それぞれの地で修験や在地豪族と結びつきながら、独自の神官ネットワーク(忌部五雲)として命脈を保ってきたという前提に立つ。

しかしながら、歴史学および古文書学の客観的見地から、小杉榲邨が比定の最大根拠とした『阿波御衣御殿人契約状』を含む一部の三木家文書等については、これを中世の実態をそのまま記した真正の古文書ではなく、近世以降に作成された「偽書(創出された文書)」として明確に断定する。

ただし、本稿における偽書の指摘は、彼らを「歴史の捏造者」として非難するものでは決してない。戦火によって本物の記録や社地を失った正統な末裔たち、あるいは実体経済の危機に瀕した在地実務家たちが、江戸幕府や明治政府といった「客観的な証拠」と「単一の正蹟」を求める近代的な国家制度に直面した際、自らの真実の権益や血脈を証明するために、失われた歴史を自らの手で「文書として再構築(書面化)」せざるを得なかった――本稿は、その切実な適応行動の軌跡を描き出すものである。阿波における忌部公事や比定問題とは、無関係な者たちによる偽物の争いなどではない。それは、厳しい時代を生き抜き、それぞれに本物の血脈と誇りを抱いていた「同族(支族)たち」が、国家の単一認定システムによって分断され、争わされることになった過酷なサバイバルの歴史なのである。

【忌部公事の特異性――名誉の争いから巨大経済戦争へ】

特筆すべきは「忌部公事」の異常性である。阿波国内には八倉比売神社など古史に彩られた式内社が多数存在するが、氏子や論争はあくまで地域の信仰と格式(名誉)を巡るものであり、流血や焼き討ちを伴う事態には至っていない。忌部公事だけが凄惨な抗争となったのは、彼らが吉野川水運や四国山地の資源(和紙・木材)を独占する「巨大な在地資本」であり、「大嘗祭の麁服調進」という国家唯一の特権と広大な免税特権(黒印地)を巡る究極の経済戦争であったからである。他県を見ても、出羽国一宮の座と山岳利権を巡って暴動・国境裁判に発展した鳥海山の事例や、偽書を創出して国家最高権威(伊勢神宮本宮)の乗っ取りを図った伊雑宮(大成経事件)など、莫大な利権と国家権威が絡む場では凄まじい抗争や偽書作成が引き起こされている。忌部公事や由緒創出もまた、こうした特権階級による実体経済を伴う血みどろのサバイバルという、極めて生々しく特異な歴史的背景を持っている。

第一部 忌部公事――正蹟をめぐる同族のサバイバル(享保末〜寛政期)

一、由緒の喪失と抗争の発端――分散した本流と「五雲」のネットワーク

【戦乱による分散とネットワークの形成】

忌部神社は『延喜式神名帳』に記載された麻植郡の名神大社であるが、中世の戦乱、とりわけ長宗我部氏による寺社破壊(天正の兵火)などによって本来の社地(正蹟)や公的な記録が焼失・散佚してしまった。この未曾有の危機において、忌部の正統な血脈を引く神官たちは、一族の完全な滅亡を防ぐため、吉野川流域や穴吹川上流などの山間部へと分散し、避難せざるを得なかったと考えられる。彼らはそれぞれの地で修験道や在地豪族と結びつき、「忌部五雲(早雲、村雲、岩雲、花雲、飛雲)」と呼ばれる強固なネットワークを形成した。水運の要衝・川田に定着した「早雲」、本宗家を自負し貞光や山崎といった谷口の集落ネットワークを束ねた「村雲」、尾根道などの高地ネットワークを支配した「飛雲」、そして木屋平で在地祭祀を掌握した「岩雲」など、これらは決して無関係な同業者集団ではなく、戦乱という過酷な環境に適応し、形を変えて生き延びた「本物の忌部一族の支族たち」であったと定義できる。

【忌部公事の真の構図――国家制度と同族の悲劇】

江戸時代に入り社会が安定すると、藩命による神社調査(享保13年・1728年)を契機として、空席となっていた「忌部大社」という絶対的な権威をめぐる争いが表面化する。一見すると、これは山崎、川田、貞光という無関係な村落間の対立のように見える。しかし、深層は単なるブランドの奪い合いではない。江戸幕府(藩)の法制度は、「正統な名神大社はただ一つである」という単一認定のシステムをとっていた。戦乱を生き延び、それぞれが「自分たちこそが本物の忌部の血脈である」という真実と誇りを抱いていた支族たち(早雲・村雲など)にとって、この制度は、自らのアイデンティティと存続を懸けて他の同族を蹴落とさなければならないという残酷な現実を意味していた。忌部公事とは、かつて広大なネットワークで結びついていた血を分けた同族たちが、近世の神道再編という新しい国家の枠組みに組み込まれたことで引き起こされた、苛烈で悲劇的な「内戦」であったと考えられるのである。

二、『住友家記録』に見る勝訴の深層と、記録の空白

【『住友家記録』が語る公事の経緯】

元文から寛保期にかけての紛争の具体的展開を知る上で極めて貴重な一次史料が、川田村の郷高取(小高取)庄屋・住友治五右ヱ門(慶之進)らによって書き残された『住友家記録』である。川田村の住友家は単なる村の庄屋ではなく、高越山の修験道(高越寺など)を経済的に支える強力なパトロン(大旦那)であり、藩の重役とも深く通じる在地の実力者であった。同記録の寛保元年(1741年)の記事によれば、川田の「多弥穂宮」神主・早雲民部は20年ほど前に京都の神祇伯・白川三位の門弟となり、「多弥穂大神は忌部社に相違ない」との御書付を下賜され、毎年6月に麻と楮を献上していた。ところが申年(元文5年・1740年)より、山崎村の村雲庄太夫(勝太夫)が自村の「王子権現」を忌部社だと主張し、京都の土御門三位に頼み込んで寛保元年2月に新宮を建立し、賑々しく祭礼を執行した。これに対し早雲民部は直ちに上京して白川家へ訴え、土御門家への働きかけも行って「山崎村へ忌部の下知は出していない」との返答を引き出した。この際、早雲民部は郡役所に無届で上京したことを「のりを越(規定違反)」と咎められ、24日間の宿押し込め(町旅宿追込)となったものの無事赦免された。一方で、相手方の村雲庄太夫は「偽りを申し立てた(偽申・不届)」として入牢(籠舎)を命じられ、山崎村に新設された社や鳥居は跡形もなく破却されたのである。治五右ヱ門は、民部らが「京都での訴訟に勝ち、大手柄を立てた」と称賛の意を記している。

【公的な後ろ盾による勝訴】

そして翌寛保2年(1742年)、早雲民部は単独で動いたのではなく、郡奉行・下条成助に召し出された上で、貞光村八次大明神の神職・兵庫、宮ノ島村の神職2名(計4名)とともに藩の公的な後ろ盾を得て正式に上京した。白川家での詮議の結果、「種穂忌部神社に決着した(相片付申旨)」との正式な裁定が下され、民部は「神道大霊書の巻」を授与された。この決定は直ちに京都留守居・滝与兵衛にも通達され、帰郷した民部と兵庫は連名で郡奉行へ口上書を提出している。さらに5月には、大旦那である庄屋治五右ヱ門からの松木と杉額板の寄進を受けて一の鳥居が再建された。この一連の動向は、早雲氏の勝訴が一介の神職による単独行動ではなく、郡奉行や京都留守居など、藩の行政機構と綿密に連携しながら進められた組織的な公的プロジェクトであったことを示している。

【勝者の記録と覆い隠されたゼロサムゲームの実力行使】

ここに見えるのは、早雲民部が正当な手続きと公的な後ろ盾によって完全勝利を収めたという「川田側の公式な記録」である。しかし、ここで方法論として注意すべきは、『住友家記録』が他ならぬ川田村の庄屋による「勝者側からの史料」であるという限界である。後世の伝承や山崎側の記録では、勝太夫は海部へ配所となり、寛延2年(1749年)に密かに帰村して拝殿で参拝中、早雲民部・式部父子から暴行を受けて死亡したとされ、さらに宝暦4年(1754年)には早雲氏が山崎忌部神社に火を放って焼き払ったと語り継がれている。これらの実力行使を伴う事件は『住友家記録』には一切登場しない。しかし、詳細な同記録に未記載であるからといって、暴行死や焼き討ちが即座に虚構であったと断定することはできない。同村の庄屋として早雲氏と深い関係にあった住友家にとって、身内の神主が犯した暴行致死や焼き討ちといった行為は、自陣営の勝利の正当性を守るために、意図的に記録から「抹消・隠蔽」された可能性が高い。早雲氏がこうした強硬手段に及べた背景には、早雲民部が藩の家老・長谷川近江と主人・従者(頭入)の関係にあり、藩主・蜂須賀治昭に重用された同族「早雲古宝(伯耆)」の強力な政治的庇護が存在したためと推測される。一方が正統と認められればもう一方は偽物にされてしまうという過酷なゼロサムゲームにおいて、敗北がすなわち一族の滅亡を意味する極限状態が、同族(山崎)を物理的に排除してでも「自らの血脈こそが唯一の正統である」という既成事実を盤石にするための、血を吐くような実力行使へと彼らを駆り立てたのである。

三、貞光村の村雲氏――血脈の保持と「証拠創出」の悲劇

【戦国末期の避難と空白地帯】

この由緒をめぐる争いにおいて、貞光村の御所神社を拠点とした「村雲氏」の動きは、当時の神官たちが置かれた過酷な状況を如実に物語っている。在地の伝承によれば、戦国時代末期の兵火に際し、忌部大宮司であった麻植景光は「内山を守れ」という悲願を遺し、村雲兵太夫らの系統が平野部から険しい山岳地帯である貞光(内山)へと退避したとされる。彼らこそは、物理的な旧社地を捨ててでも「祭祀の主体(血脈と精神)」を守り抜いた本宗家としての強烈な自負を持っていた。その結果、戦国期直後の山崎の旧社地は、神官のいない「空白地帯」になっていたと推測される。江戸時代に入り社会が安定してから、別系統(分派あるいは同業者)である山崎の村雲氏が、この空白となった旧社地に定定着し、「由緒ある古代の場所(跡地)」に居ることを最大の根拠として、自らこそが忌部であると主張し始めたという構図が浮かび上がる。

【本宮運動と「証拠創出」への追い詰め】

宝暦年中(1751年〜)、彼らは貞光で「貞光こそが本宮である」と強烈な本宮運動を展開し、代々受け継いできた本来の「村雲」の姓を公に掲げて祭祀権の奪還に打って出た。彼らが主張したことは「大宮司から内山を託されて以来、自分たちこそが代々血脈を守り抜いてきた」という紛れもない真実であったはずである。しかし、江戸時代の藩の法廷では、どれほど真実の血統であっても「口伝や自負」だけでは客観的な証拠として認められない。正統な名神大社として認定されるためには、過去の棟札や古文書といった「物理的な証拠」が絶対に必要であった。戦火ですべてを失っていた彼らは、自らの真実の血脈を法廷で証明するため、やむにやまれず棟札の年代(永禄を元享と書き換える行為)を「創出(偽装)」してしまったと推察される。

【公権力による弾圧と悲劇の結末】

この行為は、単なる悪意ある捏造ではなく、制度の壁に直面した本流が、自らの正当性を証明するために打たざるを得なかった悲壮な手段であった。しかし結果として、この強引な「証拠の創出」は藩権力による徹底的な弾圧(神主父子の入獄・追放と神宝の没収)を招くこととなった。血統的優位という真実を持ちながらも、近代的な証拠主義の前に「偽造者」の烙印を押され、追追放の憂き目に遭う。ここに、国家の法制度によって真実の系譜が闇に葬り去られるという、忌部公事の最も残酷な一面が見えてくるのである。

四、『阿波志』に見る公式記録の要約と政治性

【公式記録における対象の限定】

文化12年(1815年)に編纂された藩撰(公式)地誌『阿波志』は、この半世紀以上にわたる抗争を、「山崎・貞光両村の祠官、忌部祠を相争ひ、遂に中川式部に命じて此に祀る」という一文のみで記述している。実際の抗争の直接的な当事者は「山崎村(村雲勝太夫・社常)」と「川田村(早雲民部、後の種穂神社・中川家)」であった。しかし『阿波志』は、宝暦年間(1751年〜)以降に本格的に争いに加わった「貞光村(村雲左近)」を対立の主軸に限定し、最終的に種穂神社を名乗ることになった最大の当事者「川田(早雲家)」の主体的関与を意図的に記述から外している。

【不都合な事実の排除と裁定の正当化】

村雲勝太夫の暴行死、山崎神社の焼き討ち、貞光への弾圧、さらに山崎村民の直訴と獄中死といった半世紀以上の泥沼の抗争のすべては、「遂に」という一語に圧縮されている。藩の公的な記録として、家老や重役と川田村(早雲氏)との関係性や、暴力事件の放置といった藩政上の不手際をそのまま残すことは政治的タブーであった。したがって『阿波志』の記述は、「山崎と貞光の二者が争ったため、藩が中立の立場から第三者である中川式部に命じて事態を収拾した」という、藩の裁定の正当性を強調するために編纂された官僚的な記述として読み解くのが妥当であろう。

五、「初期論争」の利用と既成事実化

【事実の切り取りと抗争の再定義】

前項で『阿波志』の記述の政治性を指摘したが、「山崎と貞光が争った」という記述自体が完全な虚構であったわけではない。『山川町史』によれば、享保13年(1728年)の神社調査の頃、実際に山崎(村雲)と貞光(宮内)の間で本末を巡る「初期の論争」が起きていた。藩はこの両者の対立を理由として、寛保元年(1741年)に双方を神職から退けた。つまり『阿波志』の編纂者は、この「初期論争の事実」を抗争の全体像を代表するものとして抽出することで、その後に引き起こされた川田村(早雲氏)による暴力的な実力行使の歴史を、公的な記録の表舞台から覆い隠すことに成功したと解釈できる。

【社号の私称と政治的優位の確立】

早雲氏(中川氏)と藩主・蜂須賀家との結びつきは旧くから存在した。貞享3年(1686年)の時点で、早雲氏の一族・早雲中務が藩主の氏神である富田八幡の神主として召し出されている。宝永年間(1704〜1710年)に山崎の忌部旧社が物理的に崩壊した隙を突き、早雲氏(多那穂大権現)を忌部神社と称して既成事実化を進めていた形跡がある。早雲氏側の家系図に、山崎側が忌部社の社号を「奪出し(横取りしようとし)」たと記されていることは、『山川町史』が指摘する通り、本来は山崎側が正当な社号を「奪回」しようとした動きを、早雲側が「不届きな横取り」と非難して退けたという構図を示している。

【公式記録に込められた意図】

この視点から『阿波志』の一文を改めて読み解くと、その意図はおおよそ次のようにまとめられる。山崎の旧社殿が崩壊している間に、藩政中枢と結びついた早雲氏(川田)が忌部神社の称号を主張し始めた。一方で、この称号を巡っては「山崎」と「貞光」の間でも『どちらが本宮か』という別の争い(初期論争)が起きていた。藩はこの「山崎 対 貞光」の揉め事を絶好の口実として利用し、両者をまとめて神職から退けたのである。そして、争いに関わっていない第三者を装った「早雲=中川氏」に称号を公認し、これを最も公正な裁定として記録した――という構造である。本質的な「山崎 対 川田」の対立構造が直接記され直接記されなかった理由は、その抗争が藩政の瑕疵や重臣の関与を伴う重大事件であったこと、そして「山崎と貞光の対立」が、藩にとって早雲氏を正当化するための最も都合の良い論理として機能したためと考えられる。


第二部 権力構造の変遷――誰が早雲氏を守り続けたのか

六、早雲伯耆と藩主治昭――「二人の早雲」の結合

【藩政中枢と神道政策の掌握】

忌部公事における早雲氏の実力行使が半世紀以上にわたって処罰されなかった要因は、阿波藩の最高権力との構造的な結びつきにある。その中核に位置したのが、藩の神道政策を主導した「早雲伯耆(早雲古宝/高宝)」の存在である。富田八幡宮の神主であった早雲伯耆は、11代藩主・蜂須賀治昭の時代に神道界で絶大な発言力を持っていた。寛政2年(1790年)、藩主・治昭に対して全県下への「地神塔(地神さん)」の建立を建白し実現させたのに続き、文化3年(1806年)には治昭が藩祖・蜂須賀家政を神格化するための「国瑞彦神社」創建にあたり、京都の吉田家へ働きかけて神号を授かる実務を担っている。

【権威と一体化した地方闘争】

山崎村民が命がけの箱訴(寛政7年・1795年)を行い、獄死者を出しながらも訴えが退けられた時期は、まさに早雲伯耆が地神塔の建白などを通じて藩主・治昭の厚い信任を受け、藩政に絶大な影響力を持っていた絶頂期と重なる。山崎の忌部公事長年放置され、中川式部(早雲氏)が寛政13年(1801年)まで罷免されなかった最大の理由は、阿波藩の宗教政策の最高責任者として藩主のイニシアチブを支える同族の重鎮「早雲伯耆」が君臨していたためである。地方の神社論争に見えた「忌部公事」は、藩政中枢(藩主・側近)の権力基盤と分かち難く結びついた、極めて非対称な権力闘争であった。

七、五家老体制から「長谷川独占期」へ

【特権的家老家と政治的庇護】

この非対称な権力構造を理解するためには、阿波藩の家老政治の変遷を押さえる必要がある。延宝6年(1678年)の体制確立以降、長谷川家は「政事方」として藩の行政中枢を担う特権的な家老家であった。寛延2年(1749年)の勝太夫暴行死や宝暦4年(1754年)の焼き討ち事件の時期、早雲民部は「藩の家老長谷川近江の頭入(かしらいり)で主人と従者の関係にあった」とされる。当時の実務責任者であった山田職部が早雲氏に加担する動きを見せたのは、藩を共同統治する五家老同士(山田家と長谷川家)の不可侵の権力均衡が存在したためであり、長谷川家の直属配下(早雲氏)の処罰は体制のバランスを揺るがす政治的タブーであったと解釈できる。

【長谷川近江専断期における既成事実化】

その後、蜂須賀重喜の改革と失脚を経て、幼少の治昭が藩主となったことで、「長谷川近江専断期」が到来する。藩政の全権が長谷川氏に集中したこの時期、長谷川を主人とする早雲(中川)氏は、誰に咎められることもなく自らの支配を既成事実化していった。寛政期(治昭の親政期)に入ると、長谷川氏が行政のトップに君臨し、宗教政策のトップには早雲伯耆が君臨するという二重の鉄壁の庇護体制が完成する。寛政7年(1795年)の山崎村民による箱訴の悲劇は、この絶対的な権力構造の最中に起きたものであり、早雲(中川)氏の体制を覆すことは構造的に不可能であった。

八、原士と頭入、そして在地権力者のネットワーク

【在地家臣団「原士」の治安維持機能】

この抗争の背景には、「原士(はらし)」という在地家臣団の存在がある。麻植郡一帯は、吉野川の治水と阿波藍の生産拠点という重要性から、藩の直轄地と家臣の領地が混在していた。長谷川氏配下の「原士」は、農業に従事しつつ、国境警備や百姓一揆の鎮圧といった治安維持の特務を担い、在地で卓越した権威と格式(組士・下士並)を持っていた。彼らが開墾と引き換えに年貢免除などの特権を与えられていた歴史は古い。

【武装宗教集団の体制内再編の可能性】

戦国期の阿波に存在した「念行者(修験者)」の軍事・情報ネットワークが、蜂須賀氏の入国に伴い、単に弾圧されるのではなく、家老・長谷川家の与力並たる「原士」として体制内に吸収・再編されたという仮説が成り立つ。原士が持つ文武の技量や治安維持の特務は、かつての修験者集団の機能と重なり合う。忌部公事という苛烈な抗争の背後に彼らの影が見え隠れするのは、原士たちがかつての修験ネットワークの延長線上にあり、阿波藍の生産拠点という最重要エリアにおける長谷川氏の強固な支配基盤を形成していたからだと理解できる。

【「頭入」と在地インフラの総合的支配】

早雲民部が長谷川氏の「頭入」であったということは、藩の公的な徴税システムを通さず、領主へ直接年貢を納めることでその強固な私的保護下に入る「特権的な被官」であったことを意味する。さらに、川田村の庄屋・住友家は高越山修験の強力な「大旦那」であり、修験者たちの活動基盤を経済的・軍事的に支える存在であった。『住友家記録』によれば、慶長17年(1612年)には藩の重臣が早雲氏の拠点で祈祷を行い、元和年間には村と山の境界争いや水運ルートの確保において住友家が修験ネットワークを守り抜いた記録が残る。山の資源と川の物流を掌握する住友家と、修験の軍事・宗教的ネットワークが強固に結びつくことで、「在地インフラの総合的支配体制」が構築されていた。

【絶対的な軍事的抑止力の存在】

早雲氏が白昼の暴行致死や焼き討ちといった実力行使に及べたのは、単なる傲慢さではなく、もし山崎側が反撃すれば、対岸から長谷川氏直属の原士たちが「一揆鎮圧」の大義名分のもとに武装して介入してくるという絶対的な軍事的抑止力が存在したためである。長谷川家という藩中枢の権力、原士という武力、そして住友家という在地の経済的庇護の三位一体のネットワークがあったからこそ、早雲氏の暴挙は長年にわたり不問に付されたと解釈できる。

九、寛政の政変――給地没収と権力構造の転換

【長谷川体制の崩壊と直仕置の開始】

明和年間以降、弛緩した家老政権のもとで阿波藩は莫大な財政赤字を抱え、農村の荒廃は極限に達していた。寛政2年(1790年)、藩主・治昭は藩財政を立て直すため長谷川近江を罷免し、「直仕置(親政)」を開始する。続く寛政3年(1791年)には長谷川貞幹が失脚・改易され、長谷川家が有していた麻植郡の給地はすべて藩に没収(御蔵地化)された。これに伴い、配下の原士も藩の郡奉行支配へと組み込まれ、早雲氏は「長谷川の給地内の頭入」という強固な後ろ盾と軍事的抑止力を制度的に喪失した。

【箱訴の背景と新体制との衝突】

寛政7年(1795年)に山崎村民が命がけの箱訴に踏み切った理由は、この長谷川家の失脚という権力構造の変化を「公正な裁きを下す好機」と誤認したためである。しかし、彼らが直訴した藩主・治昭の背後には、すでに新たな実力者として、治昭の宗教政策を担う「早雲伯耆」が君臨していた。旧権力の崩壊を好機と見た山崎村民の訴えは、結果的に新体制の中枢(早雲一族)と真正面から衝突することとなり、惣代たちは投獄されて獄死を遂げるという悲劇的な結末を迎えたのである。

十、獄死の重さと「体制批判」としての直訴

【司法判断を超えた政治的意図】

首謀者全員が投獄され獄死するという結末は、江戸時代の越訴の処罰規定に照らしても異常な重さを持つ。ここには、表向きの司法判断(手続き違反の処罰)とは別の、藩政の根幹に関わる政治的な意図が働いていた可能性が示唆される。

十一、早雲伯耆と「藩祖神格化」の政治力学

【政治的・宗教的イデオロギーの構築】

早雲伯耆が絶大な権力を握り得た背景には、「藩祖・蜂須賀家政の神格化」と「国瑞彦神社の建立(寛政4年・1792年)」という、治昭の親政を正当化するための最重要プロジェクトを完遂させた功績がある。門閥家老の権威を相対化し、藩主への権力集中を図るためには、藩主が神聖な血統を継ぐ最高権力者であるという絶対的な大義名分が必要であった。早雲伯耆は、この「新体制のイデオロギー」を宗教面から理論武装した最大の立役者であった。

【早雲一族に対する政治的配慮】

寛政7年(1795年)の箱訴において、藩の役人たちが早雲氏を庇い山崎村民の訴えを退けた理由は、単なる怠慢ではなく、「ここで早雲一族を罰すれば、藩主の権威を高めた伯耆の顔に泥を塗ることになる」という、藩政の根幹に関わる高度な政治的配慮が存在したためと解釈するのが自然である。

十二、直仕置の背景と「地神塔」による農村教化

【財政破綻と在地支配の再編】

寛政の改革(直仕置)の根本的な要因は、莫大な財政赤字と農村の荒廃であった。旧体制の門閥家老を排除し、給地を御蔵地化することで税収構造の立て直しが図られた。この過程で、早雲伯耆をはじめとする国学系の側近グループが新たなイニシアチブを握ることになる。

【地神祭を通じた農業集団の再構築】

彼らが台頭し得た最大の理由は、農村教化の実務的な成功にある。耕作意欲の低下した農村を立て直すため、早雲伯耆や井開氏らが主導して全県下に「地神塔」を建立し、「地神祭」を徹底させた。社日を農休日と定め、庄屋を中心とした強固な結束力を持つ農業集団を再構築することで、農業生産性の向上(年貢増収)を図ったのである。佐那河内村などに残る寛政元年の地神塔銘が示す通り、この巨大な農村教化プロジェクトの成功こそが、早雲氏らが治昭から絶大な評価を受け、権力中枢へと躍り出る最大の根拠であった。家老の失脚という政変の実態は、破綻寸前の藩財政を救うため、新興の側近グループの実務能力を重用した極めて現実的な在地支配の再編であった。

【歴史編纂事業と由緒の統制】

治昭の親政期には、『阿淡年表秘録』などの歴史編纂事業が活発に行われた。これは単なる学術事業にとどまらず、旧体制下で曖昧になっていた神社仏閣の由緒や既得権益を一度クリアにし、藩の最高権力の統制下に再統合していくための「知的インフラ」の整備であった。免税特権を持つ「黒印地」の認定が非常に厳格化されたのも、特権的な無税地を制限し、課税対象(御蔵地)へ組み替えていく財政再建の不可欠なプロセスであったと考えられる。

十三、早雲氏排除の政治的計算と本流の温存

【早雲氏排除の複合的要因】

寛政7年(1795年)に山崎の訴えを退けた治昭が、わずか6年後の寛政13年(1801年)に一転して早雲(中川)氏を罷免した背景には、複合的な政治的計算が推察される。第一に、国瑞彦神社の権威が盤石となり、体制構築における早雲一族の「宗教的イデオロギーの立役者」としての役割が一区切りを迎えたこと。第二に、藩主導の歴史編纂事業が進む中で、過去の早雲民部らの強硬手段や由緒の矛盾が客観的に隠しきれなくなったこと。第三に、早雲民部系が元々は旧体制(長谷川氏)の被官であり、これを処分することで「旧体制の残滓を名君が公正に裁いた」という政治的アピールを完成させるためであったと考えられる。

【本流の温存と巧妙な政治的処理】

ここで重要なのは、地方で騒動の当事者となった種穂神社の神職(中川式部)が罷免された後も、藩中枢である富田八幡宮の宮司(早雲伯耆の系譜)は一切失脚することなくその職を務め続けた事実である。藩は、地方で不満の的となった中川氏(早雲氏の分派)のみをトカゲの尻尾切りのように罷免する一方で、種穂神社の神職には川田に残る「別の早雲氏」を据え、藩中枢の本流(富田八幡の早雲氏)の権威は完全に温存した。地方の過激な系統を切り捨てて民衆の不満を逸らしつつ、一族の宗教的ネットワーク自体は巧みに維持するという、極めてしたたかな政治的処理であった。

十四、「名目上の勝利」――黒印地なき正統性認定

【黒印地の回収と統治の論理】

長谷川家の給地が「御蔵地」として回収された以上、財政再建を至上命題とする藩にとって、山崎忌部神社の正当性を認めたからといって、そのまま旧来の広大な黒印地を返還することは行政論理としてあり得なかった。一度直轄地として帳簿に載った土地を手放すことは、実務を担う役人にとって強い抵抗があったはずである。

【恩賞としての特例的付与】

黒印地の安堵や新規発行は、藩主の代替わりなどの国家的節目に行われるのが通例であり、寛政13年(1801年)の早雲氏罷免はあくまで「人事上の処理」に過ぎなかった。そのため藩は、山崎神社に神領を認めるための別の大義名分(病気平癒祈祷や代替わりに伴う恩賞等)を必要とし、「山崎村の要求に屈した」のではなく「藩主の特例的な慈悲によって下賜した」という体裁を保った。忌部公事の結末は、早雲氏が支配していた特権的領地を藩が一度すべて回収し、必要最小限の土地だけを改めて与えたという、極めて実利的な「税制再編」のプロセスであったと総括できる。

十五、空白の十二年間と「二宮佐渡」の誕生――血脈の帰還と傍流の生存の知恵

【神職不在の空白と女系を通じた血脈の還流】

寛政13年(1801年)の中川氏罷免によって論争は一つの区切りを迎えたかに見えたが、その後山崎忌部社が誰によって継承されたのか、史料上の明白な空白期間が存在する。海部へ追放された村雲勝太夫の息子や孫(竹次郎)は京都へ上り、そのまま同地で自立していた。表向きには旧社地である山崎へ帰還することは叶わなかった彼らであるが、その忌部の血脈と祭祀への執念が決して途絶えることはなかった。

【二つの姓を使い分ける適応行動と五雲のネットワーク】

事態が動いたのは文政9年(1826年)のことである。京都へ逃れた勝太夫の孫である竹次郎の孫娘に対し、婿養子として迎えられた正親が、「二宮佐渡(麻生佐渡正)」として山崎村の神主に就任したのである。山崎の村雲氏が過酷な運命を辿った背景には、彼らが「本宗家の大義」も「強大な政治力」も持たない最も脆弱な「傍流陣営」であったという構造的弱点がある。しかし、無関係な者が突然他村の由緒ある神社の宮司に収まることなどあり得ない。正親は美馬郡の神主・二宮出羽守の弟であり、実態としては二宮姓であった。二宮氏の出自は美馬郡猪尻村の八幡宮であり、天文5年(1536)9月23日付の武田上野守勧請証文に「勧請 上野八幡宮 鎮座 社地前山西神事所一円 前条永代神領ニ付置者也」と記される古社である(猪尻村二宮正胤所蔵文書/徴古雑抄3)。その後現在地に遷して上野八幡宮と称し、『寛保神社帳』には「上野村〈猪尻村ノ上野ナリ〉正八幡宮 神主上野村 二宮出羽守」と記されている(続徴古雑抄1)。注目すべきは、明治6年に郷社に列したこの神社の例祭(10月23日)が「上野市」と呼ばれ、阿北屈指の大市として見せ物も多数出て賑わったという事実である。原士や在地神官が修験道と物流ネットワークをルーツとしているとするならば、山崎の「市」を巡る忌部公事の空白地に、同じく大市を管轄する美馬の二宮氏から弟が送り込まれたことは決して偶然ではない。二宮氏もまた、「五雲」の広域ネットワークに深く連なる一角であったことが十分考えられるのである。ここに、山崎の村雲氏の直系(女系)と、同じく五雲のネットワークに連なる美馬の二宮氏とが結びつくことで、絶えかけた祭祀の血脈はギリギリのところで繋ぎ止められたのである。過去に藩を巻き込む大事件を起こし警戒されていた「村雲」の旧姓を完全に捨て去り、公的な神職免許は「麻生」で取得しつつ、在地では有力者である実家の「二宮」姓を名乗るという、状況に迎合した柔軟な適応行動をとることで、彼らはようやく山崎の地での存続を許されたのである。

【孤児からの復権と明治への布石】

翌文政10年(1827年)に正親が急死し、後に残された10歳の息子・秀俊は、親戚の庇護を受けながら天保10年(1830年)に跡目を継承し、のちに驚異的な復権を果たす。時代が明治へと変わり、国学者・小杉榲邨らによる比定調査が始まった時、山崎説を内側から支え、最大の論拠となる「三木家文書」を提示した人物こそが、この不遇な時代を生き抜いた麻生秀俊であった。


第三部 明治期比定問題――学威と在地イデオロギーの激突

十六、明治四年の候補乱立と「忌部神社新設論」の挫折

【国幣中社列格と七社の乱立】

明治2年(1869)、徳島藩は新政府の「修史の詔」による正史編纂事業の開始の声明を受け、明治天皇の勅命として正史編纂プロジェクトを発足させた。これが「阿波国風土記編輯御用掛」であり、その中心となっていたのが国学者の小杉榲邨である。このため、明治政府による近代的な社格制度の制定に伴い、忌部神社が「所在地不明」のまま国幣中社に列格された際、小杉がその所在地調査の特命を担うこととなった。明治4年(1871年)8月、小杉榲邨による所在地調査の報告では、以下の計七社が候補として乱立する状況であった。

小杉は、いずれの社も大社としての決定的な史料的根拠に欠けると判断し、「新地を卜定して新たに同社を新建すべき」という建言(グランドデザイン)を提出している。

【新設案の挫折と事態の膠着】

小杉が新設を求めた背景には、所在不明のままでは国家祭祀運営が不可能であることと、いずれか一社を選定すれば他村の激しい反発が必至であるという現実的な行政課題が存在した。しかし、明治6年(1873年)3月の指令でこの新設案は政府に許可されず、事態は深刻な行き詰まりを見せた。

十七、「山崎説」への転換と『阿波御衣御殿人契約状』

【山崎説の浮上と証拠文書の提示】

新設案が暗礁に乗り上げたことを受け、小杉は事態打開のため、明治6年(1873年)に「山崎村ノ神社ヲ以テ本社トスルニ決定ス」という説へと方針を転換する。翌明治7年(1874年)2月、小杉が教部省へ提出した意見書において、「不可抜ノ証文(決定的な証拠)」として採用されたのが、「三木家文書」のうちの『阿波御衣御殿人契約状』(正慶元年・1332年)。この文書には、御衣御殿人十三名による寄合の掟や多数決の原則が記されている。

【「山崎の市」の記述と政府の公式認定】

小杉が最も重視したのは、結びに「会合二月廿三日やまさきのいち(山崎の市)、九月廿三日いちを定むべきもの也」と記された箇所であった。阿波忌部の子孫が寄合を開く「山崎の市」の存在こそが、山崎村に忌部神社があった動かぬ証拠であるという論理である。これに対し貞光村の折目義太郎らから異論が出されるなど論争は続いたが、小杉が提出したこの文書を最大の根拠として、明治7年(1874年)12月、大政大臣・三条実美の名において「麻植郡山崎村鎮座天日鷲社」を旧忌部神社と認める政府の公式決定が下された。

【祭祀権の吸収と国家管理の徹底】

しかし、この認定は在地神官にとって手放しの勝利ではなかった。明治8年(1875年)の祭典において宮司に任命されたのは麻生秀俊ではなく、旧藩主の連枝である「蜂須賀隆芳」であった。蜂須賀隆芳は、単なる旧家臣ではなく、11代藩主・蜂須賀治昭の孫にあたる「公族(藩主の親族・一門)」という極めて高位の血筋を持つ人物である。この血縁の事実は、在地神官が長年守り抜いた由緒が国家認定を勝ち取った途端、神社の実権は国家(旧大名家)の管理下へと完全に吸収されたという歴史の皮肉を、さらに生々しく裏付ける要素となる。ここから、以下の重要な歴史的構図が読み取れる。

・藩主・治昭との因縁: 隆芳の祖父である11代藩主・蜂須賀治昭は、江戸後期の忌部公事において長谷川家を改易し、最終的に種穂神社の中川(早雲)氏を罷免して在地祭祀の権力構造を再編した当事者である。その治昭の直系子孫が、明治に入り国家認定された忌部神社の頂点に立ったことには、旧領主による在地宗教統制の連続性がうかがえる。

・「国幣中社」の政治的重量: 政府公式認定を受けた忌部大社のポストは、もはや一村落の神官(麻生秀俊など)の手に負える規模ではなく、国家祭祀を担う巨大な権威となっていた。政府および旧大名家は、蜂須賀氏の最上層部である公族を宮司として直接送り込むことで、在地の信仰を上から強力に国家体制へと組み込んだと言える。

・在地神官の限界と権力の回収: 山崎陣営が『三木家文書』などを駆使し、血を吐くような努力で正統性を勝ち取ったにもかかわらず、その最大の果実(神社の実権)は、圧倒的な血脈と政治力を持つ蜂須賀氏一門によって即座に回収された。

蜂須賀隆芳という「正統を継ぐ大物」が配置された事実は、明治政府と旧特権階級がいかに忌部神社の由緒を重要視し、それを在地から切り離して国家管理下に置いたのかという、近代化における冷徹なプロセスを如実に示している。

十八、三木家文書の史料的評価――「真実」の書面化と自己防衛

【契約状の物理的・社会的矛盾】

ここで、小杉の考証の最大の根拠となった『阿波御衣御殿人契約状』の史料的価値について厳密に整理しておく必要がある。古文書学の観点から、この文書には「大坂半六」といった時代錯誤な名称が含まれていることが指摘されており、18世紀末(近世後期)に作成された「偽書」であることは歴史的事実として明確に断定されなければならない。契約状の作為性を決定づける最大の矛盾は、その「集会の頻度」と「儀式の実態」の圧倒的な乖離にある。天皇一代に一度という極めて稀な大嘗祭の麁妙調進のために、十三人の御衣御殿人が「毎年二回」も定時に集まり、多数決のルールや追放といった厳格な取り決めを継続的に確認し合うというのは、神事実務のスケールとして明らかに不自然である。

【在地ギルドの掟の投影と機能主義的アプローチ】

しかしながら、歴史学的な機能主義的アプローチに立てば、この文書は史料的価値を欠く捏造文書というわけではない。文書に記された「十三人の集団」と厳格な掟は、日常的・継続的な商取引を行いカルテルを維持していた中世〜近世における和紙の生産・販売等の「在地ギルド」のリアルな生活実態・ルール(寄合の掟)そのものが投影されたものと解釈できる。13人の御殿人が連署したとされる南北朝期の契約状には「毎年二月と九月の二度山崎で市がひらかれるときに寄合を開き評定をおこなう」とある。しかし山崎村(とりわけ西久保周辺)は、単なる一村落ではなく、江戸期を通じて吉野川水運と山間部を繋ぐ物流の基点として機能しており、近世末には麻植郡の和紙を統制・検査する「紙役所」も置かれた交通と経済の要衝であった。これらの文書に記された「山崎の市」や集会の掟は、中世からの純粋な忌部神信仰の集会を示すものではない。むしろそれは、江戸期において三ツ木村の和紙生産・販売従事者たち等が、物流の要衝である山崎を舞台に展開し、川田村の種穂社のもとに結成していた「講集団(在地ギルド)」の実体的な経済活動・結束・特権を、そのまま過去へ遡らせて正当化するために再編されたものである。小杉榲邨が絶対の証拠とした記述そのものが、実は戦乱を生き延びた山の民が自己防衛のために生み出した「真実の書面化」であった可能性が高いのである(なお、彼らがなぜこれほどの由緒書を創出する必要に迫られたのか、その根底にある経済的危機については第四部で詳述する)。

【補足考察:共有文書の私物化と由緒創出のメカニズム】

丸山幸彦氏らの実証研究を踏まえても、決して『三木家文書』のすべてが偽書というわけではない。本稿で偽書と断定するのは、あくまで『阿波御衣御殿人契約状』に代表される忌部の由緒に関わる文書群であり、これらが江戸時代に創出・再編されたものである。その一方で、天正13年(1585年)に蜂須賀氏から出された確実な実務史料である感状の宛名が「みつき・かし原 名主百姓中」となっている事実は極めて重要である。ここで同時代の別の史料と交差検証すると、残酷な事実が浮かび上がる。同じ天正13年に阿波国人一揆の鎮圧で功績を挙げた川田村の住友家の記録には、「住友彦兵衛」「伊沢志摩」と明確に個人の家名が記されているのである。この強烈な対比は、当時「三木」という特権的氏族が公認されておらず、彼らが単なる「村の農民代表」に過ぎなかったことを決定づけている。元々は村落の「共有財産(惣有文書)」であったものを、のちに庄屋として台頭した一族が「家伝の文書」として私物化し、そこに江戸期になって作成した忌部関連の由緒書を巧妙に混入させることで、全体として真正な古文書群であるかのような強固な権威(神話)を獲得していったのが実態である。

十九、細矢庸雄の登場――大社祭祀の自負と権威防衛の論理

【大社の威容を知る者の義憤】

のちに貞光陣営へ強力な理論的支柱として関与することになる讃岐の神職・細矢庸雄(ほそやつねお)の存在と、初動の動機について触れておかなければならない。細矢は安房国一宮(安房神社)、阿波国一宮(大麻比古神社)、讃岐国一宮(田村神社)といった、名だたる国幣中社以上の大社を渡り歩き、初めはその宮司や神職を歴任してきた第一級の神道知識人である。大社の持つ圧倒的な威容と厳格な祭祀の伝統を知る細矢にとって、明治7年の「山崎説認定」は到底容認し難い事態であった。

【正統性へのこだわりと対抗意識】

形式的矛盾を内包する由緒書を最大の根拠として、自らが仕えてきた名神大社と同格以上の権威を持つ「忌部大社」の称号が山崎に与えられたことは、細矢の神職としての矜持に反するものであった。さらに、山崎説を強力に推進した小杉榲邨は、細矢から見れば新進の後輩学者に過ぎない。新政府の権威を背景にした新進の学者と傍流の陣営が、不自然な文書を盾にして神聖な正蹟を決定づけたことに対し、神道界の重鎮を自負する細矢ら旧特権層の間には、「忌部の正統性を渡さない」という強い権威防衛の論理と対抗意識が存在していたと推測される。

二十、貞光側の反撃と政治問題化――国家との対峙と再調査

【国政レベルへの闘争のエスカレート】

明治7年に山崎説が公式認定された後も、本宗家を自負する貞光陣営(村雲義直ら)は決して引き下がらなかった。山崎忌部神社のトップがすでに国家の威信を背負った「宮司・蜂須賀隆芳」に置き換わっていた以上、旧来の村落レベルの陳情では太刀打ちできない。彼らは必然的に「忌部郷人民惣代」という公的な大義名分を掲げ、東京在住の折目栄ら有力者を動員し、国政レベルでの総力戦を展開したのである。折目氏がこれほどの総力戦を展開できたのは、彼らが貞光において「小高取」としての特権を持ち、強大な資本と政治ネットワークを有する「西の巨大パトロン」であったからに他ならない。

【反撃の物証と細矢庸雄の理論武装】

貞光側は、『阿陽記』の郡境変更説、『麻殖氏系譜』、永録年間の「天日鷲尊四国一宮」の棟札などを物証として提示した。この論争において貞光陣営の強力な参謀となったのが、前述の細矢庸雄である。細矢は自らの該博な神道知識を駆使し、貞光の神社こそが真の忌部大社であるとする分厚く精緻な建言書を作成・提出し、山崎説への学術的批判を展開した。

時を同じくして、三木家文書の所蔵者である三木貞太郎が、県に対し「三木家文書の契約状は贋造である」とする自首書を提出するという決定的な事態が生じる。小杉榲邨は後年、これを細矢や折目氏らによる計略であると非難しているが、細矢が直接自首工作に関与したという客観的な確証は史料上に存在しない。しかし、細矢が構築した強固な理論武装が貞光陣営を勢いづけ、結果的に山崎説を崩壊させる社会的圧力として機能したことは歴史的事実である。

【再調査と政府決定の覆り】

明治13年(1880)4月16日、小杉は東京裁判所より出頭命令を受けて尋問に応じ、同年9月4日、貞光村代表の折目栄が同席する前で、加藤恒判事より「正慶元年十一月付の契約古文書が贋造である」旨の宣告を受けた。小杉の反論の意見書は採用されなかった。この「自首書」によって最大の証拠が崩壊したことを重く見た国は、同年10月10日に再調査を決定した。

実はこれに先立つ明治12年(1879)10月の段階で、高知県の答申に基づき内務省地理課は山崎村説を否定する見解を示していた。そして明治13年(1880)4月、内務省の井上真優らが徳島県へ赴き実地調査を行い、美馬郡西端山吉良名が地形的観点から大社の古跡に該当すると推断した。さらに古筆見(江戸時代から続く国家公認の古文書専門鑑定家)の了仲および了悦の鑑定によって三木家文書の契約状は正式に「偽物」と判定され、逆に貞光村の古文書は真筆であるとの鑑定が下された。近代的な科学鑑定が存在しなかった当時、古筆見による判定は国家における事実上の最終宣告であった。かくして明治14年(1881)1月7日、政府の決定は覆り、西端山吉良名の御所平神社(五所平神社)が忌部神社の所在地として決定された。山崎村側からの追願は県知事より「詮議に及び難し」と却下されたのである。

二十一、在地社会の均衡破壊と同族間対立の激化

【地域社会の均衡破壊と正統性への執着】

江戸時代末期、吉野川流域の各社は忌部公事という過去の抗争を経て一定の棲み分けを保っていた。しかし、明治という新時代に中央政府が「国幣中社」という絶大な権威を背景に「単一の正蹟」を定めようとしたことが、地域社会の微妙な均衡を完全に破壊した。本宗家を自負して過酷な弾圧を耐え抜いてきた貞光の村雲氏からすれば、過去の公事において旧姓を隠し新体制に適応した傍流陣営(山崎の麻生氏)が、新進の学者と結託して正統性を主張することは、祭祀を巡る道義的観点から到底許容できるものではなかった。明治の比定騒動の本質は、単なる由緒の考証ではなく、本物の支族たちが国家の枠組みによって分断され、正統性を賭けて争わされた同族間における祭祀権の最終的な争奪戦であったと定義できる。

二十二、「文書闘争」への転換と種穂神社の脱落――中川清暁の活動

【武力の喪失と文書闘争へのパラダイムシフト】

ここで、明治の比定騒動がなぜ実力行使ではなく、精緻な由緒書や偽書をも辞さない熾烈な「文書闘争」となったのか、その根本原因を押さえておく必要がある。前述の通り、寛政期における長谷川家の改易と在地家臣団(原士)の身分低下により、五雲の末裔たちはかつての「武力と恐怖による支配」という絶対的な軍事的抑止力を完全に喪失した。暴力装置を奪われた彼らが、近代的な法制度(藩や明治国家)の前で正統性を守り生き残るためには、その手段を「物理的な力」から「知(古文書や由緒書といった客観的証拠)」へと強制的にパラダイムシフトさせざるを得なかったのである。

【種穂神社の脱落と頭脳の流出】

このパラダイムシフトこそが、江戸期の忌部公事において最大の勝者であったはずの川田村・種穂神社が、明治の最終的な比定争いから事実上身を引く(脱落する)結果となった最大の理由であると考えられる。寛政13年(1801年)の中川氏罷免により、川田村で特権を失った旧・早雲(中川)氏の系譜に連なる「中川清暁(なかがわせいきょう)」らは、かつて寛保年間に共に上京した旧盟友である貞光の宮内陣営を頼り、美馬郡へと移住してしまった。「高度な知識と由緒書編纂のノウハウを持つ頭脳」を失った種穂神社には、文書闘争の時代において、山崎陣営が提示したような強力な由緒を新たに創出・理論武装できる人材がもはや残されていなかったのである。

【『忌部神社旧記』の編纂と「敵の敵は味方」の論理】

一方、美馬郡へ移った中川清暁は、長年藩の要要人と渡り合ってきたその卓越した「知力」を貞光陣営に提供し、貞光説(吉良名説)を理論武装する『忌部神社旧記』という精緻な由緒書を書き上げた。ここで見落としてはならないのは、清暁がそれまで直接的な関係の薄かった貞光社の応援に回った「真の動機」である。江戸時代の忌部公事において、川田(早雲・中川氏)と山崎(村雲・麻生氏)は、単なる由緒論争を超えて、暴行致死や神社の焼き討ちまで引き起こした血みどろの宿敵同士であった。寛政の政変で特権を失った後も、中川氏の骨の髄には山崎に対する激しい怨念と対抗心が刻み込まれていたはずである。明治を迎え、新進の学者(小杉榲邨)の後押しによって、憎き山崎側が由緒書を盾に「忌部大社」の栄誉を独占しようとしていた。清暁にとって、これだけは絶対に阻止しなければならない最悪のシナリオであった。しかし、本拠地で実権を失った中川氏には単独で山崎を覆す力はない。そこで彼が目をつけたのが、豊富な資金力とネットワーク(折目氏など)を持ちながら理論武装に欠けていたもう一つの対抗馬「貞光陣営」であった。つまり、清暁が貞光陣営の参謀として暗躍したのは、純粋な貞光への肩入れなどではなく、「敵の敵は味方」の論理に基づき、憎き山崎の勝利を粉砕するために仕掛けた最も強烈で合理的な復讐戦(文書闘争)であったと言える。明治の比定騒動とは、単なる中央の学者と村人の学術論争ではなく、江戸時代から延々と続く在地神官たちの怨念と権力闘争の最終決戦であったという、極めてドラマチックで重層的な裏面史がここに立ち現れる。

二十三、「大社の幻想」と歴史の皮肉――グランドデザインへの回帰と安堵

【論争の泥沼化と新設による強制決着】

しかし、政治問題化した忌部神社の所在地論争は、これでも終結しなかった。一時的に忌部神社の座を射止めた貞光の「御所神社」も元は地域の信仰の場に過ぎず、古代の名神大社であるという決定的な実体を何一つ持っていなかったためである。行き詰まった政府に残された選択肢は、かつて小杉榲邨が明治4年に主張していた「忌部神社の新設」による打開するほかなかった。最終的に明治18年(1885)11月、太政大臣・三条実美および内務卿・山縣有朋より「阿波国名東郡富田浦町ヲ以テ社地ト被定候」「旧跡所在五所神社は社殿修造其儘保存スベシ」とする通達が発出された。国幣中社としての本殿は徳島市の眉山麓(富田浦町・現在の二軒屋周辺)へ全く新しい忌部神社として新設されるという強制決着を迎えたのである。当初、自らの尽力が水泡に帰したうえに裁判所で文書偽造の糾問を受けたことを怨嗟していた小杉であったが、この新社地への決定が自身の明治4年の建言である「山野の不浄に触れざる一浄地での官祭」に完全に合致する「神慮」であったと悟り、深い後悔と納得とともにこの結末を受け入れたのであった。

【終わらぬアイデンティティの渇望――昭和期の奉還請願】

当初、この新設移転の決定によって論争は行政的な強制決着を見たかに思われたが、在地住民の心情において問題は全く解決していなかった。貞光陣営にとって、名神大社としての地位を剥奪され、県都へ社地を移されたことは、郷土の誇りとアイデンティティの喪失を意味していたのである。その不満は水面下で燻り続け、ついに昭和10年(1935年)1月、貞光町長・端山村長・一宇村長の連名により、徳島市の忌部神社を「由緒正しき美馬郡西端山吉良名御所平へ奉還御鎮座」させることを求める強烈な請願書が提出されるに至った。この請願書には、転社への感慨が無量であり「朝夕断腸の思い」であるという、切実な痛切さが綴られている。中央政府のグランドデザイン(新設)は制度上の決着には成功したが、祖先から受け継いできた「忌部」という血脈と信仰のルーツを渇望する阿波の人々の激しい愛郷心を、完全に鎮めることはできなかったのである。

【最初の解決策への回帰】

小杉榲邨はその後、帝国大学教授、文学博士、帝国学士院会員という明治学界の重鎮へと登り詰めていった。彼が構想したグランドデザインは、在地にとっては複雑な歴史の再編であっても、中央政府から見れば国家の祭祀秩序を示す成果として評価されるものであった。十数年の泥沼の政治闘争を経て、歴史は皮肉にも、小杉が最初に見抜いていた最も現実的な解決策へと回帰したのである。

二十四、荒妙調進への道――由緒の構築から「伝統」の確立へ

【技術断絶の困難と実業技術の総動員】

その後、三木家は、実際に大嘗祭における荒妙調進の大役を担うことになるが、そこには未知の困難が待ち受けていた。由緒の継承と技術の継承に断絶があったため、実際に「本来の麻布を織れ」と求められた段階になって、具体的な古代の製法を復元するにあたり大変な苦労に直面したと考えられる。しかし、彼らが長年にわたり穴吹川流域や川田の地で培ってきた楮(こうぞ)の栽培・加工・製織の実業の技術は確かなものであった。古代の麻の精製技術の完全な再現が難しかったとしても、地元に根付いた高度な加工技術を総動員することで、国家の儀式にふさわしい白く清浄な布を創り出すことは可能であった。

【神聖な伝統としての確立】

実態としては古代技術の直系というより、近世・近代における高度なローカル技術の応用であったとしても、それが宮中の大嘗祭という場で結実したことにより、存続を懸けて構築された独自の由緒主張が、県や地域社会を巻き込んだ総力戦の末に、揺るぎない「神聖な伝統」として歴史のなかに公的に確立されていくことになったのである。

【抗争の果ての和解と継承――現代への系譜】

なお、明治期に忌部神社の宮司職を蜂須賀氏に奪われる形となった二宮氏(麻生氏)の系譜は、その後も阿波の祭祀から消え去ることはなかった。平成の大嘗祭に伴う麁服貢進出発式においては、二軒屋の忌部神社(門家祢宜)を斎主とし、かつての因縁の宿敵であった早雲氏の末裔とともに、二宮氏(二宮正経氏)が祭員として同じ神事に奉仕している。二宮氏もまた、元を辿れば早雲氏らと仲間として麻植や美馬の神事を共に担った「五雲」の連なりであったのかもしれない。現在、同氏は美馬市に鎮座する倭大国魂神社の宮司などを務め、阿波の古代史と地域の伝統祭祀を静かに守り継いでいる。数百年に及ぶ血みどろの抗争を経て、かつて正統性を巡って相争った同族の末裔たちが、国の重要祭祀の場で一つの祭壇に並び立ったその光景は、創出された由緒が時を経て真の「伝統」へと昇華し、本来の同志としてのルーツへと回帰した静かなる到達点と言えるだろう。


第四部 三木家とは ―― 由緒創出と継承の系譜学

二十五、四大ブロックの完全マトリックスと在地資本――「五雲」と巨大インフラの正体

三木家の由緒創出の真実を解き明かすためには、彼らが単なる一村落の孤独な名主ではなく、阿波の山岳地帯から吉野川本流に至る巨大な宗教・物流ネットワークの「中核的なピース」であったという構造を理解する必要がある。その鍵となるのが、「忌部五雲(早雲、村雲、岩雲、花雲、飛雲)」と呼ばれる在地神官ネットワークと、彼らを裏で操り、実体経済を支配していた「巨大な在地資本(パトロン)」との完璧な結びつきである。彼らは戦国の特務機関(修験者)のDNAを受け継ぎ、江戸時代には阿波の山河を四つのブロックに分割統治する「巨大なカルテル(インフラ)」へと姿を変えていた。

① 心臓部・木屋平の「二重構造」と早雲のルーツ

すべての始まりであり、最大の資源生産地である南の最深部「木屋平」。ここは単一の権力者が支配する領域ではなく、極めて精緻な「二重構造」によって統治されていた。

② 早雲の「川田進出」と巨大資本・住友家との結合

ではなぜ、木屋平発祥の早雲氏が、はるか遠く離れた平野部の川田(西の要衝)で突如として絶大な権勢を誇ることになったのか。それは、実務家・三木家が産み出した莫大な山の資源が、水運に乗って吉野川最大の物流拠点「川田の市」へと流れ込むという、強固な【経済の動脈】が存在したからである。早雲一族は、三木家の資源物流ルートを宗教的・軍事的に守護するため、あるいは吉野川本流の利権を直接掌握するため、三木家の「最前線の先兵」として山を下り、川田へと進出したのである。そこで彼らを強大にバックアップしたのが、川田の巨大資本であり物流の元締めである「住友家」や「原田家」であった。生産(三木家)→ 流通・祭祀(早雲)→ 資本(住友家)。この完璧なサプライチェーンが完成したことによって、早雲氏は川田の地で他を圧倒する権力を手に入れたのである。

③ 東のゲートウェイと、中央の結節点

この三木・早雲・住友の西側ラインに対抗するように、他の五雲もそれぞれの巨大資本と結びつき、完璧なマトリックスを形成していた。

二十六、忌部公事の真の姿――巨大インフラ同士の「代理戦争」

こうして見ると、江戸時代に半世紀以上にわたって繰り広げられた「忌部公事」の真の姿が浮かび上がる。それは決して、田舎の神官たちが神社の古い由緒(ブランド)を巡って意地を張り合っただけの単純な名誉争いではない。

水面下で木屋平の三木家(忌部の記憶と情報)と繋がり、住友家の強大な資本を背景に物流の覇権を握ろうとする【川田の早雲陣営】。それに対し、奥山からの独自のルートを持ち、折目氏らの巨大資本を背景に本宗家の矜持を守ろうとする【貞光の村雲陣営】。

忌部公事とは、阿波の山河の経済と物流を分割統治していたこれら「巨大な在地インフラ(パトロン)」同士が、お抱えの神官(五雲)を理論的・宗教的な武器として前面に押し出し、国家が用意した『忌部大社』というたった一つの免税特権(黒印地)と利権の椅子を巡って激突した、血みどろの「在地資本の総力戦(代理戦争)」であった。

その激しい戦いの裏側で、山の奥深く(木屋平)に留まった三木家は、表舞台の争いに直接手を下すことなく、沈黙を守りながら中世からの文書(太政官符など)を蔵の奥底で確実に保全し続けた。やがてその秘匿された「情報」が、明治という新時代において、国家をも動かす最強の武器(由緒)として火を噴くことになるのである。

二十七、戦国期の十九坊と三好氏支城ネットワーク――軍事特務機関としての修験

五雲などの在地神官ネットワークの源流を探る上で欠かせないのが、戦国期に存在した「十九坊(念行者)」の広大なネットワークである。天文21年(1552年)に作成された『阿波國念行者條驗道法度之事』(川田村夏蔵院所蔵)には、阿波国内の修験者たちを統制する厳格な掟が記されている。この法度の宛名や署名には「矢野千秋房」「一之宮岡之房」「河田下之坊」などの寺坊名が連なっている。

ここで注目すべきは、これら十九坊の拠点が、畿内を席巻していた三好氏を支える阿波の有力国人の居城と完全に一致している点である。「矢野千秋房」の背後には矢野城主(矢野国村)、「一之宮岡之房」の背後には一宮城主(一宮成助)、さらに吉野川中流域の川島城や岩倉城周辺に至るまで、修験の拠点は三好氏の支城ネットワークと強固に結びついていた。法度には「此人数何様の儀出来候共、注進次第に持飯米にて可打寄事(いかなる事態が起きようとも、緊急の注進があれば各自兵糧を持参して参集せよ)」という軍事動員の規定が記されている。

三好氏は畿内の中央での戦いが不利になれば即座に阿波へと兵を引き上げ、態勢を立て直しては再び大軍団で京へ攻め入るという、極めてしぶとい戦術を展開した。この驚異的な機動力と軍事展開を裏で支えていたのが、十九坊のような修験者のネットワークである。彼らは「熊野代参」などで培った強固な宗教的パイプを活かして畿内の情報収集に暗躍し、紀伊の強力な鉄砲傭兵集団である「雑賀衆」を三好軍に引き入れるなど、「影の力」として三好軍団のロジスティクスと特務工作を担っていたのである。のちに三木家が、険しい山々を越えて和紙や木材を自在に流通させ、大坂商人とも渡り合うほどの圧倒的な「物流と情報伝達のノウハウ」を持っていた背景には、単なる農民の知恵にとどまらない、こうした戦国期の特務・修験ネットワーク(山のロジスティクス)のDNAが色濃く受け継がれていたと考えるのが極めて自然である。

二十八、忌部公事期における「五雲」の神社掌握の実態――武力から祭祀権力への転生

戦国末期、長宗我部氏の阿波侵攻によって三好氏の支城ネットワークは崩壊し、特務機関としての修験ネットワーク(十九坊)も壊滅的な打撃を受けた。しかし、彼らは決して消滅したわけではなかった。彼らは危険な武力を捨て去り、「神職」という宗教的役割に特化することで、江戸時代に「忌部五雲」として見事に復活を遂げる。

忌部公事が本格化した江戸時代中期、彼らが前述した広域ネットワークにおいてどれほど強大な祭祀権力を実際に握っていたかは、『寛保三年 神社改』の記録などに克明に示されている。かつて軍事拠点で暗躍した者たちの末裔は、江戸時代には各エリアの主要神社の宮司・禰宜として広大に現出していた。例えば、西の要衝・川田では「早雲氏」が八幡宮や白人大明神、論争の火種となった種穂忌部神社などを管轄し、南の木屋平では「岩雲氏」が新八幡宮や妙見宮などの在地祭祀を完全に掌握していた。また、中央の貞光・山崎では「村雲氏・飛雲氏」が御所神社や王子権現を拠点とし、東の鴨島周辺では「花雲氏」の系譜が平野部への出口の祭祀を担っていたのである。

このように、五雲は単なる一村落の寂れた神官などでは決してなかった。彼らはかつて三好氏の諸城と結びついて阿波を裏から支えた特務ネットワークのDNAを受け継ぎ、吉野川流域から四国山地深部に至るまでの主要神社の祭祀権を面的に独占する、巨大な宗教的カルテルへと成長していたのである。

【神の山「木綿麻山」と絶対的聖域「剣山」を巡る天空の道】

貞光川流域の宮内地区に残る「飛雲」の墓石が示唆する機能は極めて重要である。彼らが拠点とした貞光の背後にそびえる山は、現在は「友内山」と呼ばれるが、古来は「木綿麻山(ゆうまやま)」と呼ばれ、忌部の大神が住む山として神聖視されてきた。「友内神社」という名称自体は後世の新しい呼び名であり、『忌部神社正蹟補考』に「本社友内宮忌部社頭也」と記されるように、本来の忌部神社の中核は木綿麻山の山頂(現在の奥の院)にあり、中世には阿波守護・小笠原家の崇敬社や管領細川頼之の神領として絶大な威容を誇っていたという。この神聖な木綿麻山での古来の祭祀を担い、山頂の聖域から奥地へと続く道を守護する神官層こそが「飛雲」であったと推測される。

この木綿麻山は、東に木屋平へ通じる穴吹川、西に一宇へ通じる貞光川という二つの重要水系を両側に見下ろす絶好の尾根に位置している。戦国期の動乱において、忌部大宮司・麻植景光が「内山を守れ」という悲願を遺し、村雲氏らを退避させた伝承があるが、それはこの木綿麻山(内山)を二大水系を監視できる絶対防衛ラインとして死守せよという決断だったのである。しかし長宗我部氏の兵火の後、阿波に入った蜂須賀氏は、忌部の強大な権威が復興して広大な旧神領の返還を求められることを嫌い、山名を「友内山」と呼ばせたり関連遺跡を分散させるなどして、その痕跡を巧妙に隠蔽したという伝承が残っている。公権力によって由緒を分断された飛雲は表舞台から姿を消し、木綿麻山から奥地へと連なる急峻な高地集落を結ぶ尾根道(天空の道)の密かな管理者として生きる道を模索したのである。

霊山として名高い高越山は、すでに熊野に連なる別の強大な修験者層が確固たる勢力圏を築いていた。そのため、五雲のネットワークは高越山の中枢と直接衝突することを避け、早雲が川田(高越山の登り口と水運)を押さえる一方で、飛雲は友内山から連なる「天空の道」という独自の高地物流・情報ルートを開拓し、そこを管轄した。この天空の道は、天岩戸伝承や忌部神楽が色濃く残る「一宇(いちう)」の地を通って四国第二の高峰・剣山(つるぎさん)方面へと向かう、極めて神聖かつ長大な修験・物流の道であった。しかし、剣山そのものは忌部の者であっても安易に登ることのできない絶対的な神山であった。そこには独自の先達(せんだつ)を持つ別の信仰講が存在しており、登拝者は何日もの行程と厳格な禊(みそぎ)を経てようやく辿り着くという、隔絶された不可侵の聖域であった。そのため飛雲や岩雲のネットワークは、剣山の頂そのものを直接支配するのではなく、剣山の手前から小島峠を越えて秘境・祖谷(いや)へ通じる西のルート、東側の木屋平から川井を経由して大粟山のある神山方面へと抜けるルート、さらには木屋平の最深部から剣山の頂を迂回して龍光寺を経て那賀奥(なかおく)へと続く南のルートなど、絶対的聖域(剣山)を取り囲むように四国山地を縦横に貫く巨大な山岳バイパス網を形成していたのである。

【ネットワークの深層と森遠の謎――もう一つの物語への扉】

この強大で合理的なネットワークが、いつ、どのようにして形成されたのか。その深層を紐解く手がかりは、史料の空白にではなく、阿波の山河そのものに静かに残されている。

たとえば、平野部の川田で巨大資本と結びつき、絶大な権勢を誇った「早雲氏」であるが、彼らの先祖の墓はそこから遠く離れた木屋平の深山、「森遠(もるとお)」の地にひっそりと佇んでいる。そしてそのすぐ近くには、かつて源平の争乱から退避した在地権力(田口氏系勢力)が拠ったとされる「森遠城」の跡が残る。

彼らが、歴史の表舞台から消えた旧在地権力の直接の末裔であると断定するだけの史料はない。しかし、平野部で成功を収めた神官一族の魂のルーツが、なぜ忌部の最深部であり、かつて敗残の武士たちが命がけで潜伏した山奥に置かれているのか。

その答えは、彼ら早雲氏の発祥の地である木屋平に、江戸時代を通じて確固たる一族が残り続け、長きにわたり在地祭祀を守り抜いていたという事実にある。この三ツ木・樫原における早雲氏の確かな存在は、後世の伝承などではなく、一次史料である神社の棟札によって明確に証明されている。樫原明神社の享保元年(1716)の棟札には「早雲但馬守春久」、さらに文化3年(1806)の棟札にも「早雲松太夫・同但馬太夫・同大隅太夫」という具体的な神官名が刻まれており、彼らがこの地で代々神職を世襲し、三木氏の領域に深く根を下ろしていたことは疑いようのない歴史的事実なのである。さらに彼らの血脈は現代へと至り、平成の大嘗祭においては早雲寛氏が祭員として現れるなど、その祭祀の連なりは決して途絶えることはなかったのである。森遠の地に先祖の墓を置く彼らが名乗る「早雲」の「早」の名は、まさに五雲の中で一番早くに起こった一族の先祖(総元締め)であるという意味を示唆しているのではないだろうか。

もしかすると彼ら「五雲」の正体は、戦乱を生き延びた山の在地勢力が、数百年という途方もない時間をかけて平野部への帰還を果たし、生き残るために「忌部」という最強の権威のベールを纏った姿であったのではないだろうか――。確かな証拠こそないものの、森遠の墓石と城跡、そして木屋平に刻まれた早雲氏の確かな系譜は、阿波の歴史の裏側に張り巡らされた壮大なサバイバルの物語へと、私たちにそんな思いを馳せさせてくれるのである。このように、阿波全土を覆う神官・修験の巨大なネットワークと、それを裏で支える強大な在地資本という「表裏一体のインフラ」。巨大なネットワークの中にありながら、三木家自身が治める足元の領地(三木名)は極めて小さかった。この重層的な土壌と足元のアンバランスさの中にこそ、一族がしたたかに生き抜き、ややがて国家をも動かす由緒を創出し得た「真の源泉」が存在するのである。

二十九、三木家の真骨頂――「山の民・神人」としての自立と徹底した実務主義

【「三木名」の小さな領域と実務家の実態】

前述の通り、木屋平という広大なエリアの中で、三木家が管轄する「三木名」は極めて小さな領域に過ぎなかった。元亨元年(1321年)の下知状には、彼らが広大な領地を支配する領主などではなく、小さな「名(みょう)」の実務を担う番頭であったことを示す記述が並んでいる。しかしその生業は米作ではなく、徹底した「山の特産品の生産・物流」であった。

彼らはこの小さな領域において、材木や後代の和紙原料(楮)、漆などの山の資源を生産し、下流の平野部や商人へと送り出す「実務家」としての側面を持っていた。この実態は、彼らが単一の神社に絶対的に従属する宗教者ではなく、地域の経済を力強く牽引する自立した「山の民(神人的実務家)」であったことを完璧に証明している。

【一揆不参入に見る結節点としての合理性】

天正期の蜂須賀氏入国の際、既存の権益を奪われることを恐れた在地領主たちは激しい一揆(天正13年の阿波国人一揆など)を起こした。しかし、同時代の蜂須賀家政の書状によれば、三ツ木・樫原の百姓たちはこの一揆に一切加担せず、新体制側に協力したことが記されている。負け戦と分かっている武力闘争に加担して家と財産を灰にするなど、実務家からすれば全く無価値な行為である。彼らは極めて冷静に不参入を貫き、新体制に迎合することで自らの生き残りを図ったのである。

三十、渓谷の経済と「山越え」のネットワーク

【水運の困難と山越えの開拓】

三木家の本拠地である木屋平をはじめとする穴吹川流域は、農耕地が限られており、生業の中心は木材と楮(和紙の原料)であった。この環境で一族を養うためには、渓谷の険しいルートを下流の穴吹や川田、吉野川本流へと繋ぐ物流のコントロールを握る必要があった。穴吹川は水量の変化が激しく水運が困難であったため、彼らは険しい峠や尾根道を熟知し、自らの足で荷を運ぶ「山越えのルート」を開拓した。道なき時代において、山並みを自在に行き来できる機動力そのものが彼らの絶対的な強みであった。

【目的と機能による峠道の使い分け――信仰の道と物流の道】

三木氏が川田の市や山崎へ向かう際、単に一本の道を往復していたわけではない。彼らの本拠地である木屋平と吉野川流域(美郷方面)を隔てる山塊には、「燧の窪峠」や「野々脇峠」といった複数の峠道が至近距離に存在しており、実務家としての側面と信仰を重んじる側面を持つ三木氏は、これらを巧みに使い分けていたと考えられる。

参詣・信仰の道(燧の窪峠): 木屋平の三ツ木から美郷の槇山を直線的に結ぶ標高約750m〜780m前後の燧の窪峠(火打が窪峠)は、古くから吉野川流域と木屋平を結ぶ剣山への表参道・参拝道としての性格が強く、多くの行者や参拝客が行き交う信仰のインフラであった。峠にはかつて地蔵堂があり、現在その地蔵は「火打地蔵尊」として麓の真福寺に移設されている。明治末期にトンネル(隧道)を計画したものの崩落事故により完全に放棄され、現在は地図からも消え自然に還った幻の廃道となっている。

実務・広域物流の道(野々脇峠): 一方、美郷・神山・木屋平の三村境に近い標高約800m(現・県道最高地点は約790m〜810m)の野々脇峠は、古道に残る道標の通り、美郷方面だけでなく神山町(北谷)を経由して徳島市内へ抜ける広域ネットワークとしても機能していた。木屋平側には慶応年間から昭和41年まで稼働した「野々脇鉱山」が存在し、林業だけでなく鉱山労働者や物流の拠点として非常に賑わった歴史を持つ。このルートは神聖な参詣道とは異なり、木材や和紙原料、鉱石などの大量の物資を効率的に運ぶ「実務・産業の動脈」としての性格が強く、現在も県道250号が通る車道として機能し続けている。

峻険なる祈りの道(三ツ木〜ホトケのタオ〜尾根道〜高越山経由): 祭祀の前後や、自らの信仰に基づく個人的な移動、あるいは山岳信仰の結びつきを重視する際には、三ツ木から「ホトケのタオ(仏のタオ)」へと急峻な斜面を登り詰め、そこから尾根道に乗って高越山へと向かうルートを選んだと考えられる。修験のネットワークと強固に結びつく彼らにとって、神仏の領域への結界を越え、標高1,000m超の峻険な稜経を経由するこの遠回りのルートを歩むこと自体が、重要な意味を持つ「巡礼」であった。参詣を果たしたのち、この道は高越山参拝路を下り、種穂神社を経由して川田に抜ける道でもあり、美郷や山崎へと至る神聖な道筋として機能していた。

表参道としての燧の窪峠、広域物流を担う野々脇峠、そして高越山へ至る祈りの尾根道。これらのルートを目的や積載物によって明確に使い分け、山の物流と宗教的ネットワークの双方を面上に掌握していたことこそが、在地領主としての三木氏の勢力拡大と強固な由緒形成の源泉であった。

三十一、経済的危機と由緒の結実――女性たちと天田家による再興の決断

【実体経済の危機と庄屋役の剥奪】

広大なネットワークの要を担い、徹底した実務主義によって在地を掌握してきた三木家であったが、彼らが由緒の主張(証文の創出)へと大きく傾斜していく背景には、一族の存亡を懸けた絶体絶命の経済的・政治的危機があった。江戸初期から前期にかけて、阿波山間部における和紙生産と林業の実体経済を握り、大坂商人(近江屋金兵衛など)とも渡り合うほどの権勢を誇っていたのは分家とされる「天田家」であり、本家である三木家自身の当時の経済的実態は不明な点が多い。そのような中、17世紀の終わりごろに村内で土地取引に絡む不正事件が起こる。監督責任を問われた三木家は、庄屋役とともに夫役免除や藩主御目見えといった身分的特権をすべて剥奪されただけでなく、「三木」という姓を名乗ることすら禁じられてしまったのである。三木家が支配する「三木名」は極めて小さな領域であり、平野部のような豊かな石高を持たなかった。実体経済の基盤が脆弱であった彼らにとって、特権と家名の剥奪は即座に一族滅亡の危機を意味していた。

【由緒書提出以前の身分回復への試み――延享四年の六通の文書提出】

寛政期に女性たちが立ち上がり『伊左衛門後家先祖家筋成行書附』などの由緒書を提出するより半世紀前の延享4年(1747年)、当時の当主であった長左衛門の代においても、過去の6通の文書の写しを藩役人へ提出し、身分の回復(慈悲)を願い出ていた事実がある。その際の陳情書の原文は以下の通りである。

《延享四年の陳情書 原文》
乍恐仕上ル覚
一私儀代々先祖より奉拝領居申候御書六通写仕指上申候。乍恐御慈悲之上被聞召上被下侯は難有可奉、存侯以上
延享四年(一七四七) 卯ノ六月朔日(一日)
麻植郡三ッ木村 長左衛門(印)
下条成助様御手代 松原七兵衛殿

この記録は、特権を剥奪された一族が、後家(女性たち)の代に至る前からも、手元に残された「六通の古文書(御書)」を最大の武器として、粘り強く家名再興と身分回復の機会をうかがっていた実態を示している。

【当主不在と女性たちの叡智による由緒創出】

特権の喪失により経済的にも大打撃を受けた三木家に、さらなる悲劇が襲う。寛政期(18世紀末)において、当主と嫡男が相次いで他界し、家を継ぐべき男性がいなくなってしまったのである。この絶望的な状況下で一族の再興を懸けて立ち上がったのは、残された三木家の「女性たち」であった。彼女たちは、親戚であり庄屋役を引き継いでいた和紙資本の「天田家」から恒太を跡取り養子として迎え、庄屋・天田武之丞を後見人とした。そして、郡代などの諸役人に家名再興への助力を願い出るための「絶対的な歴史的根拠(説明資料)」として、蔵の奥に眠っていた太政官符などの記録を用い、自らの手で『伊左衛門後家先祖家筋成行書附』などの複数の由緒書を作成(創出)したのである。

武力を持たない山の民が、村内の権力闘争や没落の危機から身を守るために選んだ武器は、「情報と権威(文書)」であった。藩主・治昭の時代は、藩祖の神格化や由緒が極端に重視された時代である。彼女たちは、かつては単なる「古い記録」であった太政官符が、この時代においては一族を救う「公的な特権の証明」になり得ることに気づき、自分たちを「朝廷直結の神聖な忌部一族」としてプロデュースしたのである。実体経済の基盤が崩壊する中、女性たちとスポンサー(天田家)が中心となって家伝の歴史を再編・体系化し、新たな由緒の公認を求めて立ち上がったその姿からは、家名を守り抜こうとする強烈な執念と深い叡智が浮かび上がる。

【史料提示:『伊左衛門後家先祖家筋成行書附』】

ここで、寛政9年(1797年)に提出された陳情書『麻植郡三ツ木村伊左衛門後家先祖家筋成行書附』の原文(翻刻)と現代語訳を提示する。読者諸氏には、まずこの原文を直接読み、彼らが何を主張しようとしたのか、そしてそこにいかなる「矛盾」が潜んでいるかを自ら考えていただきたい。

《翻刻》
一、伊左衛門元祖家筋之儀、忌部佐兵衛尉重村と申、元弘・建武之兵乱之節より宮方エ与力仕、軍忠有之、地領種野山之内三ツ木村近郷領知仕、正平年中之頃より在名ヲ名乗、三木佐兵衛尉重村と申由、元祖より弐代目三木太郎左衛門尉より官途仕、太郎左衛門倅帯刀、又左京之進、兵衛尉迄は、先祖之領知相続仕、代々忠切有之候ニ付、綸旨・宣旨被為下置候、其後御国御先祖蓬庵様御入国被為遊候以来、御順国為御代黒部兵蔵様・久代市兵衛様上山迄御越被成候所、仁宇・大粟之百姓共御両人様エ御随不申、非議之働有之趣ニ付、曾祖父三木兵衛尉倅長左衛門義、小家之者共、又は三ツ木・柏原之百姓共召連、上山村エ走向、非議之族共相鎮、御両人様之御供申、兵衛之宅エ御越被成、夫より川田村迄御見送り申上、西川田村住友五郎右衛門先祖之儀も家筋之者ニ御座候ニ付、彼方ニ而御一宿被成、翌日舟ニ而御城下迄御見廻り申上候処、段々骨折之段、御耳ニ相達可申旨被仰聞、在宿仕候処、御先代様より右様之御書翰被為仰附候、其節兵衛尉倅長左衛門被為召出、蓬庵様エ御目見被為仰附、御意被仰出候は、先祖より子細有之家筋ニ候得は、自然御陣等之節は、御用可被召出候、依之先祖身居苗字・大小御赦免被為下置、猶又小家拾八人無役ニ被仰附、并庄屋役義も相勤可申様被為仰出候

《現代語訳》
一、伊左衛門の元祖の家筋について申し上げます。忌部佐兵衛尉重村という者が、元弘・建武の兵乱の節より宮方(天皇方)に与力し、軍忠がありました。種野山のうち三ツ木村近郷を領知し、正平年中(1346〜1370年頃)より在名を名乗り、三木佐兵衛尉重村と称したとのことです。元祖より二代目の三木太郎左衛門尉より官途(官職)に就き、太郎左衛門の息子である帯刀、また左京之進、兵衛尉までは、先祖の領知を相続し、代々忠勤がありましたので、綸旨・宣旨を下されました。
その後、御国(阿波)の御先祖である蓬庵様(蜂須賀家政)が御入国されて以来、順国(領内視察)のため、御代官の黒部兵蔵様・久代市兵衛様が上山まで越えられたところ、仁宇・大粟の百姓たちが御両人様に従わず、非議(不穏)な動きがあるとのことで、曾祖父の三木兵衛尉の息子である長左衛門が、小家(家臣・手勢)の者たち、または三ツ木・柏原の百姓たちを連れて上山村へ向かい、非議の者たちを鎮め、御両人様の供をして兵衛(自身の宅)へお通しし、そこから川田村までお見送り申し上げました。西川田村の住友五郎右衛門の先祖もまた家筋の者(由緒ある家柄)でしたので、その地で一宿なさいました。
翌日、舟にて御城下まで見回り申し上げたところ、「度々の骨折(尽力)の旨、御耳(藩主の耳)に達するよう取り計らう」と仰せ聞かされ、在宿(村に帰っていた)していたところ、御先代様(蜂須賀家政)よりそのような御書簡を仰せ付けられました。その時、兵衛尉の息子である長左衛門が召し出され、蓬庵様(蜂須賀家政)へ御目見えを仰せ付けられ、御意として「先祖より子細(由緒)ある家筋であるから、自然(いざという時・軍陣など)の節は、御用として召し出すであろう」と仰せ出されました。これによって、先祖の身居(身分)・苗字・大小(帯刀)の御赦免を下され、なおかつ小家十八人を無役(諸役免除)と仰せ付けられ、併せて庄屋役も相勤めるよう仰せ出されました。

【『成行書附』に見る由緒の脚色と切実なる実態】

この由緒書には、先祖の三木長左衛門が手勢(小家の者や百姓)を率いて上山村へ向かい、蜂須賀氏入国に反発した仁宇・大粟の百姓らによる一揆を自ら鎮圧し、蜂須賀側の代官(黒部・久代)を川田村の住友五郎右衛門邸まで護衛したという華々しい武功が主張されている。さらに、この功績によって蜂須賀家政から呼び出され、身分や苗字帯刀の許可、十八人の無役(諸役免除)、庄屋役を仰せ付けられたと展開している。しかし、『阿波国徴古雑抄』に残る蜂須賀家政(小六)の同時代の書状と比較すると、決定的な矛盾が露呈する。家政の書状は長左衛門個人ではなく「みつきかし原 百姓中」に宛てられており、その内容は一揆を武力鎮圧したことへの称賛ではなく、単に一揆に加担せず役人に協力した(異心を抱かなかった)ことへの労いに過ぎない。特権を喪失し一族滅亡の淵に立たされていた寛政期の三木家は、郡代へ再興を願い出るにあたり、過去の「一揆への不参加」という消極的な事実を、先祖個人の「並外れた武功」へと大幅に誇張・脚色せざるを得なかったのである。家政からの感状(書状)の宛名が「みつきかし原 百姓中」となっている事実を素直に読めば、天正13年(1585年)の時点において彼らは明確に「百姓身分」であり、この時の協力の功績をもって初めて新領主から「苗字帯刀」を許され、村名をとって「三木」姓を正式に名乗るようになった、と捉えるのが最も自然かつ論理的な解釈である。この文書は、没落したかつての実力者が、家の再興を懸けてどのように自らの「由緒」を再構築し権威をプロデュースしたかを示す、極めて重要な一次史料であるといえる。

【「在名」の自白と「苗字帯刀」の矛盾――さらなる年代操作の可能性】

さらに、この『成行書附』の記述には、彼らが古代から続く忌部の直系ではないことを自ら証明してしまう決定的な「自白」と、時系列の「矛盾」が含まれている。第一に、冒頭で「忌部佐兵衛尉重村」なる人物が、正平年間(1346〜1370年頃)に「在名(領地の名前)」を名乗って初めて「三木佐兵衛尉重村」と称したと記している点である。これは、「三木」という姓が古代から続く神聖な忌部氏の氏族名などではなく、中世に入って「三ツ木村」という在地名から取って名乗ったものであるという事実を、無自覚に告白していることを意味する。

第二に、この「正平年間から名乗った」という年代設定自体も、手持ちの古文書の年代から逆算して可能な限り系譜を遡らせた「年代操作」である可能性が高いという点である。なぜなら、由緒書の後半で彼らは、天正期(16世紀末)の蜂須賀家政入国時の功績によって、家政から「身居苗字・大小御赦免(苗字帯刀の許可)」を得たと自ら語っているからである。中世から連綿と続く武家(在地領主)として「三木姓」を公称していたのであれば、新領主から改めて苗字を名乗ることを「赦免」されるというのは明らかに不自然である。昔から私称として村の名(三木)を名乗っていたことを家政が追認したという解釈も成り立つが、いずれにせよ、特権階級としての「三木氏」が公的に確立したのは蜂須賀入部以降のことであり、それを古代・中世へと無理に接続しようとしたため、一つの文書の中に「正平年間の家名成立」と「天正期の苗字帯刀許可」という修復困難な時系列の矛盾が生じてしまったのである。朝廷直結の古代氏族を自称しながら、その根幹たる家名が中世の地名由来(在名)であると記し、さらにその公認が近世初期であると記してしまうこの矛盾は、彼らの由緒が古代からの連続体ではなく、在地領主(名主層)の実態をベースとして、後世になってから「忌部の神話」を接ぎ木したものであるという本稿の仮説を、史料の内部から強烈に裏付けるものとなっている。

【補足考察:戦火の回避と波及的保全の真実】

三木家が由緒を創出できた最大の理由は、ベースとなる本物の中世文書(土地や年貢に関する公文書)が戦火を免れ手元に残っていたことにある。これが焼失を免れたのは、単に「奥深い山間部だったから」ではなく、長宗我部氏の阿波侵攻に際し、地域の領主(木屋平氏)がいち早く長宗我部側に降伏・臣従したためである。当時の三木氏は軍事的主体ではなく村落の実務管理者(名主層)であり、彼ら自身に寝返りの記録はない。上位領主の降伏によって村落全体が焦土化の標的から外れたという「波及的・受動的な保全」こそが、三木家が史料を後世に伝え、平野部の麻植氏(文書を焼失し没落)と決定的な明暗を分ける要因となったのである。

三十二、一次史料が証明する「特定の氏族名の不在」と在名の自白

【実務文書に見る「三木姓」の不在】

三木家が後世に主張した「古代忌部氏としての連続性」に対し、一次史料は全く異なる実態を提示している。朝廷から阿波国司へ宛てて下された延久二年(1070年)の太政官符には、忌部神に対する祭典の怠慢を咎める内容が記されているが、祭祀の直接の担い手として「禰宜・祝部等」という役職名が記されるのみであり、祭祀を独占していたとされる「忌部」や「三木」といった特定の氏族名は一切登場しない。

さらに、三木家に伝わる中世の実務文書の原文を確認していただきたい。以下は、延慶二年(1309年)と嘉暦二年(1327年)の文書である。

【史料A】勅使神祇権大祐下文(延慶二年・1309年)
《翻刻》
下氏人黒女隠事 右、左方長者行信違乱之上者、於彼黒女者為治部丞友村進有限随所役、諸事任先例無懈怠可致沙汰之状、依勅使執達如件、 延慶二年三月六日 大使左衛門少尉(花押) 勅使神祇権大祐(花押)

《現代語訳》
下達する。氏人の黒女の隠しの事。 右(の件について)、左方長者の行信が違乱(不法行為)を行った上は、かの黒女においては治部丞友村の進め(所属・管轄)とし、限りある(定められた)所役に従い、諸事は先例に任せ(従い)、怠ることなく沙汰(処置・実行)を致すべきである。状(文書の趣旨)は、勅使の執達(命令の伝達)により以上の通りである。(延慶2年3月6日)

《公的な解説》

忌部の氏人黒女が行信に属していたのを行信に不法行為があったため、改めて三木友村の所属と認定したもの。黒女は麁妙の織女であろう。左方長者とは麻殖忌部集団に左右の長者があり、その一方を指すもの。
【史料B】三木名番頭職補任状(嘉暦二年・1327年)
《翻刻》
下す 三本名番頭職事 右於當村番頭職者、以沙弥直達如元所令還住也、有限於御年貢以下御公事等者、任先例勤仕之可随御代官所勘者也、依、下知如件、 嘉暦二年三月十二日 御代官願仏(花押) 御使廣氏(花押)

《現代語訳》
下達する。三本名(三木名)の番頭職の事。 右(の件について)、当村の番頭職においては、沙弥直達(しゃみじきたつ)をもって、元のように還住(復帰)させるものである。 限りある(定められた)御年貢以下の御公事(諸役)等においては、先例に従ってこれを勤め、御代官所の勘(裁定・指示)に従うべきものである。 よって、下知(命令)は以上の通りである。(嘉暦2年3月12日)

《公的な解説》
沙弥直達を一旦排除したが元のように三木名番頭職に復帰させるもの。三木名は種野山に属し荘園にならって名と稱している。直達は三木安村の沙弥名らしく、前号の訴訟事件などで一時処罰を受けていたものか

これらの原文を直視すれば一目瞭然である。延慶二年の文書では、織女の管理が「治部丞友村」へと移管された事実が記されているが、そこには「三木」の姓は見当たらない。続く嘉暦二年の文書においても、番頭職に任命された人物は単なる「沙弥直達」であり、管理する土地が「三本名(三木名)」と呼ばれているに過ぎない。これらの文書が証明しているのは、彼らが「古代から神聖な祭祀を血統で独占し続けてきた一族」ではなく、「治部丞や番頭といった役職に就き、織女の管理や名田の経営を担っていた優秀な中世の実務官僚・在地領主層」であったという、極めて現実的で逞しい実像である。

三十三、公的解説の課題――遡及的記述と由緒の固定化

【一次史料と公的注釈のズレ】

ここでさらに留意したいのは、これらの中世文書に対する現代の公的機関による「注釈・解説」のあり方である。前述の通り、延慶二年の文書には「治部丞友村」、嘉暦二年の文書には「沙弥直達」としか記されていない。しかし、県の解説等ではこれらを「三木氏宛ての文書」あるいは「三木友村のこと」として補足して説明しているケースが見受けられる。

【遡及的記述による歴史的認識への影響】

アーカイブの連続性として、彼らが「のちの三木家の先祖」であることは事実であり、文書整理の便宜上「三木氏関係文書」と分類すること自体は理解できる。しかし、本来であれば「後日、三木と名乗ることになる人物」と注釈を添える方がより正確であろう。結果を知っている後世の視点から「三木氏宛て」と遡及的に記述してしまうことは、歴史的実態の誤認に繋がる懸念がある。なぜなら、その公的な解説を見た一般の人々は、「鎌倉時代にはすでに『忌部三木氏』という氏族が存在し、古代からそのまま連続しているのだ」と解釈してしまう可能性があるからである。

【由緒の補強と歴史記述の課題】

このことは、江戸時代の在地領主が家の再興のために由緒を創出したという事実だけでなく、現代の歴史調査員や公的機関の解説が、意図せずしてその由緒を補強し、一般の認識として固定化させてしまっているという、歴史記述における構造的な課題をも示している。調査員も「名(領地)」から「名字」への変遷という史実と伝承の差異に触れる機会が限られていたか、あるいは便宜的な解説を踏襲せざるを得なかった事情があるのかもしれない。残された本物の一次史料の価値をより適切に評価するためには、後世の由緒や公的な分類という前提を一度横に置き、文書が記された当時の「実務家としての素顔」と向き合う史料批判の視座が求められるのである。

三十四、古文書群の歴史的説得力――実生活と伝承の融合

【世界観の結びつき】

三木家が提示した文書群が持つ最大の力は、「朝廷の公式儀式として麁妙が阿波から献上されていた」という厳然たる事実を示す本物の太政官符と、そこに連なる「独自の由緒書」とが、見事に一つの世界観として結びついている点にある。

【実生活の記録とリアリティ】

さらに特筆すべきは、彼らが神話的な記録だけでなく、年貢の記録や水利の取り決め、神社運営に関わる生々しい実務文書までを大量に保全していたことである。単なる伝承の羅列であれば、後世の学者に疑問を持たれやすくなるが、地域に根ざした確かな生活の記録の中に由緒書が位置づけられることで、文書全体に圧倒的な「リアリティと歴史的重み」が宿ったと考えられる。動かぬ証拠である太政官符を中核とし、一族の歩みを時代に合わせて体系化したこの史料群は、決して表面的なものではない。阿波の厳しい自然と在地社会を生き抜き、尊い歴史の証をどうにかして後世へと手渡そうとした、機能的な編纂作業の結晶と言えるのである。

三十五、『粟の落穂』と国学者たちの受容

【実見と伝承の結合】

江戸後期に成立した地誌『粟の落穂』は、本居宣長の『玉勝間』の説を引いて太布を「穀(コウゾ)の皮から織られた布」と捉え、天保13年の祖谷山での実見を交えながら考証を進める一方で、「麻植郡三木村の三木氏が所蔵する古文書(四十余通の官符)に、大嘗会の料として忌部氏に織らせた旨が記されている」という情報を、疑いもなく受け入れている。この受容のあり方には、三木家文書の存在感と、当時の知識人が歴史と向き合う姿勢が表れている。

【実地調査による由緒の補強】

第一に、実見に基づくリアリティが由緒を補強する仕掛けである。『粟の落穂』の筆者が祖谷山に赴いて実際に太布の生産・使用の実態を目撃したというエピソードは、それ自体高い史料的価値を持つ現地調査の記録である。この現実の風土の説得力が、そのまま「だから三木家所蔵の四十余通の官符と忌部の由緒もまた確かなものに違いない」という論理を補強する力として働いた。現実のテキスタイル(太布の存在)と家蔵の文書(由緒書)が地誌のなかで結合することで、「三木家=古代からの忌部の正統」という言説が、江戸後期にはすでに確固たるものとして形作られていたことがうかがえる。

【古文書への畏敬】

第二に、江戸期の国学・地誌が抱えていた「古文書への強い信頼」である。当時の国学者や郷土史家にとって、家に代々伝わる官符の束は、現代のような文書鑑定の対象ではなく、畏敬をもって迎えられるべき証拠であった。彼らは、四十余通という物量と、太布という現実の布を前に、それを尊い考証の素材として歴史記述のなかに組み込んでいったと考えられる。

三十六、『阿波国風土記』不在という構造的背景

【希少価値と歴史の真空】

戦国の動乱、とりわけ「天正の兵火」による記録の焼失という阿波の歴史的経験は、裏を返せば「それ以前の古い文書が極めて少ないからこそ、残された数少ない文書には絶対的な価値がある」という希少価値を生み出した。三木家が提示した文書群は、失われた歴史の空白を埋めてくれる唯一無二の存在に見えたため、当時の学者たちは、それを拠り所として歴史を再構築していくほかなかったと考えられる。

【阿波忌部神話の土壌】

さらに阿波国には、出雲や播磨、肥前などとは異なり、古代の地誌や神社の由緒を体系的に検証するための基準となる『風土記』がまとまった形では残されていない。一部の逸文(断片的な記述)は伝わっているものの、「古代にどういう信仰があり、どういう組織があったか」という全体像を客観的に把握するためのマスターデータとしては不十分であり、阿波の古代史は共通の強固な物差しを持たない状態に置かれている。中世の一次資料が失われ、『風土記』のような古代の明確な基準も乏しいという「歴史の真空地帯」であったこと、そして「阿波国風土記編輯御用掛」として阿波の歴史を国家の枠組みで再構築しようとする小杉の使命感がそこに合致したこと。これこそが、国学者たちの探求心、明治以降の郷土史家たちの情熱、そして三木家が編纂した由緒のストーリーが互いに結びつき、壮大な「阿波忌部神話」を形成することを可能にした最大の土壌であったと考えられる。記録が失われたからこそ、残された数少ない文書が絶対的な権威を持ち、それぞれの時代の要請に応じた解釈が定着するようになった、というのが本稿の到達した見立てである。


おわりに

【一連の歴史を貫く共通構造】

本稿で辿ってきた経緯を改めて振り返れば、忌部公事から明治期の比定問題、そして三木家文書の謎に至る一連の歴史は、単発の事件の集積ではなく、いくつかの共通する社会構造によって貫かれていることがわかる。

【由緒の再編と社会の適応】

第一に、社会の激動期に、在地の本物の末裔集団がその都度の状況に適応し、巧みに家名を図ってきたという構造である。「場所」と「血脈」が分離した戦国期以降、血脈の保持にこだわった貞光の村雲氏、権力中枢と結びつき実利を握った川田の早雲氏、そして旧姓を隠し新体制に適応した山崎の麻生氏と、それぞれが全く異なる適応行動をとったことが祭祀権を巡る対立を生んだ。彼らはいずれも忌部の本物の支族たちであったが、国家の「単一認定」という制度に翻弄されたがゆえに争わされたのである。早雲氏は阿波藩の権力構造の変化を読み取りながら立場を築き、三木家もまた、実体経済の危機に直面した際、藩や明治期の中央学者といった新たな時代の要請に応える形で、自らの真実の血脈を制度的に証明すべく由緒を再構築し、一族の存続を図った。第二に、公式記録・学術的権威が、複雑な歴史的現実を「要約」あるいは「新たな枠組みの創出」によって再編してきたという構造である。『阿波志』による半世紀の抗争の簡略化、そして小杉榲邨による眉山への新設という「解決」は、いずれも在地の複雑な実態を、中央にとって秩序だった物語へと整理する官僚的作業であった。第三に、在地の民衆や関係者が、こうした大きな権力構造や歴史の転換点のなかで翻弄されてきたという構造である。箱訴に踏み切り獄死した山崎村民、複雑な立場に立たされた三木貞太郎、そして対抗運動に奔走した折目氏や細矢氏――いずれもが、時代というより大きなうねりのなかに巻き込まれていった。

【解釈の試みと今後の検証課題】

本稿が示した数々の解釈のうち、確実な史実として跡付けられる部分と、状況証拠を組み合わせた社会史的推論にとどまる部分とは、性質を異にする。後者はあくまで、断片的な史料の間隙を埋めるための一つの解釈の試みであり、今後の一次史料による検証を必要とする仮説であることを、改めて付言しておきたい。

【三木家の功績と歴史的生命力】

最後に改めて強調しておきたいのは、三木家が阿波の歴史において果たしてきた多大な貢献である。幾多の戦乱や激動の時代を乗り越え、第一級の史料である「三木家文書」を今日まで守り伝えてきた彼らの努力は、歴史的快挙として高く評価されなければならない。そして、大正大礼から現代に至るまで、大嘗祭における麁妙調進という神聖な実務を担い続け、阿波徳島という地域が持つ歴史的権威と誇りを全国に示してきた功績は、揺るぎない事実である。本稿が提示した「山の民」や「真実の書面化」といった仮説は、彼らの高貴な血統や伝承の価値を否定するものではなく、むしろ過酷な歴史の荒波の中で、彼らがいかに在地社会の知恵を絞って生き抜き、結果としてその神聖な役割と文書を現代へと繋ぎ止めたかという、人間の力強い営みの側面を機能主義的に描き出そうとするものである。阿波忌部氏をめぐるこの一連の物語は、由緒や伝統というものが、単に過去からそのまま受け継がれるだけでなく、過酷な時代を生き抜く人々の切実な適応行動と、国家制度の要請の中で絶えず再構築され、力強い生命力を得ていくものであることを、鮮やかに示す事例であるといえよう。


引用・参照史料一覧

本稿の考察において引用、および参照した主な史料・文献は以下の通りである。