―権力構造・在地支配・由緒創出の視点から読み解く地域史―
本稿は、阿波国麻植郡(現・徳島県吉野川市周辺)における忌部神社の正統性をめぐる江戸時代の紛争「忌部公事」と、それに連なる明治期の「延喜式内社比定問題」、さらに大嘗祭の麁妙(あらたえ)調進を担った三木家をめぐる史料上の謎について、積み重ねられた考察を一つのまとまった論考として再構成したものである。 ここで論じられる内容は、二種類に大別される。 第一は、『阿波志』『山川町史』『川田町史』および『住友家記録』等の史料に基づき、比較的確実な史実として跡付けられる経緯である。 第二は、それらの史実の間隙を埋めるために提示された推論・仮説である。
あらかじめ明記しておくべきは、本稿は、三木家が高貴な忌部氏の末裔であり、荒妙調進の正式な後継者であるという現在広く支持されている定説を否定するものではないという点である。 後述するように、三木家が日本の歴史上極めて重要な「三木家文書」を長年にわたり散佚から守り抜いてきた功績や、大正期以降の大嘗祭において麁妙調進の大役を担い、阿波徳島の権威と名誉を大いに高めてきた歴史的事実をいささかも貶めるものではない。 本稿は、確定した事実を覆す目的ではなく、地域の地形や当時の社会構造の視点から史料を読み解いた場合に見えてくる「もう一つの歴史的ダイナミズム」を描き出すための、あくまで「一つの考え方(試論)」として提示するものである。 読者はこの区別を踏まえたうえで、本稿を一つの「歴史解釈の試み」として読んでいただきたい。 省略を避け、議論の展開過程をできる限り忠実に、かつ読みやすい形で提示することを目指した。
忌部神社は『延喜式神名帳』に記載された麻植郡の名神大社であるが、中世の戦乱、とりわけ長宗我部氏による寺社破壊(天正の兵火)などによって由緒の伝承が途絶え、本来の社地(正蹟)がどこであったかが不明となってしまった。 江戸時代に入り、空席となった「忌部大社」という絶対的な権威と祭祀権をめぐる争いが表面化する。 『山川町史』等によれば、その発端は享保13年(1728年)の藩命による神社調査の頃に遡る。 当初、山崎村(村雲家)と貞光村(宮内家)の間で本末を巡る論争が起きた。 しかし、戦乱を経た両者には式内社であることを示す明確な根拠(決定的な物証)が欠けていた。 藩はこの論争を好機と捉え、両者を共倒れさせる形で退けた。 そしてこの混乱に乗じる形で、第三の勢力であった川田村の早雲家(多那保神社、のちの種穂神社)を忌部神社として認定する方向へ事態を誘導していったのである。
一見すると、これは無関係な三つの村(山崎、川田、貞光)が偶発的に起こした単なる神社論争のように見える。 しかし、中世・戦国期の阿波の在地宗教構造に目を向けると、まったく異なる真実の輪郭が浮かび上がってくる。 天文21年(1552年)の一次史料『阿波國念行者條驗道法度之事』には、川田の地に「河田 下之坊」という修験者(念行者)の拠点が記されており、当時の修験者たちが高越山や大峰などへの代参を独占し、自らの「旦那場(経済的テリトリー)」を強固に防衛していたことが記録されている。 論争の当事者たちの名前に注目してほしい。 山崎村の「村雲家」、川田村の「早雲家」、そして後述する貞光村を巻き込んでいく勢力もまた「村雲」を名乗ることになる。 彼らは皆、名前に「雲」の字を共有している。 これは決して偶然ではない。 彼らは純粋な神官というよりは、天村雲命(スサノオの系譜)に連なる神話的背景を持ち、剣山系などの霊山を拠点とした「忌部五雲(早雲、村雲、岩雲、花雲、飛雲)」と呼ばれる修験者ネットワークの同業者たちであった。 川田村の早雲家が管理していた「多那保大権現(種穂大権現)」という名称自体が、彼らが神仏習合の霊山を駆け巡る山伏・修験の血脈であることを雄弁に物語っている。
つまり、「忌部公事」とは、無関係な村同士の対立などではない。 かつて吉野川流域の広大なネットワークを共有し、在地社会に強い影響力を持っていた同胞(五雲の修験者たち)が、近世の神道再編という新しい時代を生き残るために、「名神大社」という究極の由緒と特権を巡って衝突した、修験者たちの厳しい生存競争であったと考えられるのである。
元文から寛保期にかけての紛争の具体的展開を知る上で極めて貴重な一次史料が、川田村の郷高取(小高取)庄屋・住友治五右ヱ門(慶之進)らによって書き残された『住友家記録』である。 川田村の住友家は単なる村の庄屋ではなく、高越山の修験道(高越寺など)を経済的に支える強力なパトロン(大旦那)であり、藩の重役とも深く通じる在地の実力者であった。 同記録の寛保元年(1741年)の記事によれば、川田の「多弥穂宮」神主・早雲民部は20年ほど前に京都の神祇伯・白川三位の門弟となり、「多弥穂大神は忌部社に相違ない」との御書付を下賜され、毎年6月に麻と楮を献上していた。 ところが申年(元文5年・1740年)より、山崎村の村雲庄太夫(勝太夫)が自村の「王子権現」を忌部社だと主張し、京都の土御門三位に頼み込んで寛保元年2月に新宮を建立し、賑々しく祭礼を執行した。 これに対し早雲民部は直ちに上京して白川家へ訴え、土御門家への働きかけも行って「山崎村へ忌部の下知は出していない」との返答を引き出した。 この際、早雲民部は郡役所に無届で上京したことを「のりを越(規定違反)」と咎められ、24日間の宿押し込め(町旅宿追込)となったものの無事赦免された。 一方で、相手方の村雲庄太夫は「偽りを申し立てた(偽申・不届)」として入牢(籠舎)を命じられ、山崎村に新設された社や鳥居は跡形もなく破却されたのである。 治五右ヱ門は、民部らが「京都での訴訟に勝ち、大手柄を立てた」と称賛の意を記している。
そして翌寛保2年(1742年)、早雲民部は単独で動いたのではなく、郡奉行・下条成助に召し出された上で、貞光村八次大明神の神職・兵庫、宮ノ島村の神職2名(計4名)とともに藩の公的な後ろ盾を得て正式に上京した。 白川家での詮議の結果、「種穂忌部神社に決着した(相片付申旨)」との正式な裁定が下され、民部は「神道大霊書の巻」を授与された。 この決定は直ちに京都留守居・滝与兵衛にも通達され、帰郷した民部と兵庫は連名で郡奉行へ口上書を提出している。 さらに5月には、大旦那である庄屋治五右ヱ門からの松木と杉額板の寄進を受けて一の鳥居が再建された。 つまり、早雲氏の勝訴は一介の神職による単独行動ではなく、郡奉行や京都留守居など、藩の行政機構と綿密に連携しながら進められた組織的なプロジェクトであったことがわかる。
ここに見えるのは、早雲民部が正当な手続きと公的な後ろ盾によって完全勝利を収めたという「川田側の公式な記録」である。 しかし、ここで決定的に注意しなければならないのは、『住友家記録』が他ならぬ川田村の庄屋による「勝者(川田側)の史料」であるという史料的限界である。 後世の伝承や山崎側の記録では、勝太夫は海部へ配所となり、寛延2年(1749年)に密かに帰村して拝殿で参拝中、早雲民部・式部父子から暴行を受けて死亡したとされ、さらに宝暦4年(1754年)には早雲氏が山崎忌部神社に火を放って焼き払ったと語り継がれている。 これらの血生臭い事件は『住友家記録』には一切登場しない。 しかし、詳細な同記録に未記載であるからといって、暴行死や焼き討ちが即座に完全な虚構であったと断定することはできない。 同村の庄屋として早雲氏と深い血縁・地縁関係にあった住友家にとって、身内の神主が犯した白昼の暴行致死や神社焼き討ちといった兇悪な犯罪行為は、身内を庇うため、あるいは自陣営の勝利の正統性を守るために、意図的に記録から「抹消・隠蔽」された可能性が極めて高いのである。 早雲氏がこうした激しい実力行使に及べた背景には、中世の修験道が他勢力を排除して自らのテリトリー(旦那場)を死守しようとした厳しい気風がなお残存していたことに加え、早雲民部が藩の家老・長谷川近江と主人・従者(頭入)の関係にあり、藩の当職・山田職部や、藩主・蜂須賀治昭に重用された同族「早雲古宝(伯耆)」の強力な庇護が存在したからだと推測される。 両者の史料(勝者側の隠蔽された記録と、被害者側に残された凄惨な伝承)を立体的に対比してこそ、忌部公事の生々しい実相が浮き彫りになるのである。
この由緒をめぐる争いは、山崎と川田の間だけで終わるものではなかった。 ここで注目すべきは、貞光村の御所神社をめぐる「神官の不可解な交代」と、戦国期から続く「場所と血脈の分離」という決定的な歴史の断層である。 後世に伝わる伝承や末裔の証言によれば、戦国時代末期、長宗我部氏の侵攻(天正の兵火)によって阿波の寺社が壊滅的な打撃を受けた際、当時の忌部大宮司であった麻植景光は「内山を守れ」という悲願を詠んだ和歌を遺し、村雲兵太夫らの系統が平野部に近い旧社地(山崎)から険しい山岳地帯である貞光(内山)へと退避したとされる。 つまり、戦国期直後における「生きた忌部神社」の実態(血脈と精神)は、物理的な旧社地を離れ、貞光の内山へと移動していたことになる。 本家が貞光へ逃れた結果、戦国期直後の山崎の旧社地は、神官のいない「空白地帯」になっていたと推測される。 江戸時代に入り世の中が安定してから、別系統(分家あるいは同業者)である山崎の村雲氏が、この空白となった旧社地に定着し、「由緒ある古代の場所(跡地)」に居ることを最大の根拠として、自らこそが忌部であると主張し始めたという構図が浮かび上がる。
享保期(1728年)の初期の論争において、貞光村の神官は「宮内(左近)」であった。 しかし宝暦年中(1751年〜)になると事態は一変し、貞光で「貞光こそが本宮である」と強烈な本宮運動を展開した際の神主の名は「村雲左近」となっている。 これまでは「山崎の村雲氏が逃げ込んで乗っ取った」と見られていたが、宮内左近と村雲左近は同一人物(または同族)であった可能性が高い。 普段は「宮内」という穏当な名で地域に根付いていた彼らが、本宮論争が激化した宝暦期に、代々受け継いできた本来の由緒ある「村雲」の姓を公に掲げて、決死の勝負に打って出たのである。 彼らが貞光(内山)で主張したことは、他所から逃げてきてでっち上げた嘘ではなく、「戦国期に大宮司から内山を託されて以来、自分たちこそが代々この地を守り抜いてきた」という強烈な本家のアイデンティティそのものであった。 しかし、江戸時代の藩の裁判では「誇りや古い口伝」だけでは証拠として認められない。 本家としての強烈な焦りとプライドが、彼らを棟札の偽装(永禄を元享と書き換える禁じ手)へと駆り立ててしまったと考えられる。 この強引な本宮運動は、結果として徹底的な弾圧(神主父子の入獄・追放と神宝の没収、空海筆の額面の焼棄)を受けることとなった。 本家であるにもかかわらず「偽造者」の烙印を押され、凄惨な弾圧と追放の憂き目に遭うという非常に悲壮な物語が見えてくる。
当時の川田や山崎の周辺には、長谷川家配下の特権的武装集団である「原士(はらし)」が駐屯していた。 早雲氏が長谷川家の強い庇護下にあったことを踏まえれば、貞光の村雲氏への過激な襲撃は、長谷川家を通じて早雲氏と結託した「原士」たちによる私的な軍事行動であった可能性が高い。 のちに語られる「山崎 対 貞光」という地域対立の構図は、実は「血脈を継ぐ本家(貞光)」と「場所を主張する分家(山崎)」という同族同士の悲劇的な分裂と生存競争であったと考えられるのである。
文化12年(1815年)に編纂された藩撰(公式)地誌『阿波志』は、この半世紀以上にわたる抗争を、「山崎・貞光両村の祠官、忌部祠を相争ひ、遂に中川式部に命じて此に祀る」という一文のみで片付けている。 ここには、公式記録に特有の三重の情報操作を見て取ることができる。 第一に、当事者のすり替えである。 実際の抗争の直接的な当事者は「山崎村(村雲勝太夫・社常)」と「川田村(早雲民部、後の種穂神社・中川家)」であった。 貞光村(村雲左近)が神宝を掲げて本格的に争いに加わったのは、時期的にやや後の宝暦年間(1751年〜)のことである。 ところが『阿波志』は元文中の争いを「山崎と貞光の両村」の争いとして記述し、最大の張本人であり最終的に種穂神社を名乗ることになった「川田(早雲家)」を、対立の構図から意図的に外している。
第二に、不都合な事実の圧縮と隠蔽である。 早雲民部が白川家の許しを得て多那保神社を種穂忌部神社と改め、自らも「中川」と改氏したのは宝暦4年(1754年)のことであり、その息子「中川式部」が神職として史料に現れるのは天明期(1783年頃)以降である。 つまり『阿波志』は、村雲勝太夫の暴行死、山崎忌部神社の焼き討ち、貞光への徹底弾圧、山崎村民の直訴と獄中死といった半世紀以上にわたる泥沼の抗争のすべてを、「遂に」というたった一語で完全に消し去っているのである。 第三に、藩撰地誌としての公式見解の作成である。 忌部公事自体は寛政13年(1801年)の中川式部罷免をもって一応の決着を見ていた。 しかし藩の公式記録としては、家老・長谷川近江ら藩重役と川田村(早雲家)との癒着、約60年にも及ぶ藩の無策、殺人や焼き討ちを放置したという不都合な事実を、そのまま後世に残すわけにはいかなかった。 したがって『阿波志』の記述は、「山崎と貞光という二つの村が忌部祠を巡って勝手に争ったため、藩が争いの枠外にいるように見える中川式部に(種穂で)祀らせることで平和的に決着させた」という、藩の失政を隠蔽し、自らの裁定を正当化するために意図的に改変・要約された公的記録として読み解くことができる。
前項で『阿波志』の記述を「当事者のすり替え」と指摘したが、ここで注意すべきは、「山崎と貞光が争った」という一文が、藩がゼロから捏造した完全な嘘ではなかったという点である。 『山川町史』や『住友家記録』と照合すると、藩がいかにして「都合の良い過去の事実」を悪用し、「不都合な大事件」を隠蔽したかという、より巧妙な情報操作の実態が浮かび上がる。 『山川町史』によれば、享保13年(1728年)の藩命による神社調査の頃、実際に山崎(村雲庄太夫)と貞光(宮内左近)の間で本末を巡る「初期の論争」が起きていた。 藩はまず、この両者の対立を好機と捉え、寛保元年(1741年)に両者が「非議に落ちた」として双方を神職から放逐し、共倒れさせている。 つまり『阿波志』の編纂者は、この「初期に起きていた論争の事実」だけを意図的に切り取り、あたかもそれが抗争のすべてであったかのように記録したのである。 そのような巧妙な手さばきによって、その後に引き起こされた川田村(早雲氏)による暴力事件や焼き討ちといった「真の抗争」を、歴史の表舞台から完全に上書きして消し去ることに成功した。 「一部の事実」を盾にして「不都合な全体像」を覆い隠すという、極めて高度な官僚的隠蔽工作であったと解釈できる。
早雲氏(中川氏)と藩主・蜂須賀家との癒着はさらに古くから存在した。 早雲氏の一族・早雲中務は、貞享3年(1686年)の時点で藩主の氏神である富田八幡の神主として召し出されるなど、藩中枢と極めて強いコネクションを築いていた。 さらに宝永年間(1704〜1710年)に山崎の忌部旧社が物理的に崩壊した隙を突き、早雲氏は早い段階から自らの社(多那穂大権現)を忌部神社と「私称」する既成事実化を進めていたとみられる。 早雲氏側の家系図では、山崎側が忌部社の社号を「奪出し(横取りしようとし)」たため、寛保元年に早雲側が勝利して決着したと記されている。 『山川町史』が指摘する通り、本来は山崎側が正当な社号を「奪回」しようとした動きを、早雲側はこれを「不届き者が横取りを企てた」とすり替えていたことになる。
この視点から『阿波志』の一文を改めて読み解くと、その真意はおおよそ次のようにまとめられる。 すなわち、本来の正蹟である山崎の社殿が崩壊した隙に、藩と癒着した早雲氏が称号を私称した。 それに反発した山崎が、貞光とも争っている状況を藩は逆手に取り、両者を「喧嘩両成敗」の形で追放した。 そして、あらかじめ決まっていたかのように、第三者の顔をした身内(早雲=中川氏)に称号を与え、それが最も公正な裁定であったという歴史として公式に記録した――という構図である。 『阿波志』のわずか数十文字の記述は、強者が弱者を合法的に排除し、自然の摂理のように「正当な歴史」として塗り替えた決定的な痕跡であるといえる。 なぜ、本質的な「山崎対川田」の抗争が表立って記されず、比較的穏当な「山崎対貞光」の初期論争だけが『阿波志』に残されたのか。 これには三つの理由が考えられる。 第一に、その後に起きた「山崎対川田」の事件(暴行死、焼き討ち、箱訴と獄死)が、藩の失政や重臣の癒着を伴うあまりにも重大な不祥事であったため、公式な記録(藩撰地誌)に残すには政治的タブーとして忌避されたこと。 第二に、藩と早雲氏が「山崎と貞光の対立」を、山崎側の称号を奪うための格好の口実として利用した形跡があること。 第三に、『阿波志』にとって「山崎と川田が直接争い、藩が早雲に肩入れした」という構図を記録するわけにはいかず、代わりに「山崎と貞光という二者が泥沼の争いをしていたため、藩はどちらにも与せず、第三者である中川式部に命じて平和的に収拾した」という、藩にとって最も都合の良いストーリーが意図的に選び取られ、公式記録として残されたと考えられることである。
忌部公事における早雲氏の不法行為が半世紀以上にわたって処罰されなかった最大の謎は、川田村の一神職に過ぎない早雲民部を、なぜ阿波藩の最高権力が一貫して庇い続けたのかという点にある。 この謎を解く鍵が、藩の神道政策の中枢に位置した人物「早雲伯耆(早雲古宝/高宝)」の存在。 富田八幡宮の神主であった早雲伯耆は、11代藩主・蜂須賀治昭の時代に阿波の神道界で絶大な権力を握っていたキーパーソンであった。 寛政2年(1790年)、藩主・治昭に対して阿波国全域に五角柱の「地神塔(地神さん)」を建立し社日に祭礼を行うよう建白し、これを実現させたのが早雲伯耆である。 さらに文化3年(1806年)、治昭が藩祖・蜂須賀家政を神として祀るための「国瑞彦神社」創建に際し、京都の吉田家(吉田侍従卜部良連)に働きかけて神号を授からせる実務を担ったのも、治昭の特命を受けた早雲伯耆であった。
『山川町史』によれば、貞享3年(1686年)に川田八幡の神主であった早雲中務(早雲民部らの祖先・同族)が、藩主の氏神である富田八幡の神主として召し出されている。 それから約100年後の寛政年間、まさに山崎村民が命がけの箱訴(寛政7年・1795年)を行い、獄死者を出しながらも藩からまともな裁定が下されなかったその時期は、早雲伯耆が地神塔の建白などで藩主・治昭から最も寵愛され、藩政に絶大な影響力を持っていた絶頂期と完全に重なる。 山崎の忌部公事が約60年もの間放置され、中川式部(早雲氏)が寛政13年(1801年)まで罷免されなかった最大の理由は、阿波藩の中枢(富田八幡宮)に、藩主の心を掌握し神道政策を意のままに操る同族の重鎮「早雲伯耆」が君臨していたからに他ならない。 一地方の小さな神社論争に見えた「忌部公事」は、実は藩の最高権力者(藩主)とそれを取り巻く側近神職(早雲伯耆)という強固な政治的コネクションによって、初めから勝敗が決定づけられていた根深い権力闘争であったと考えられる。
この権力構造をより正確に理解するためには、阿波藩の家老政治の変遷を押さえる必要がある。 延宝6年(1678年)、蜂須賀綱矩の時代に「稲田、賀島、山田、長谷川、池田」の五家が阿波藩最高指導部たる「五家老」の一角を占める体制が確立された。 長谷川家は新興の役人ではなく、長谷川貞安を祖とし、蜂須賀家の阿波入国当初から秀吉の与力として付属され、「政事方」として藩の行政中枢を担うべく配置された最古参の特権的家老家であった。 寛延2年(1749年)の勝太夫暴行死や宝暦4年(1754年)の焼き討ちが起きた時期、早雲民部は「藩の家老長谷川近江の頭入(かしらいり)で主人と従者の関係にあった」と史料は伝える。 当時の当職(実務責任者)であった山田職部が早雲氏に加担する方向で動いたのは、単に「上位の山田が下位の長谷川に便宜を図った」のではなく、藩を共同統治する五家老同士(山田家と長谷川家)の強固な同盟関係、あるいは不可侵の身内意識によるものであったと考えられる。 五家老の一角である長谷川家の直属配下(早雲氏)を罰することは、山田家にとっても五家老体制のバランスを崩すタブーであり、ゆえに凶悪な事件すら公には問題視されなかったと解釈できる。
その後、蜂須賀重喜の治世に藩政の大転換が起きる。 重喜は実権を握っていた仕置家老(稲田・賀島)を体制から外し、かつて早雲氏を庇護した山田職部は宝暦12年(1762年)の呪詛事件で切腹し滅びた。 この人事刷新によって、これまで単なる事務方であった長谷川氏が急速に台頭する。 重喜の急進的改革とその失脚を経て、幼い治昭(9歳)が藩主となったことで、「長谷川近江専断期」が到来する。 藩政が弛緩したこの時期、長谷川を主人とする早雲(中川)氏は、誰に咎められることもなく山崎村での動きを既成事実化していった。 寛政期(11代治昭の親政期)に入ると、他の四家老を排して藩政の全権を一手に握る「長谷川独占期」が完成する。 寛政7年(1795年)、山崎村民が箱訴に踏み切り惣代6名が投獄・獄死するという最大の惨事へと至ったのは、まさにこの時期であった。 行政のトップには全権を掌握した長谷川氏が君臨し、宗教政策のトップには藩主・治昭の寵愛を受けた早雲伯耆が君臨する――この二重の鉄壁の庇護下において、山崎村民がどれほど正当な訴えを起こそうとも、早雲(中川)氏の体制を覆すことは構造的に不可能であった。 このように、「山田の時代」から「重喜の政変」を経て「長谷川・早雲伯耆の時代」へと阿波藩の権力構造が移行するなかで、早雲氏は常に時の権力中枢に巧みに結びつき、自らの立場を強化していったという、生々しい政治的生存戦略が浮かび上がる。
この抗争のもう一つの重要な背景として、「原士(はらし)」という在地家臣団の存在が挙げられる。 事件の舞台となった麻植郡一帯は、暴れ川である吉野川の治水と阿波藍の生産拠点という重要性から、藩の直轄地(御蔵地)と家臣の領地(給地)が複雑に混在するモザイク状の支配構造を持っていた。 この地域で絶大な権力を誇ったのが、家老・長谷川氏である。 長谷川氏配下の「原士」は、長谷川貞恒が阿讃両国境の警固をも兼ねた計画を建議したことに始まるとも言われている。 そのため、寛政期までは家老長谷川家の与力並として代々配属された。 『阿淡年表秘録』によれば、原士は長谷川家の代替わり毎に改めて預けられ、形式的には一代限りだが、実質的には世襲であったという。 原士の多くは吉野川を挟んだ対岸の阿波郡柿原村広永や、市場町興崎を中心に約六十戸が陣取り、西条原、香美原(後に興崎と改称)の開墾に従事した。 彼らは農業に従事する傍らで、参勤交代の警護や阿讃国境警備、百姓一揆の鎮圧、勧農普請の監督などを務め、のちの幕末期には海岸や江戸湾の警護にも当たっている。 原士の身分は、平常は郷高取(ごうたかとり)の次、庄屋の上位にあり、戦時においては組士(高取士分)並、下士並であった。 また殿様への御目見(おめみえ)も許されており、常時文武の道に励み、在郷では卓越した権威と格式をもっていた。 慶長九年(1604年)の蜂須賀蓬庵(蜂庵)の高札が市場町に残されていることからも、彼らが開墾と引き換えに年貢免除などの特権を与えられていた古い歴史がうかがえる。
ここで一つの推論を提示したい。 前述したように、戦国期の阿波には吉野川流域から山間部にかけて、在地領主と結びついた「念行者(修験者)」の強力な軍事・情報ネットワークが存在していた。 蜂須賀氏が阿波に入国し新体制を築く過程で、これら旧体制の武装宗教集団をただ弾圧するのではなく、家老・長谷川家の与力並たる「原士」として体制内に吸収・再編したのではないか、という仮説である。 原士が農民でありながら卓越した文武の技量や格式を持ち、国境警備や一揆鎮圧といった特務を担っていたことは、かつての修験者集団の機能と見事に重なり合う。 忌部公事という土着の激しい抗争の背後に彼らの影がちらつく理由は、原士たちがかつての修験同胞たちの末裔であったとすれば、極めて自然な歴史の連続性として理解できる。 長谷川氏は、藩の莫大な富を生む「阿波藍」の生産拠点という最重要エリアに、これら「原士」を分散配置し、強固な支配体制を築いていた。
川田村の早雲民部が長谷川氏の「頭入」であったという関係は、単なる比喩ではない。 頭入とは、藩の公的な徴税システムを通さず、领主である長谷川家に直接年貢を納めることで、その強固な私的保護下に入る制度であった。 早雲民部は、単なる一村の神官ではなく、筆頭家老・長谷川家の給地内に組み込まれた「大切な家来(被官)」であり、藩の役人から見れば早雲氏を罰することは筆頭家老の管轄に手を出しかねない、事実上の特権的な立場にあったといえる。 さらに、川田村で『住友家記録』を残した住友家は、郷高取という格式を持つ庄屋であり、前述のように高越山の修験道・高越寺などを経済的に強力に支援する「大旦那」であった。 この住友家がいかに強大な存在であったかは、『住友家記録』の初期、慶長から元和期にかけての記述を紐解くとさらに鮮明になる。 彼らは単なる農村の管理者(庄屋)ではなく、軍事・宗教・物流が交差する阿波山間部の特権的な支配者であり、修験者(山伏)たちのネットワークと不可分な関係にあった。 例えば、慶長17年(1612年)の記事には、藩の重臣である樋口内蔵助が、住友五郎右ヱ門の屋敷門前で軍事用の「旗竿」を伐り出し、そのまま早雲氏の拠点である「多那保(種穂)の社」へ籠もって三日間の祈祷を行ったとある。 神前に榊の焼木を打ち立てるという描写は、火を用いる修験道の護摩法などの呪術的儀式を強く示唆している。 つまり住友家は、藩中枢が頼る修験の軍事・宗教的機能のスポンサーであり、その儀式を差配する立場にあったのである。
また、元和2年(1616年)に起きた「村と山の境界出入(訴訟)」において、川田村(住友・樋口陣営)が筆頭家老クラスの稲田陣営に勝訴した記録も極めて重要である。 当時の修験者にとって「山」とは、信仰の場であると同時に、木材や和紙原料を生む莫大な経済基盤(旦那場)であり、交通ルートであった。 この山の支配権を外部の権力から守り抜いたことで、修験者からの住友家への依存は決定的なものとなった。 さらに元和5年(1619年)には、戦時の人質収容(治安維持機能)や、重臣間の川除(堤防)をめぐる境界争いにも住友家が深く関与している。 治水と水運ルートの確保は、山の資源を下流へ運ぶ物流の要である。 これらの記録から浮かび上がる住友家の実態は、修験者たちが持つ宗教的権威と山間ネットワークを保護・活用し、山の資源を川の物流に乗せて経済を回す「在地インフラの総合支配者」という姿である。 修験者たちが山を駆け巡る「動」のネットワークであったとすれば、住友家は彼らの拠点を守り、資金を供給し、藩中枢とのパイプ役を担う「静」の絶対的な基盤であった。 この強固な共犯関係があったからこそ、後年の「忌部公事」において、早雲氏が白昼の暴力行為に及んでまで他勢力を圧倒できたのだと理解できるのである。
早雲氏が白昼の拝殿で村雲勝太夫を暴行死させたり、忌部神社に火を放ったりという実力行使に出られたのは、山崎の村民たちがもし反撃に出れば、対岸から長谷川氏直属の原士たちが「一揆鎮圧」の大義名分のもとに武装して川を渡ってくるという絶対的な軍事的抑止力が存在し、さらに背後には藩中枢と結びついた住友家のような強力な在地権力者の支援があったからである。 原士という武力と、高越山修験の大旦那からの庇護を持つことで、早雲氏は自らの行動が咎められないという確信を持っていたと考えられる。 貞光村への過激な襲撃もまた、この強力なネットワークと原士たちによる私的な軍事行動であった可能性が高い。 なお、稲田氏の支配地であった美馬郡脇町の「猪尻侍(いのじりざむらい)」も、原士と同様に在地家臣団としての共通の構造を持っていた。 しかし両者の主君と管轄地は明確に異なる。 稲田氏は事実上の独立領主的存在であり、猪尻侍は幕末まで存続し続けた。 これに対し長谷川氏はあくまで藩主から権限を委任された「官僚的権力者」であったため、のちの寛政の政変に伴い、給地も私兵(原士)もすべて藩に没収・吸収されることとなる。
長く続いた長谷川氏の体制に転機が訪れたのは寛政期である。 明和年間以降、弛緩した家老政権のもとで阿波藩は莫大な赤字(30万両とも言われる)を抱え、農村の荒廃は極限に達していた。 寛政2年(1790年)、31歳となった藩主・治昭は、破綻寸前の藩財政を立て直すため長谷川近江を罷免し、「直仕置(親政)」を開始する。 続く寛政3年(1791年)には長谷川貞幹が失脚・改易され、長谷川家が有していた阿波・麻植両郡の給地はすべて藩に没収(御蔵地化)された。 これに伴い、長谷川氏の配下であった原士も藩の郡奉行支配へと組み込まれることになった。 この政変により、早雲氏は「長谷川の給地内の頭入」という強固な後ろ盾と、抑止力を物理的・制度的に完全に喪失したのである。
長谷川貞幹の失脚(寛政3年・1791年)からわずか4年後の寛政7年(1795年)に、山崎村民が命がけの箱訴に踏み切った理由は、この土地・身分制度の劇的な変化によって説明がつく。 村民たちは、長年自分たちを苦しめてきた権力である「長谷川近江」が寛政2年に罷免され藩主の直仕置が始まったのを見て、「今ならば藩主様は正当な裁きを下してくれるはずだ」という一縷の望みを抱いたと推察される。 しかし、それは大きな誤算であった。 彼らが直訴した先の藩主・治昭の背後には、すでに長谷川に代わる新たな影響力として、治昭の宗教政策を重んじる同族の「早雲伯耆」がぴたりと寄り添っていた。 旧権力(長谷川)の崩壊を好機と見た山崎村民の命がけの訴えは、新体制(藩主の側近である早雲伯耆)によって阻まれ、惣代たちは投獄されて獄死を遂げた。 一地方の神職の争いが60年も解決しなかったのは、当事者である早雲氏が「山田職部(宝暦期まで)」→「長谷川近江(明和〜寛政2年)」→「藩主・治昭と早雲伯耆(寛政2年以降)」というように、阿波藩の権力中枢の変遷を完璧に読み切り、常に最も強い権力の庇護下に入り込み続けたからだと考えられる。
首謀者である惣代全員が投獄され、生きて帰ることなく獄死したという結末は、越訴(規定の手続きを飛び越えた直訴)や徒党が重罪であった江戸時代の常識を踏まえても、なお異常なほどに重い処罰であったと言わざるを得ない。 通常であれば首謀者一名が遠島や死罪になったとしても、全員が獄死するというのは、単なる「直訴の罪」への処罰という枠を超えている。 ここには、表向きの司法判断とは別の、より冷徹な意図が働いていたのではないかという仮説が成り立つ。
その仮説とは、次のようなものである。 山崎村の村民たちは、「長谷川家という権力が倒れた今、聡明な治昭公に直訴すれば必ず正当な裁きを下してくれる」と信じて箱訴に踏み切った。 彼らにとっての相手は、あくまで川田村の早雲民部個人であった。 しかし彼らは、早雲一族の背後に、藩主・治昭の悲願(藩祖の神格化)を理論武装し新体制の正当性を担保している「最高宗教顧問・早雲伯耆」が君臨しているという事実に気づいていなかった。 治昭やその側近から見れば、山崎村民の訴えは単なる神社論争ではなく、治昭の治世の最重要課題である国瑞彦神社の創建や地神塔の建立を主導する早雲一族の権威、ひいては藩主・治昭の「新体制のイデオロギー」そのものを揺るがしかねない「体制批判」として映った可能性がある。 だからこそ、この直訴は決して受理されるわけにいかず、彼らは徹底的に排除されなければならなかった――というのがこの仮説の骨子である。 また、処刑(斬首など)ではなく「獄死」という結末を迎えたことも示唆的である。 公開の場で裁判を行い処刑すれば、彼らの主張が公の記録に残ってしまう。 そのため「直訴の罪(手続き違反)」という名目で地下牢に留め置き、過酷な環境下で病死させることで、公の記録を汚すことなく事態を収拾した――という可能性も指摘できる。 山崎村民たちは、地方の一神社の由緒を守ろうとしただけであったにもかかわらず、意図せずして「藩祖神格化と絶対主義的藩政改革」という巨大な国家権力のイデオロギーの渦中に巻き込まれてしまったのではないか、というのがこの仮説の要点である。
早雲伯耆が権力を握り得た最大の核心は、「藩祖・蜂須賀家政の神格化」と「国瑞彦神社の建立(寛政4年・1792年)」という、藩主・治昭にとって最も重要な政治的・宗教的プロジェクトを、理論面・実務面の双方から主導し完遂させたことにあった。 治昭が長谷川氏ら旧体制の門閥家老を排除して「直仕置(親政)」を行うためには、単なる役職の交代では不十分であり、「なぜ藩主が直接権力を握るのか」という絶対的な大義名分が必要であった。 藩祖・家政を「国瑞彦大神」として神格化し、藩主こそがその神聖な血統を継ぐ最高権力者であると知らしめることは、家老たちの権威を相対化し、藩主への権力集中を正当化するための政治装置であったといえる。 早雲伯耆は、治昭のこの「新体制のイデオロギー」を宗教面から構築した最大の功労者であった。
この文脈に立てば、寛政7年(1795年)の箱訴の悲劇はさらに重い意味を帯びる。 山崎村民が対峙した相手は、もはや「没落した家老の被官(早雲民部)」ではなく、「現体制の正当性を創り上げた最高宗教顧問(早雲伯耆)の一族」へと変貌を遂げていた。 藩の役人たちが早雲氏を庇い山崎村民の訴えを退けた理由は、単なる怠慢ではなく、「ここで早雲一族を罰すれば、国瑞彦神社を創建し藩主の権威を高めた伯耆の顔に泥を塗ることになる」という、藩政の根幹に関わる政治的配慮が存在したためだと考えられる。
明和年間以降、長谷川近江らが実権を握る家老政権のもとで藩政は弛緩し、農村では商品経済化や農業の発展に伴う歪みが生じていた。 末端の農家は疲弊し、本来の耕作への意欲低下が深刻な事態となっていた。 阿波藩の財政は深刻な窮地に陥り、旧態依然とした体制では藩の維持が不可能な状態に達していた。 寛政2年(1790年)、31歳となった藩主・治昭は、破綻寸前の藩財政を立て直すため長谷川近江を罷免し、「直仕置(親政)」を開始する。 続く寛政3年(1791年)には長谷川貞幹が失脚・改易され、長谷川家が有していた阿波・麻植両郡の給地はすべて藩に没収(御蔵地化)された。 これに伴い、長谷川氏の配下であった原士も藩の郡奉行支配へと組み込まれることになった。 この政変により、早雲氏は「長谷川の給地内の頭入」という強固な後ろ盾と、抑止力を物理的・制度的に完全に喪失したのである。
同時に、早雲伯耆のように宗教政策を通じて直接藩主の政策に関与し、新しいイニシアチブを握る側近グループの台頭も、長谷川氏失脚の要因の一つであった。 彼らが台頭し得た最大の理由は、その実務的な功績にある。 耕作意欲の低下した農村を立て直すため、早雲伯耆をはじめ、井開氏ら国学系の神職が主導して行ったのが、「地神塔」の全県的な建立と「地神祭」の強制的な実施であった。 春と秋の社日(戊の日)の2日間を農休日と定め、庄屋を中心とした強固な結束力を持つ農業集団を再構築することで、農業生産性の向上、すなわち税収(年貢)の増加を狙ったのである。 この政策は徹底され、全県下に2000基もの地神塔が建立された。 事実、佐那河内村の嵯峨天一神社や秋葉神社境内には、徳島藩内でも最初期(最古級)となる寛政元(1789)年の銘が刻まれた地神塔が残されている。 また、徳島藩が『阿波国後風土記』編纂のために集めた史料の控えには「佐那川内村 五社神主 井開筑前」の名が記されており、井開氏らが地神信仰の導入や普及、その由緒の記録に直接携わっていたことが分かっている。 特筆すべきは、この地神祭が現代に至るまで阿波地方の強い伝統として根付いている点である。 現在でも、大宮八幡宮の井開宮司が佐那河内村や隣接する徳島市上八万町の一部の地区(田中、西地、一ノ瀬地区など)へ赴き、何世代にもわたり地域住民とともに神事を行し続けている。 こうした巨大な農村教化・農業振興プロジェクトを成功させたことこそが、早雲氏らが藩主・治昭から絶大な評価を受け、権力中枢へと躍り出る最大の根拠であった。 民間で語り継がれる「怪談」や呪いの類は、絶対的だった権力者の突然の失脚を民衆がドラマチックに解釈した物語に過ぎず、その実態は破綻寸前の藩財政を救うため、新興の側近グループと結んで断行された、極めて現実的な権力の入れ替えであったと解釈できる。
寛政期(治昭の親政・改革期)に、『阿淡年表秘録』や各種の神社帳・地誌などの編纂事業が活発に行われたことも、この文脈で理解される。 藩主・治昭が長谷川氏ら旧体制の門閥家老を排除し自ら藩政を掌握する「直仕置」へ移行したこの時期は、単なる行政の立て直しにとどまらず、領内の由緒、神社仏閣の系統、過去の歴史や家臣団の由来までを徹底的に調査・整理・記録させる大規模な文化的・政治的事業を伴っていた。 旧体制のもとで曖昧になっていた諸権利や神社の由緒を一度クリアにし、藩の最高権力(藩主)の統制下に再統合していく――こうした歴史整理の作業は、治昭による藩政改革や宗教政策の正当性を裏付け、中央集権的な支配を確立するための「知的インフラ」として機能していたと考えられる。 各地で「本来の旧社はどこか」を巡る激しい論争や社名変更の動き(八倉比売神社の社名変更論争等)が起きた背景にも、この治昭期の歴史再編成と神社統制の潮流があった。 また、寛政期に「黒印地」(免税特権を持つ神社領)の認定が非常に厳格化されたことも、藩財政の窮地と改革の本質を物語っている。 宝暦期以降、旧体制のもとで膨大な赤字と農村の荒廃が判明し、藩財政は常に極度の欠乏状態にあった。 直仕置体制のもとで、特権的な無税地である黒印地は藩にとって歳入を圧迫する要因であり、曖昧な由緒や既得権益に基づく黒印地を厳しく制限・剥奪し、課税対象(御蔵地・年貢地)へ組み替えていくことが、財政再建の生命線であったと考えられる。
寛政7年(1795年)に山崎村民の訴えを退けてまで早雲一族の立場を重んじた治昭が、わずか6年後の寛政13年(1801年)に一転して早雲(中川)氏を罷免した理由については、次のような複合的な政治的計算があったと推察される。 第一に、体制構築における「役割の終了」である。 治昭にとって早雲一族(特に早雲伯耆)は、藩祖の神格化と地神塔の普及という自らの権力を正当化するための「宗教的イデオロギーを構築する立役者」であった。 寛政13年の段階では国瑞彦神社の権威は盤石となり、藩主の絶対性は確立されていた。 大事業を成し遂げた後には、強大な宗教的影響力を持つようになった早雲一族はむしろ次なる権力集中の火種になりかねず、治昭にとってその役割は一区切りを迎えたとみることができる。 第二に、治昭自身が主導した歴史編纂事業の進行が、早雲氏の立場を危うくした可能性である。 治昭は藩内の税制を整え黒印地を厳しく統制するために、徹底的に「正しい由緒」を洗い出させていた。 藩の学者や役人が過去の文書や地理を客観的に再調査すればするほど、早雲民部が行った強硬手段や、彼らの主張する由緒の矛盾は隠しきれなくなっていったと考えられる。 第三に、治昭が改革の対象としたのは藩政を停滞させた旧体制の家老・長谷川氏であり、早雲民部はもともとその長谷川氏の「頭入」として権勢を振るった、いわば「旧体制の残滓」であった。 体制が固まった今、彼らを特別扱いする理由はなく、早雲氏を処分して山崎村の長年の訴えに応えることで、「旧体制と結びついていた神官を、名君である治昭公が公正に裁いた」という物語を完成させることができる。 治昭は、地域に燻る不満を早雲氏に集約させ、自らの「公正な裁き」を演出したという見方も可能である。
さらにここで特筆すべきは、寛政13年(1801年)に種穂神社の神職(中川式部)が罷免された後も、藩中枢である富田八幡宮の宮司(早雲伯耆の系譜)は一切失脚することなく、現在に至るまで延々とその職を務め続けているという事実である。 『川田町史』などの地域史料を紐解くまで、富田八幡宮の宮司一族が種穂神社の早雲氏と同族であるという繋がりは、表の歴史からはほとんど見えなくなっていた。 これは、藩あるいは早雲氏自身が、地方で数々の不法行為や騒動(忌部公事)の当事者となった「川田の早雲(中川)」と、藩の宗教政策の中枢を担う「富田八幡の早雲」との血縁的・政治的繋がりを、意図的に消し去った可能性を示唆している。 つまり治昭による「早雲氏排除」とは、一族全体の粛清ではない。 地方で怨嗟の的となり「用済み」となった中川氏(元・早雲民部系の分派)のみを罷免し、トカゲの尻尾切りのように切り捨てたのである。 しかし、これで種穂神社の歴史が終わったわけではない。 種穂神社の神職は、追放された中川氏ではなく、川田に残る「別の早雲氏(同族の別系統)」が綿々と引き継いでいくことになる。 さらに、藩中枢にいる本流(富田八幡の早雲氏)の権威も無傷で守り抜かれた。 特定の過激な系統だけを切り捨てて不満を逸らしつつ、一族の宗教的ネットワーク自体は巧みに温存するという、極めてしたたかで冷酷な政治的処理であったと考えられるのである。
早雲氏の神事のたびに奇病や集団の異常行動が発生したという伝承が残されている。 これを「呪い」「祟り」といった怪異としてではなく、山崎村民あるいは早雲氏を快く思わない勢力によって仕組まれた人為的な妨害行為であったと解釈する仮説も提示できる。 吉野川流域の山間部の住民や修験者は、薬草・毒草に関する知識を有していたと考えられ、神事の際に振る舞われる神酒や神饌にこうした物質が密かに混入された可能性は、当時の知識水準に照らして十分にあり得るものである。 直接的な報復ではなく、神事の最中や直後に異常症状を発症させるという方法には、早雲氏の権力の源泉である「自分こそが正当な神官である」という宗教的権威そのものを、「早雲の神事は神意に沿わないから異常が起きたのだ」という形で内側から揺さぶる狙いがあったとも考えられる。 そしてこの「仕組まれた奇病」は、結果として藩主・治昭が早雲氏を交代させるための好都合な口実となった。 「早雲が神事を行うと祟りが起き領民が動揺している」という事実があれば、宗教政策を司る早雲一族を役職から外す理由としては十分であったといえる。 このように読み解けば、「忌部大神の祟り」として曖昧に処理された伝承の裏には、権力に抗い続けた在地民衆のしたたかな反撃の痕跡が隠されていた可能性がある、というのがこの仮説の要点である。
さらに視点を広げれば、早雲氏が管理していた広大な黒印地(免税特権)の再編そのものが、治昭にとっての真の目的であった可能性も指摘できる。 財政難のなかで税制の見直しを進める治昭にとって、早雲一族が管理する広大な神領は再編の対象であった。 しかし早雲伯耆を通じて自らの権威づけを行ってしまった手前、理由なく黒印地を没収すれば藩政の正当性が揺らぎかねない。 そこで「神事の不調」という大義名分によって早雲一族から役職を剥奪し、白紙になった広大な黒印地を新たな神官へ「再分配」する過程で、藩の裁量により社領を大幅に削減し、残りを藩の直轄地へ組み替えることが可能になる、という一連の流れが想定できる。 この仮説に立てば、山崎村の村民たちは自分たちの執念の訴えが実ったと信じたであろうが、実際には税収を確保したいという藩の実利的な思惑の中で事態が動いていた、ということになる。
長谷川家の失脚によって麻植郡の給地が「御蔵地」として回収された以上、それをすぐに手放すことは財政再建を至上命題とする治昭の政策と矛盾する。 山崎忌部神社が正当性を認められたからといって、そのまま自動的に新しい黒印地が与えられるような単純な行政機構ではなかったと考えられる。 まず、原士たちの管理下から藩の郡奉行支配へ移管された土地は、藩にとって確実な税収源(御蔵地)であり、一度直轄地として帳簿に載った土地を神社の免税地として再び手放すことには、実務を担う役人にとって抵抗があったと推測される。 また、神社仏閣への黒印地(朱印地)の安堵や新規発行は、原則として藩主の代替わりという国家的節目に合わせて行われるのが通例であり、寛政13年(1801年)の早雲氏罷免はあくまで「神職の交替と由緒の裁定」という人事・宗教上の処理であって、「土地(神領)の付与」とは切り離されていたと考えられる。 そのため藩は、山崎神社に神領を認めるための別の大義名分(藩主の病気平癒祈祷、雨乞いの成功、代替わりに伴う特例的恩賞等)を必要としたと推測される。 これにより藩は、「山崎村の要求に屈した」のではなく「藩主の特別な慈悲によって新たに領地を下賜した」という体裁を保つことができる。 このメカニズムを踏まえると、忌部公事の最終的な結末は、単純な「山崎村民の勝利」ではなく、「早雲氏が支配していた広大な特権的領地を藩が一度すべて御蔵地として回収し、しかるべき時期・理由をもって、山崎神社に必要最小限の黒印地だけを改めて与えた」という、税制再編としての側面が強かったと考えられるのである。
寛政13年(1801年)の中川式部罷免によって、忌部神社の論争は一つの区切りを迎えたかに見えた。 しかし、長谷川家の給地没収と早雲(中川)氏の罷免という激動の後、空白となった山崎忌部社の宮司に誰が就いたのか、江戸期の神社調査などに表立ってその名が出てこないという謎が存在する。 史料によれば、かつて海部へ追放され非業の死を遂げた村雲勝太夫の息子・竹次郎(麻生織之進)は、寛保の公事の後、15歳で神職相続を願ったが叶わず山崎を見限って上京し、京都の公家・中院家に仕えて自立していた。 しかし彼は、山崎の決着を見る2年前の寛政11年(1799年)に京都で身罷っており、その子・孝義もまた天保4年(1833年)に京都で亡くなっている。 彼らが山崎へ帰還することは叶わなかったのである。
事態が動いたのは文政9年(1826年)のことであった。 竹次郎の孫娘の婿養子として正親が迎えられ、彼が「二宮佐渡(麻生佐渡正)」としてついに山崎村の神主に就任したのである。 村雲勝太夫から数えて三代目にして、ようやく山崎村民の執念が実を結んだ瞬間であった。 ここで彼らが「麻生」と「二宮」という二つの姓を使い分けた背景には、極めて現実で切実な生存戦略があったと考えられる。 山崎の村雲氏が、寛保の公事で川田の早雲氏に敗れて悲惨な運命を辿った背景には、彼らが「正統性」と「政治力」の板挟みになった最も脆弱な「分家」であったという事実がある。 貞光の本家のような「大宮司から託された」という絶対的な精神的支柱を持たず、川田のような強大な政治経済力も持たなかった「弱き分家」が生き残るためには、手段を選ぶ余裕はなかった。 正親は美馬郡猪尻村八幡神社の神主・二宮出羽守の弟であり、実態としては二宮姓であった。 過去に藩を巻き込む大訴訟を起こし、暴行死や獄死といった血塗られた事件の当事者として警戒されていた「村雲」の名を完全に捨て去り、公的な神職免許は「麻生」で取得しつつ、在地では有力者である実家の「二宮」姓を名乗る。 弱かったからこそ、誇り高き名前すら捨てて外部の権力にすり寄り、したたかに生き延びるという究極のサバイバル戦略を選んだのである。
しかし、悲劇は終わらなかった。 山崎村の神主として迎えられた二宮佐渡(正親)は、翌文政10年(1827年)にわずか39歳で急死してしまう。 後に残された息子・秀俊(幼名志津馬)は、当時わずか10歳であった。 見知らぬ土地で孤児同然となった秀俊であったが、親戚の庇護を受けながら歯を食いしばって生き抜き、天保10年(1830年)に志摩と改名して跡目を継承すると、嘉永3年(1850年)には従五位下河内守にまで昇り詰めるという驚異的な復権を果たす。 時代が明治へと変わり、国学者・小杉榲邨らによる比定調査が始まった時、山崎の地で「山崎説」を内側から強烈にサポートし、三木家文書という最大のカードを引き出した当時の祠掌こそが、この壮絶な苦難を乗り越えた「麻生秀俊」その人であった。
明治政府による社格制度の制定に伴い、忌部神社は「所在地不明」のまま国幣中社に列格された。 これを受け、明治4年(1871年)8月、国学者・小杉榲邨はその所在地調査の報告を出している。 その報告を見ると、忌部神社の候補として以下の七社が挙げられていた。
小杉は、これほど多数の小社が旧蹟を主張して乱立する状況を目の当たりにし、いずれの社も大社としての決定打に欠けると判断した。 眉山への新設という後の結末は、単なる政府の妥協の産物ではなく、小杉が当初から提言していた「グランドデザイン」そのものであった。 小杉はこの調査段階から「新地を卜定して新たに同社を新建すべき」という建言を提出している。
小杉が新設を求めた背景には、極めて現実的な理由があった。 第一に、所在不明のままでは国幣中社としての国家祭祀運営ができないこと。 第二に、どこか一つを選べば必ず他の村が激しく反発するため、新設することで旧蹟争いを一度リセットできると考えたことである。 しかし、明治6年(1873年)3月の段階の指令でこの新設案は許可されなかった。 新設案が退けられ、正蹟が一つに確定しなかったことにより、事態を重く見た関係者の間では、一時、忌部神社の指定を撤回し、代わりに「大麻比古神社」に変更しようという案まで浮上したほど、論争は深刻な行き詰まりを見せていたのである。
新設案が暗礁に乗り上げたことを受け、小杉は事態を打開するために方針を転換する。 明治6年(1873年)になると「山崎村ノ神社ヲ以テ本社トスルニ決定ス」という説を強く推し進めるようになったのである。 「山崎村ノ神社」とは、先述の候補の王子社に祀られていた天日鷲社のことである。 そして翌明治7年(1874年)2月、小杉は教部省へ正式に意見書を提出した。 この時の小杉の考証における「不可抜ノ証文」こそが、「三木家文書」のうちの『阿波御衣御殿人契約状』(正慶元年・1332年)であった。 現在は写本が残るのみであるが、そこには次のような規約が記されている。
契約 阿波国御衣御殿人子細の事、
右、件の衆は、御代最初の御衣御殿人たるうゑは、相互御殿人中、自然事あらは、是見妨げ聞き妨ぐべからず候、此の上は、衆中にひやう定をかけ、其れ儀有るべき者也、但し十人あらば七、八人の儀につき、五人あらば二人の儀付くべきものなり、但し盗み・強盗・山賊・海賊・夜打おき候ひては、更に相いろうべからず候上は、日入及ぶべからず、そのほかのこと、一座見妨げべかず候、但しこの中にいぎ(異議)をも申、いらん(違乱)がましきこと申物あらば、衆中をいだし候べきものなり、此上は一年に二度よりあい(寄合)をくわへて、ひやうぢやう(評定)あるべく候、会合二月廿三日やまさきのいち(山崎の市)、九月廿三日いちを定むべきもの也、角て契約件の如し、
正慶元年十一月 日
この文書に記された「十人あらば七、八人の儀につき(多数決の原則)」や「違乱があれば衆中からいだし(追放する)」といった取り決めは、中世の「座」や在地ギルドの生々しい掟そのものである。 しかし小杉が最も決定的な根拠として注目したのは、結びの「やまさきのいち(山崎の市)」で寄合を開くという箇所であった。 阿波忌部の子孫と称する人々が寄合を開く「山崎の市」とは、忌部神社の門前市に他ならず、すなわち山崎村に忌部神社があった動かぬ証拠である、というのが小杉の論理であった。 この説に対し、同年5月には折目義太郎らから「西端山の忌部神社を認定すべき」との異論が出されるなど論争は続いた。 さらに同年10月20日には、政府から「所在不分明につき官祭は行わぬ」という厳しい通達が下され、国家祭祀が停止される異常事態に陥った。 しかし、小杉が提出した三木家文書という強力な「物証」による検証が進んだ結果、ついに明治7年(1874年)12月、大政大臣・三条実美の名において次のような決定が下された。
「麻植郡山崎村鎮座天日鷲社ハ則旧忌部神社ナルヲ実検候ニ付自今該社ヲ忌部神社ト称シ祭典被行候(麻植郡山崎村に鎮座する天日鷲社が旧忌部神社と認められたので、これよりこの社を忌部神社と称して祭典を行うものとする)」
自らの理想(新設)を絶たれた小杉が、異常事態を打破するために三木家文書という「最強のカード」を切った結果、政府の公式な「山崎説」認定が下されたのである。
しかし、この山崎側の悲願達成は、在地神官である麻生氏にとって残酷な皮肉を伴うものであった。 国幣中社に決定した後の明治8年(1875年)2月に行われた祭典において、宮司に任命されたのは麻生秀俊ではなく、旧藩主の連枝である「蜂須賀隆芳」であり、権宮司には加茂百十が据えられたのである。 麻生秀俊が幼少からの不遇を跳ね返し、執念で由緒を守り抜いてついに国家認定を勝ち取ったにもかかわらず、「国幣中社」という国家祭祀の頂点に立った途端、神社の実権とトップの座は在地神官の手から離れ、国家(旧大名家)の管理下へと完全に吸収・簒奪されてしまったのである。 ここに、地域固有の信仰が近代国家のイデオロギーへと組み込まれていく冷徹な歴史の力学を見ることができる。
ここで、小杉の考証の最大の根拠となった『阿波御衣御殿人契約状』の史料的価値について整理しておかなければならない。 この文書には、「大坂半六」といった時代錯誤な名称が含まれていることから、18世紀末(江戸時代後期)に三木家の分家である庄屋武之丞によって作成された「偽作(偽書)」であると指摘する研究がある。 契約状の作為性を決定づける大きな矛盾は、その「集会の頻度」と「儀式の実態」の圧倒的な乖離にある。 天皇一代に一度(数十年に一度)という極めて稀な頻度で、かつ限られた分量の布を織る大嘗祭の荒妙調進のために、13人の阿波御衣御殿人が「毎年二回」も定時に市(山崎の市)へ集まり、多数決のルールや追放といった厳格な取り決め(契約)を継続的に確認し合うというのは、実務のスケールとしてあまりにも不自然でおかしい。 この明白な物理的・社会的矛盾をとっても、この契約状が中世の神事実務を記録した真正な古文書ではないことは明らかである。
一方で、この文書について次のように評する研究者もいる。 「中世文書としては文面に違和感があるものの、文意は明確であり、在地社会で作成されたものであるがゆえの表現の乱れや写し間違いがあるとするなら、必ずしも否定的にとらえるべきではない」。 この見解は、歴史の真相を突いている。 すなわちこの文書は、まったくのデタラメをゼロから捏造した「無価値な偽物」ではない。 文書に記された「13人の集団」とは、古代の麁服貢進をそのまま維持していた神事集団というよりは、日常的・継続的な商取引を行い、厳しい掟でカルテルを維持していた中世から江戸時代にかけて在地社会で活動していた三木家を中心とする和紙の生産・販売等の在地ギルドであったとみるべきである。 先ほどの引用文に記された生々しい掟は、架空の作り話ではなく、近世に活動していた彼らの「リアルな生活実態・ルール(同業者集団の寄り合いの掟)」そのものが投影されたものであったと考えられる。
この文書が作成された真の動機は、単なるギルドの権益防衛などではなく、三木家自身の「家名滅亡の危機」にあったと見るのが自然である。 寛政期(18世紀末)、三木家は庄屋職を失い、当主不在という一族存亡の絶体絶命の窮地に立たされていた。 没落を防ぎ、藩からの保護と特権を引き出すためには、他を圧倒する「絶対的な由緒」が必要不可欠であった。 そこで彼らは、自分たちの在地ギルドとしてのリアルな商取引の掟をベースにしつつ、それを「正慶元年」という過去に遡らせ、「大嘗祭の麁服を製作する御衣御殿人」という神話的ベールを被せることで、一族の正統性を証明する「証文」を創り上げたのである。 文書の結びに「山崎の市」を登場させたのも、当時、忌部公事で強大な早雲氏(川田)と激しく争っていた山崎側と結びつき、自らの政治的立場を確立するための高度な作為であったと考えられる。 三木家が滅亡の淵から這い上がるために放った、起死回生の由緒創出――それこそが、この文書の本当の姿であったと言える。
契約状の作為性をさらに決定づけるのが、結びに記された「山崎の市」の歴史的実態である。 当時、楮紙などの物流と実体経済の中心地は水運の要衝・川田であり、そこにはのちの住友家のような市場を仕切る特権商人が存在した。 もし山崎に広域ギルドを統制するほどの巨大な市があったならば、それを裏で取り仕切る大商人の名が歴史に残るはずだが、山崎にはその影が全く見えない。 すなわち「山崎の市」とは、強大な早雲(中川)氏に川田の実体経済を制圧され、対抗手段を失った在地ギルド(三木家など)が、中世の「御衣御殿人」という上位の由緒を強引に結びつけるために、文書上に捏造・誇張した架空の舞台(あるいは小さな集まり)であったと考えられる。 小杉榲邨が絶対の証拠とした記述そのものが、実は在地社会の激しい生存競争が生み出した虚構であった可能性が高いのである。
明治7年に山崎説の公式認定という敗北を喫したにもかかわらず、村雲義直らは決して諦めなかった。 ここで彼らの反撃が、内務省や東京裁判所を巻き込むような大規模な政治闘争へとエスカレートした背景には、「誇り高き本家」と「したたかな分家」の骨肉の争いという側面が存在する。 山崎忌部神社のトップがもはや分家の麻生氏ではなく、国家の威信を背負った「宮司・蜂須賀隆芳」に置き換わっていた。 「蜂須賀氏を戴く国幣中社」という強大な国家の出先機関を相手に由緒を覆すためには、もはや旧来の村落レベルの陳情では太刀打ちできない。 だからこそ彼らは必然的に「忌部郷人民惣代」という公的な大義名分を掲げ、東京在住の折目栄ら有力者を動員し、国政レベルでの総力戦を挑むほかなかったのである。
貞光側(端山説)は、次のような「物証」を盾に反撃に出た。
論争が激化する最中、貞光側の運動は国の再調査を不可避にする「決定的なスキャンダル」を引き起こす。 文書の所蔵者である三木貞太郎が、県に対して「三木家文書の契約状は贋造である」とする自首書を提出したのである。 この自首書は東京裁判所へと回送され、明治13年(1880)9月、小杉榲邨は裁判所からの呼び出しを受け、貞光村代表の折目栄が同席する前でこの衝撃的な事実を宣告された。 この出来事は、小杉榲邨自身が後年(明治36年)の雑誌『歴史地理』における回顧記事の中で克明に記録している確固たる史実である。 小杉は同記事の中で、この自首の裏には讃岐の細矢庸雄や貞光の折目氏らが計略を巡らせており、三木貞太郎は「一時の金銭に迷ひ、奸計に陥りて」嘘の自首をした大罪人であると激しく非難している。
真実がいずれにせよ、三木貞太郎のこの自首書は比定の行方を完全にひっくり返した。 最大の証拠であった契約状が所蔵者自身の証言によって崩壊したことで、山崎村側の主張は貞光村側と「どっこいどっこい」の状況に引き摺り下ろされた。 これを重く見た国は同年10月に再調査を決定し、古筆了仲・了悦の鑑定によって契約状は正式に「偽物」と判定されるに至る。 かくして明治14年(1881)1月、政府の決定は覆り、西端山の御所平が忌部神社の所在地として決定されることとなったのである。
江戸時代末期、吉野川流域の各社は、過去に血みどろの抗争(忌部公事)を経験したものの、良くも悪くもそれなりの棲み分けとバランスを保って落ち着いていた。 しかし、明治という新時代になり、小杉榲邨ら中央政府の調査官が「国幣中社」という絶大な権威と利権をちらつかせ、「たった一つの正蹟」を無理やり定めようとしたことが、地域社会の微妙な均衡を完全に破壊してしまったのである。 貞光側の神官たちを強烈に突き動かした原動力は、小杉が引っ張り出してきた「麻生氏(旧・山崎の村雲氏)」の存在に対する抑えがたい怨念であった。 弾圧されて山を追われ、泥水をすすりながらも「内山を守れ」という大宮司の遺言と「村雲」の姓を命がけで守り抜いてきた貞光の村雲氏(本家)からすれば、山崎の麻生氏とは、弾圧を恐れて由緒ある「村雲」の看板を下ろし、何十年も「二宮」の親戚を名乗って逃げ隠れしていた連中に過ぎなかった。
その彼らが、明治になった途端に中央の学者(小杉)と結託し、三木家文書という「外部の最強の武器」を利用して突如として忌部の本流を名乗り出た上に、最終的には蜂須賀氏に宮司の座を明け渡して国幣中社のおこぼれに預かっている。 「命がけで戦ってきた自分たちを差し置いて、あんな逃亡者たちに忌部の称号を奪われてたまるか」――この強烈な本家としてのプライドとルサンチマンが、かつては対立もあった美馬郡の神官たちを「反・麻生(反・山崎)」という一点において結束へと向かわせた。 明治の比定騒動は、単なる由緒の引っ張り合いではなく、「没落した本家」と「権力と結びついた分家」による、忌部一族の正統性を賭けた骨肉の最終戦争であったと言える。
この貞光側の「反・麻生」の激しい政治運動を、裏で学術的に支えた謎の人物がいる。 それが、貞光説(吉良名説)を理論武装した『忌部神社旧記』の編纂者、「中川清暁(なかがわせいきょう)」である。 小杉榲邨は彼を「美馬郡某村の者」とし、その記述を「最も精しきに過ぎたるは疑うべきの甚だしきなり(あまりに精緻すぎて逆に怪しい)」と強く警戒していた。 なぜ美馬郡の一介の神官が、これほどまでに忌部に関する詳細な知識を持ち、中央の学者を論争に巻き込むほどのもっともらしい由緒書を編纂できたのか。 その答えは、彼の「中川」という姓と、かつての権力闘争の歴史に隠されていると推測される。
中川清暁は、かつて川田村の種穂神社で忌部の祭祀権を独占し、阿波藩の中枢(早雲伯耆ら)と結託して絶大な権勢を誇りながら、寛政13年(1801年)に罷免されて没落した旧・早雲(中川)氏の末裔(あるいは傍流)であった可能性が高い。 川田村で特権と居場所を失った彼らは、かつて寛保年間に共に上京し、酒を酌み交わした「旧盟友」である貞光の宮内陣営を頼り、美馬郡へと移り住んだと考えられる。 彼らは武力や特権こそ失っていたが、中央の神祇伯(白川家)に出入りし、長年藩の要人と渡り合ってきた「忌部に関する膨大な知識」と「由緒書を編纂する高度なノウハウ」という強力な武器を持っていた。 新天地である美馬郡で生き残るため、彼らは自らの「知力」を貞光陣営に提供したのである。 彼らは、かつての宿敵であった村雲氏らの「吉良名説」を、自らの知識を総動員して極めて精緻に、かつ牽強付会に理論武装し、『忌部神社旧記』として書き上げた。
つまり、明治の比定問題において貞光側が提示した分厚い建言書や由緒書の背後には、かつて藩政期に最強の神官一族であった中川(早雲)氏の「没落インテリ神官の生存戦略」が隠されていたと考えられる。 特権を奪われた彼らが、その知識を売り物にしてかつての盟友の参謀となり、自分たちを切り捨てた体制や、復権を狙う山崎(麻生)側への復讐劇として暗躍していた。 この人間臭いドラマの構図こそが、忌部神社論争の真の奥深さを示している。
しかし、政治問題化した忌部神社の所在地論争は、これでも終結しなかった。 一時的に忌部神社の座を射止めた貞光の「御所神社」も元は地域の信仰の場に過ぎず、古代の名神大社であるという決定的な実体を何一つ持っていなかったためである。 こうなると、もはや学問的考証によって白黒をつける手立ては残されていなかった。 行き詰まった政府に残された選択肢は、かつて小杉榲邨が明治4年に主張していた「忌部神社の新設」による打開しかなくなる。 所在地論争は棚上げされ、最終的に明治18年、徳島市の眉山麓へ全く新しい忌部神社が新設されるという強制決着を迎えた。
小杉榲邨はその後、帝国大学教授、文学博士、帝国学士院会員という明治学界の重鎮へと登り詰めていった。 彼が構想したグランドデザインは、在地にとっては複雑な思いを残すものであっても、中央政府から見れば国家の威信を示す成果として評価されるものであった。 十数年の徒労と泥沼の政治闘争を経て、歴史は皮肉にも、小杉が最初に見抜いていた最も現実的な解決策へと回帰したのである。
その後、三木家は、実際に大嘗祭における荒妙調進の大役を担うことになるが、そこには未知の困難が待ち受けていた。 由緒の継承と技術の継承に断絶があったため、実際に「本来の麻布を織れ」と求められた段階になって、具体的な古代の製法を復元するにあたり大変な苦労に直面したと考えられる。 しかし、彼らが長年にわたり穴吹川流域や川田の地で培ってきた楮(こうぞ)の栽培・加工・製織の実業の技術は確かなものであった。 古代の麻の精製技術の完全な再現が難しかったとしても、地元に根付いた高度な加工技術を総動員することで、国家の儀式にふさわしい白く清浄な布を創り出すことは可能であった。
実態としては古代技術の直系というより、近代における高度なローカル技術の応用であったとしても、それが宮中の大嘗祭という場で結実したことにより、過酷な時代を生き抜くための独自の由緒主張が、県や地域社会を巻き込んだ総力戦の末に、揺るぎない「神聖な伝統」として歴史のなかに確立されていくことになった。
忌部神社の祭祀を担ったとされる「忌部五雲(早雲、村雲、岩雲、花雲、飛雲)」の存在は、三木家や当時の神職のネットワークを考える上で極めて重要な鍵となる。 近年、彼らが「ソラ(空)の世界」と呼ばれる剣山系の深山に住んでいたから「雲」の字がついたとする伝承が語られることがあるが、これを歴史地理や地形の実態と照らし合わせると、さらに豊かな背景が見えてくる。 彼らは単に深山に隠れ住んでいたわけではない。 彼らの本質を捉えるためには、吉野川流域から鮎喰川流域に至るまで広大に張り巡らされていた戦国期の「念行者(修験者)」ネットワークと結びつけて考える必要がある。 天文21年(1552年)の法度に記された十九方の寺坊には「河田 下之坊」が名を連ねており、修験者たちは大峰や高越山といった霊山への「代参」を独占して強固な経済基盤を築いていた。 彼らは時に三好氏を支える在地領主と結びつき、特務・情報機関として機能した強力な武装集団でもあった。 名門「早雲家」が川田八幡神社(元は水運の守護神・宗像三女神を祀る)で祭祀を行っていたように、彼らは孤絶した深山ではなく、物流と水運の要衝にしっかりと根を下ろしていたのである。
「雲」という家名は、天村雲命(天叢雲剣)に連なる神話的な由緒や、天候・雨・水運を司る特殊な職能を意味している。 貞光川流域の宮内地区に残る「飛雲」の墓石や、川田周辺の「天村雲神社」、そして山崎や貞光を拠点とした「村雲家」――忌部五雲の系譜は、こうした中世の激しい「縄張り(旦那場)争い」と軍事的ネットワークの中で力を蓄えてきた修験の血脈そのものであった。 水運の要衝である川田に忌部の名門神職が実在したという事実は、当時の宗教と経済のネットワークが吉野川の水系とどれほど密接に、かつダイナミックに結びついていたかを物語っている。 彼らが一つの大いなるネットワーク(五雲)を形成していた事実を理解すれば、江戸時代に起きた山崎(村雲)と川田(早雲)、そして貞光(村雲・飛雲)の抗争が、単なる神社論争の枠を超えた「修験者たちの生き残りを賭けた厳しい生存競争」であったことがより鮮明に浮かび上がってくるのである。
三木家がどのようにして独自の由緒を守り、公的な特権へと繋げていったのか。 そしてなぜ特定の神社の枠を超えた自立的な存在たり得たのか。 その実像に迫るためには、彼らを山間部における神事と実務(林業・和紙生産)を高度に担ってきた「神人(じにん)」的性格を持つ集団として捉え直す視点が有効である。 中世における神人とは、純粋な宗教者であると同時に、神聖な権威を背景として関所の免除などの特権を持ち、広域の物流や生業に関与する力強い集団であった。 三木家が奥山の木材や和紙を川下へ運ぶ水系物流の要を担っていたという実態は、この自立した性質と見事に符合する。 彼らは単一の神社に絶対的に従属するのではなく、吉野川流域の複数の神社と関わりを持ち、地域の祭祀と物資調達を支える存在であったと考えれば、種穂・山崎・御所のそれぞれの歴史に三木家の影が見え隠れする理由も自然と理解される。
天正10年(1582年)前後の長宗我部氏の侵攻による阿波の戦乱は、地域社会に甚大な被害をもたらした。 この危機に際し、平野部や吉野川沿いの神社が真っ先に戦火の標的となる中、窮地に陥った人々が、奥山(木屋平)という最も安全な拠点を持つ三木家に対し、重要な機密や古文書の保護と疎開を託したという構図が浮かび上がる。 後世に編纂された系図(川田町史・早雲氏家系図等)にも、長宗我部軍の侵攻を受けて川田村の在地領主であった住友家(土肥紀伊守の系統)の居城が陥落した際、幼い兄弟(のちの藤十郎・三十郎)が木屋平の三木氏のもとに身を寄せ、そこで匿われて成長したというエピソードが記されている。 このことは、三木家が単なる山の民にとどまらず、住友家のような有力な在地領主とも深く結びつく、あるいは同族的な繋がりを持つ避難所・保護者としての機能を果たしていたことを示唆している。 戦乱によって本来の神職や領主たちが離散するなか、三木家の人々が尊い文書や幼き命を救い出し、それらの記録や由緒を拠り所として後世へ繋いでいった。 これこそが、彼らが果たした最大の歴史的貢献の始まりであったと考えられる。
三木家に伝わる由緒書には、南朝・北朝の天皇や守護大名・細川氏からの安堵状など、きわめて高い格式を示す記述が含まれている。 当時の阿波の政治構造を踏まえると、山間部の在地勢力が中央の最高権威と直接結びつくことは非常に稀有な事例である。
このことは、三木家が歴史の荒波の中で一族の正統性を守り抜くために、在地の切切な伝承と中央の権威を見事に結びつけ、時代が求める形へと「由緒を統合・体系化」していった軌跡を示している。 過酷な環境を生き抜く在地集団でありながら、歴史の記述においては朝廷の神事を担う格式高い一族へと昇華されていく――この壮大なる由緒の編纂こそが、彼らをのちの大嘗祭の舞台へと押し上げる原動力となった。 彼らが中世の激しい動乱を生き抜けたのは、無謀な合戦に身を投じるのではなく、険しい木屋平の山中という自然の要害に拠点を置き、独自の生業を守り抜く賢明さを持っていたからである。 混乱から一定の距離を保ち得たからこそ、彼らは古い文書の束を散佚から守り、そこに記された神聖な記憶を自らの歴史として深く見つめ直す時間を持つことができたと推測される。
三木家の本拠地である木屋平をはじめとする穴吹川流域は、農耕地が限られており、生業の中心は木材と楮(和紙の原料)であった。 この環境で一族を養うためには、渓谷の険しいルートを下流の穴吹や川田、吉野川本流へと繋ぐ物流のコントロールを握る必要があった。 穴吹川は水量の変化が激しく水運が困難であったため、彼らは険しい峠や尾根道を熟知し、自らの足で荷を運ぶ「山越えのルート」を開拓した。 道なき時代において、山並みを自在に行き来できる機動力そのものが彼らの絶対的な強みであった。
村ごとに社会が分断されていた時代にあって、三木家はいくつもの峠を越えて各地域(山崎・種穂・貞光など)へ単独でアクセスできる数少ない存在であった。 この機動力と情報網があったからこそ、彼らは山奥にありながら孤立することなく、それぞれの地域の陣営に対して独立した確固たる立場を築き上げることができたと推察される。 また、吉野川から離れた麻植郡東端の曽川山(現在の吉野川市鴨島町曽川)も、十九方のリストに名を連ねる修験ネットワークの拠点であった。 彼ら曽川の修験者たちもまた、独自の連絡網を持ち、川田や山崎で繰り広げられる抗争を遠巻きに見つめながら、ネットワーク内の生々しい情報を中継する役割を担っていたと考えられる。 こうした広大で複雑なネットワークの存在が、当時の阿波の地勢に立体的な深みを与えているのである。
三木家が複数の神社の由緒や文書に関関与していた事実は、彼らがどこか一つの組織に縛られていたのではなく、広域のネットワークを持つ中核的な存在として、それぞれの地域と個別の深い関わりを持っていたことを示している。 もし彼らが単一の神社の「身内」であったなら、論争の際には自陣営を無条件で庇うのが常識である。 しかし、明治期の比定問題において、三木貞太郎が従来の枠組みにとらわれず、あえて貞光側(御所神社側)に対して自らに不利ともとれる証言を行った背景には、彼らのそうした「独立性」が関係していると考えられる。 彼らにとって最も守るべき絶対の使命は「荒妙調進という一族の特権と伝統の維持」であり、抛る目的を果たすためには、地域の枠組みを超えた独自の判断を下す決断力が必要だったのである。
三木家が由緒の主張へと大きく傾斜していく背景には、一族の存亡を懸けた経済的な転機があった。 江戸初期から前期にかけて、彼らは阿波山間部における和紙生産と林業の実体経済を握り、地域を牽引していた。 当時の彼らにとって、家に伝わる太政官符などの文書は、一族の誇りを示す大切な「家宝」として蔵に納められていれば十分だったはずである。
しかし、17世紀終わりに庄屋職を失うなど、寛政期にかけて三木家は当主の不在や経済的困窮という深刻な危機に直面する。 近年の史料調査が示す通り、この絶望的な状況下で一族の存続を懸けて藩へ陳情を行い、蔵の奥に眠っていた古文書と独自の由緒書を提出したのは、残された未亡人と娘たちであった。 藩主・治昭の時代は、藩祖の神格化や由緒が極端に重視された時代である。 彼女たちは、かつては単なる「古い記録」であった太政官符が、この時代においては一族を救う「公的な特権の証明」になり得ることに気づいたのである。 実体経済の基盤が揺らぐ中、女性たちが中心となって家伝の歴史を再編・体系化し、新たな由緒の公認を求めて立ち上がったその姿からは、家名を守り抜こうとする途途もない執念と深い叡智が浮かび上がる。
ここで特筆すべき史料として、朝廷から阿波国司へ宛てて下された延久二年の太政官符(1070年)の存在がある。この官符には、忌部神と天石門別八倉比売神に対する祭典の怠慢を咎める内容が記されているが、宛先は「阿波国司」であり、祭祀の直接の担い手として「禰宜・祝部等」という役職名が記されるのみである。時代的に「早雲」や「三木」といった後世の家名が存在しないのは当然としても、注目すべきは祭祀を独占していたとされる「忌部」などの特定の氏族名すらそこには一切記されていないという点である。この官符は三木家文書には含まれていない。これらの事実は、古代における祭祀があくまで国家やそれに紐づく「役職」によって担われており、のちに各神官や三木家が主張した「古代からの特定の血脈による祭祀の独占」という由緒が、古代からそのまま連続しているのではなく、中世以降の過酷な生存戦略の中で後天的に構築・創出されたものであるという本稿の仮説を強く補強するものである。
しかし一方で、この延久二年の官符は、特定の血脈とは結びつかないものの、「阿波国の忌部神に対して、朝廷から厳格な太政官符が実際に下されていた」という確固たる歴史的事実を示している。三木家が後世において一族の窮地を救うために由緒を創出し、彼ら独自の文書群を提示した際、それが江戸後期の知識人たちに疑いなく受容されたのは、阿波という地に「中央からの本物の公文書が下される」という確かな歴史的素地が元々備わっていたからである。その歴史的土壌があったからこそ、彼らが構築した物語に圧倒的なリアリティと説得力が宿ったと解釈できる。
さらに、この延久二年の太政官符は、阿波国の二大社(忌部神・八倉比売神)が11世紀後半までは国家の祭祀体系(国衙祭祀)の中に確かに実在していたことを証明している。しかし、この官符に記された「祭祀の怠慢(供物が官庫で埃をかぶる状態)」は、平安末期から鎌倉時代にかけて進行する国司制度の形骸化と、公的な祭祀体制の崩壊の始まりを如実に示す兆候でもあった。中世以降、朝廷や国司という「国家の巨大な後ろ盾」と定期的な経済基盤を失ったからこそ、在地の神官たちは自ら険しい山々を駆け巡る「修験者(忌部五雲)」となり、命がけで自らのテリトリー(旦那場)を防衛する自立した武装集団へと変貌せざるを得なかったと考えられる。そして、公的な証明書(新たな太政官符)が二度と発行されなくなった激動の時代を生き抜くため、彼らは過去の「本物の公文書」を核としつつ、自らの手で独自の由緒書を編纂・創出し、時の権力者に正統性を認めさせる道を歩み始めたのである。国家祭祀の消滅という歴史的断絶こそが、在地社会を苛烈な生存競争へと駆り立て、「由緒の再編」を強烈に促した最大の原動力であったと言える。
三木家が提示した文書群が持つ最大の力は、「朝廷の公式儀式として麁妙が阿波から献上されていた」という厳然たる事実を示す本物の太政官符と、そこに連なる「独自の由緒書」とが、見事に一つの世界観として結びついている点にある。
さらに特筆すべきは、彼らが神話的な記録だけでなく、年貢の記録や水利の取り決め、神社運営に関わる生々しい実務文書までを大量に保全していたことである。 単なる伝承の羅列であれば、後世の学者に疑問を持たれやすくなるが、地域に根ざした確かな生活の記録の中に由緒書が位置づけられることで、文書全体に圧倒的な「リアリティと歴史的重み」が宿ったと考えられる。 動かぬ証拠である太政官符を中核とし、一族の歩みを時代に合わせて体系化したこの史料群は、決して表面的なものではない。 阿波の厳しい自然と在地社会を生き抜き、尊い歴史の証をどうにかして後世へと手渡そうとした、彼らの途途もない情熱と深い知恵の結晶と言えるのである。
江戸後期に成立した地誌『粟の落穂』は、本居宣長の『玉勝間』の説を引いて太布を「穀(コウゾ)の皮から織られた布」と捉え、天保13年の祖谷山での実見を交えながら考証を進める一方で、「麻植郡三木村の三木氏が所蔵する古文書(四十余通の官符)に、大嘗会の料として忌部氏に織らせた旨が記されている」という情報を、疑いもなく受け入れている。 この受容のあり方には、三木家文書の存在感と、当時の知識人が歴史と向き合う姿勢が表れている。
第一に、実見に基づくリアリティが由緒を補強する仕掛けである。 『粟の落穂』の筆者が祖谷山に赴いて実際に太布の生産・使用の実態を目撃したというエピソードは、それ自体高い史料的価値を持つ現地調査の記録である。 この現実の風土の説得力が、そのまま「だから三木家所蔵の四十余通の官符と忌部の由緒もまた確かなものに違いない」という論理を補強する力として働いた。 現実のテキスタイル(太布の存在)と家蔵の文書(由緒書)が地誌のなかで結合することで、「三木家=古代からの忌部の正統」という言説が、江戸後期にはすでに確固たるものとして形作られていたことがうかがえる。
第二に、江戸期の国学・地誌が抱えていた「古文書への強い信頼」である。 当時の国学者や郷土史家にとって、家に代々伝わる官符の束は、現代のような文書鑑定の対象ではなく、畏敬をもって迎えられるべき証拠であった。 彼らは、四十余通という物量と、太布という現実の布を前に、それを尊い考証の素材として歴史記述のなかに組み込んでいったと考えられる。
戦国の動乱、とりわけ「天正の兵火」による記録の焼失という阿波の歴史的経験は、裏を返せば「それ以前の古い文書が極めて少ないからこそ、残された数少ない文書には絶対的な価値がある」という希少価値を生み出した。 三木家が提示した文書群は、失われた歴史の空白を埋めてくれる唯一無二の存在に見えたため、当時の学者たちは、それを拠り所として歴史を再構築していくほかなかったと考えられる。
さらに阿波国には、出雲や播磨、肥前などとは異なり、古代の地誌や神社の由緒を体系的に検証するための基準となる『風土記』がまとまった形では残されていない。 一部の逸文(断片的な記述)は伝わっているものの、「古代にどういう信仰があり、どういう組織があったか」という全体像を客観的に把握するためのマスターデータとしては不十分であり、阿波の古代史は共通の強固な物差しを持たない状態に置かれている。 中世の一次資料が失われ、『風土記』のような古代の明確な基準も乏しいという「歴史の真空地帯」こそが、国学者たちの探求心、明治以降の郷土史家たちの情熱、そして三木家が編纂した由緒のストーリーが、互いに結びつき、壮大な「阿波忌部神話」を形成することを可能にした最大の土壌であったと考えられる。 記録が失われたからこそ、残された数少ない文書が絶対的な権威を持ち、それぞれの時代の要請に応じた解釈が定着するようになった、というのが本稿の到達した見立てである。
本稿で辿ってきた経緯を改めて振り返れば、忌部公事から明治期の比定問題、そして三木家文書の謎に至る一連の歴史は、単発の事件の集積ではなく、いくつかの共通する構造によって貫かれていることがわかる。
第一に、社会の激動期に、在地の集団がその都度の状況に適応し、巧みに生存を図ってきたという構造である。 「場所」と「血脈」が分離した戦国期以降、本家としての誇りに殉じた貞光の村雲氏、政治力で実利を握った川田の早雲氏、そして弱さゆえにしたたかに権力を泳ぎ切った山崎の麻生氏と、それぞれが全く異なる生存戦略をとったことが悲劇を生んだ。 早雲氏は阿波藩の権力中枢の変化を読み取りながら立場を築き、三木家もまた、実体経済の危機に直面した際、藩や明治期の中央学者といった新たな時代の要請に応える形で由緒を再構築し、一族の伝統を守り抜いた。 第二に、公式記録・学術的権威が、複雑な歴史的現実を「要約」あるいは「新たな枠組みの創出」によって再編してきたという構造である。 『阿波志』による半世紀の抗争の簡略化、そして小杉榲邨による眉山への新設という「解決」は、いずれも在地の複雑な実態を、中央にとって秩序だった物語へと整理する作業であった。 第三に、在地の民衆や関係者が、こうした大きな権力構造や歴史の転換点のなかで翻弄されてきたという構造である。 箱訴に踏み切り獄死した山崎村民、複雑な立場に立たされた三木貞太郎、そして情報戦に翻弄された折目氏――いずれもが、時代というより大きなうねりのなかに巻き込まれていった。
本稿が示した数々の解釈のうち、確実な史実として跡付けられる部分と、状況証拠を組み合わせた推論にとどまる部分とは、性質を異にする。 後者はあくまで、断片的な史料の間隙を埋めるための一つの解釈の試みであり、今後の一次史料による検証を必要とする仮説であることを、改めて付言しておきたい。
最後に改めて強調しておきたいのは、三木家が阿波の歴史において果たしてきた多大な貢献である。 幾多の戦乱や激動の時代を乗り越え、第一級の史料である「三木家文書」を今日まで守り伝えてきた彼らの努力は、歴史的快挙として高く評価されなければならない。 そして、大正大礼から現代に至るまで、大嘗祭における麁妙調進という神聖な実務を担い続け、阿波徳島という地域が持つ歴史的権威と誇りを全国に示してきた功績は、揺るぎない事実である。 本稿が提示した「山の民」や「由緒の再構築」といった仮説は、彼らの高貴な血統や伝承の価値を否定するものではなく、むしろ過酷な歴史の荒波の中で、彼らいかに知恵を絞根て生き抜き、結果としてその神聖な役割と文書を現代へと繋ぎ止めたかという、人間の力強い営みの側面を描き出そうとするものである。 阿波忌部氏をめぐるこの一連の物語は、由緒や伝統というものが、単に過去からそのまま受け継がれるだけでなく、過酷な時代を生き抜く人々の切実な思いと、時代の要請の中で絶えず再構築され、力強い生命力を得ていくものであることを、鮮やかに示す事例であるといえよう。
本稿の考察において引用、および参照した主な史料・文献は以下の通りである。